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5.

 蔵からの帰途、少しでも気を落ち着けようと、あの日と同じファミリーレストランに入りました。ドリンクバーとデザートを注文して、じっくりと考えをまとめました。

 小一時間ほども居たでしょうか。

 やがて卓の上のコップが、お皿が、伝票入れが、メニューが、そんな何もかもが、ぐるぐると回り始めました。テーブルの一点に渦が生じて、全部がそれに巻き込まれているかのようでした。

 ああ、やっぱりなと思いました。

 来るべきものが来た。恐怖よりも先に、そんな感覚がありました。

 私はすぐに会計をして、移動を始めました。

 良介の話から、あの渦がすぐ追いついてくるものではないと判っています。

 一体それがどれくらいの速度で動けるのかまでは知れません。けれど追いつかれない限り、ある程度は安全だろうと思います。

 でも、でもそれでも、逃げ切る事は叶わないでしょう。ええ、それも判っています。

 自分でも驚くくらいに、頭の中は冷たくて静かでした。

 末路を悟って覚悟を決めたのとは、少し違っているような気がします。目の前で良介が死んで、その時にきっと私の心も壊れてしまったのでしょう。


 私は今、電車の中でこれを書いています。

 こうして文章としてこれまでの出来事をまとめれば、良介が言っていた通り、渦の行動にもいくつかのルールがあるのだと推察できました。

 おそらく、あれは自分では自由に動けないのでしょう。

 もしどんな場所にも現れる事ができて、どんな人間をも渦に巻き込んでしまえるのなら、私たちに固執する必要はないからです。人間なんて、それこそどこにでもいるのですから。

 では渦は、どこへなら現れられるのでしょうか。その答えは簡単です。

 最初の縄は蛭田さんをとらえました。渦は蛭田さんを呑み込みました。

 蛭田さんの縄は良介をとらえました。渦は良介をぐるぐる回しました。

 そして良介の縄は私をとらえました。渦は今、私を追ってきています。

 きっと、そんなふうに縄で目印した人のところにだけ、あれは来訪できるのです。人縄とは保存食であり、餌食(えじき)を獲る為の道具であり、移動の為の手段であったのです。

 次の標的を捕えない限り、あれは最後の場所から離れられないに違いありません。でなければ、あの蔵に閉じ込められたままでいる理由などないのです。

 私たちが出会った、最初の縄。

 かの人物が勇気や義侠心に富んだ人間だったのか、無理矢理に役を押し付けられた生贄だったのか、本当のところは知れません。けれど彼がその身を呈して、渦をあの蔵に閉じ込めたのは確かでしょう。

 そうして以降、誰も蔵には近寄らなかったのです。だからあれはそのままそこに居たのです。そこで渦巻いているしかなかったのです。

 愚かにも、私たちが解き放ってしまうまで。



 良介も、おそらく私と同じこの結論に辿り着いていたのでしょう。だからこそ怯えたのです。

 重ねてになりますが、あれは最後の場所から離れられません。

 つまり蔵で良介が失敗した場合、彼は人も通わぬ山の中で渦に呑まれてしまう事になります。そこで縄にされる事になります。きっと渦を蔵に封じた人と同じように扱われるでしょう。

 保存食として、次の機会を得る為の道具として、そして慰みものとして。


 ──短い方で二十年、閏を考えなければ7300日。

 ──概算で一日0.06mmずつだと? くそ、くそ! 冗談じゃない!


 死ぬほどの苦しみを味わいながら死ねない。その年月を思って、良介は怯えたのです。


 ──次善の策を残しておきたい。もし俺がしくじったら、お前を当てにするしかない。

 ──最悪でも瑞穂が来てくれる。


 それは私を信頼したのでも、愛情から後事を託したのでもありませんでした。ただの保身でした。

 蛭田さんが渦に呑まれた後、あれの道具は蛭田さんの頭に変わっています。そこから良介は、次が現れれば前任は解放されるのだと、死ねるのだと見当をつけたに違いありません。

 事実私を捕えたのは蛭田さんではなく良介の縄でしたから、恐らくそれで正解のはずです。


 最寄駅で電車を降りると、私はタクシーを呼び止めました。ほんの数分の距離でしたが、徒歩では家に着く前に、渦に追いつかれてしまうのではないかという恐怖感がありました。

 運転手さんにはできるだけ急いでくださいとお願いをして、代わりにお釣りは受け取らずに車を降ります。

 自室に着くなり、私はパソコンを立ち上げました。

 電車での移動の間に、これまでの経緯(いきさつ)を包み隠さず、全て文章に起こしておきました。

 インターネットに接続すると、あちこちの掲示板に私はコピーしたそれを貼り付けていきます。誰かがこれに興味をもってくれるように、これを読んでくれるように、これを信じてくれるように祈りながら。


 ──いいえ。


 祈りながらではなく、呪いながら、の方が正しいでしょう。

 これは皆に危険を報せたり、どうかしてあれを退治してくださいと願うがゆえの情報提供ではないのですから。

 つまりは、次善の策なのです。

 こうしたオカルトめいた話は人の好奇心を(あお)るものです。そして好奇心に踊らされる人間は、決して少なくはないのです。

 書き込みには私の部屋の住所までもをきちんと記しておきました。だから誰かがきっとやってくるはずです。覗きにやって来てくれるはずです。

 そうすれば、そうなれば、私の番はすぐに終ってくれるでしょう。


 そこでふと気がついて、私はドアの鍵を開けに行きました。危うく戸締りをしたままにしてしまうところでした。部屋に入ってきてもらえなくては意味がないのですから、気をつけなければいけません。

