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4.

 そのまま眠らずに、朝早く家を出ました。蔵へと続く登り口へは、電車とタクシーを乗り継いでやってきました。

 途中で幾度も、それこそ胃液しか出なくなるくらいに吐きました。それでも行かなければならないと、私は覚悟を決めていました。


 ──終ったら電話する。


 そう言った良介とは、今も連絡がつきません。つまり失敗したのでしょう。であるならば、私が錠をかけなければならないのです。私が、良介の次善の策なのですから。

 正午も近くなりましたが、天気は生憎のうす曇りで日の光も差しません。行く手への悪い予感が、一層に深く立ち込めるようでした。

 少し迷いながらも草いきれを踏み分けて行けば、やがてあの白壁が、全ての元凶である蔵が見えてきました。

 手足はがくがくと震え出して止まりません。すぐにも逃げ出したくなる気持ちと吐き気とを抑えて、私はそれを睨みます。

 するとどうでしょう。思わぬものが見えました。

 駆け寄って確かめれば、もう間違いはありません。蔵の扉には、しかと錠がかかっているのです。それは黒くずっしりと重い、堅牢この上ないふうの錠前でした。


 想定外の状況への驚きは、すぐに安堵に変わりました。

 良介は上手くやってのけていたのです。

 でも──それなら連絡がとれないのはどうしてでしょうか。ふっと湧いた不安を、(かぶり)を振って私は打ち消しました。

 昨日の良介は、大分混乱しているようでした。その状態で一仕事をやってのけたのです。疲れと安堵のあまりとで、仮眠用の毛布に(くる)まって、車中で前後不覚に眠り込んでいたとしたっておかしくはありません。

 また或いは、私と入れ違いに都内に帰っている可能性だってありました。今は私の電話が圏外になっているはずですから、連絡がつかなくて、良介はやきもきしているかもしれません。


 早く帰ろうと私は思いました。

 怖いものは、あの恐ろしいものはもう、扉の奥へ押し込めてあるのです。

 強行軍になるけれど、今から戻ればスーパーの閉店前には戻れるでしょう。良介の無事を確認して、ふたりで夕食の買い物に行って、それでから一緒にご飯にしよう。(ねぎら)いを込めて、彼の好きなものを作ってあげよう。

 微笑んで(きびす)を返したその時、強く耳