 そうして良介が、蛭田さんの部屋には鍵がかかっていなかったと言っていたのを思い出しました。それは多分、こういう事だったのでしょう。

 縄になってしまった良介が、私を認めて見せた安堵の表情。その意味が、その気持ちが、今なら痛いくらいによく解ります。

 さあ、見に来てください。確かめに来てください。

 ここですよ。ここで渦巻いています。ここに渦を巻いています。

 怖いですか? 臆病ですよ。だってこんな話、ありえないでしょう? 大丈夫ですよ。大丈夫。大丈夫。大丈夫。怖い事なんて何ひとつもないのです。痛いのだってきっとほんの少しだけです。


 私はそっと微笑みました。

 渦に巻かれた人が長く苦しまないように、アフターケアだって万全です。

 書き込みに誘われてやって来るのは、きっとひとりふたりではないでしょう。わずか数分の差でここに着く、という事だってあるかもしれません。そうしたら、ひとり分の時間はとても短いはずです。

 もし渦に巻き込まれてからここを逃れた場合でも、私をモデルにして、同じように自分の最後の場所をネットに書き込む時間くらいはあるでしょう。

 発端の私の話はきっと残っているはずですから、関連性のある続き物として、それは一層の興味を引くはずです。そして好奇心は人を呼び人を集め、猫ばかりでなく人を殺すのです。

 ですから、大丈夫。

 ひとり分の時間は、そう長くならないはずなのです。ちゃんと次善の策が機能し続けるように熟慮してあるのです。

 そうして私の祈りは呪いを(はら)んで、ぐるぐる回っていくのです。ぐるぐる巡っていくのです。蔵から蛭田さんへ、蛭田さんから良介へ、良介から私へ、回り巡った流れを継いで。

 あの夜、錠を壊してしまった事を思い出して、私は暗く微笑みます。

 あれはなんとも暗示的な偶然でした。私はこうして渦を解き放つものとして、始めから定められていたのかもしれません。そう思うと心が楽になるようでした。


 諸事万端を整えて、ほっと息をついたところで、あの耳鳴りが始まりました。

 私が立ち上がるのと殆ど同時に、座卓が、机が、椅子が、本棚が、滑るように回り出しました。慌てて飛び乗ったベッドも、その例外ではいられません。

 渦は良介を呑み込んで、ますます大きさと強さを増したようでした。もう抗いようもないその力に、私はぐるぐると翻弄されます。

 そうなってから、突然に恐怖が蘇りました。心が壊れてしまっただなんて、いざとなれば嘘でした。

 死にたくありません。本当は死にたくなんてないのです。

 良介の最後が頭を過ぎりました。

 手をもがれて、足を取られて、胴を削られて、骨を外されて、内臓をむき出しにされて、頭だけを残されて。

 目を潰されて、耳を削がれて、鼻をひしゃがれて、歯を全てへし折られて、ただただ苦痛だけを与えられて。

 あの渦の中で。渦の奥で。渦の向こうで。


 ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。


 回り続けるのです。ずっと。


 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


 いつともしれない終わりが来るまで、永遠に。

 嫌です。嫌です。嫌です。

 私はあんなふうになりたくありません。あんなふうに、ぐるぐる回されたくなんかありません。ほんの少しの()だって、あんな目には耐えられそうもありません。

 座卓が渦に呑まれていきます。小さいけれど、良介と一緒にご飯を食べたりもした、思い出のあるものでした。机と椅子がそれに続きました。それなりのサイズがあるものなのに、どちらも音すら立てずするりと一呑みにされました。

 次は本棚です。

 私の背丈を越す大きさとなると、流石に咀嚼(そしゃく)が要るようでした。置かれていた本と破片とを撒き散らしながら、棚は圧縮され、削られ、研磨されて消えていきました。

 木の葉のように揺れるベッドへ、私は必死にしがみつきました。振り落とされない事に意味があるとは思えませんでしたが、それでも何かに(すが)らずにはいられなかったのです。

 けれどそのベッドすらも、どうしようもない強さと速さで、とうとう渦の中心へと落ちていこうとしています。運命の終着に呑まれていこうとしています。


 どうしてこんな事になってしまったのでしょう。私たちはそんなに悪い事をしたのでしょうか。

 強い後悔が胸を焼きます。どうして渦に呑まれる前に、自分で死んでしまわなかったのでしょう。強く鋭く決断していれば、ちゃんとそこで終れていたのに。

 私はどこかで「ひょっとしたら自分だけは」なんて考えていたのかもしれません。「自分はなんとかなるはずだ」なんて思っていたのかもしれません。その結果がこれでした。

 今この瞬間にも気が触れてしまうようにと願います。そうすればもう、何も考えなくて済むからです。何も感じなくて済むからです。


 私はぼろぼろと泣きました。

 死ぬのが恐ろしくて。

 死ねないのが怖くて。

 判っていたつもりでした。諦めたつもりでした。覚悟したつもりでした。

 でも嫌です。やっぱり嫌です。嫌です、嫌です。

 私はあんなふうにはなりたくないのです。

 私はぐるぐる回りたくなんてないのです。

 嫌です。嫌です。嫌です。

 助けてください。誰か、助けてください。

 助けて、助けて、助けて、助けて、たすけて、たすけて、たすけて、たすけて、たす















「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」 

















                                    ──ぐるぐる回る 了

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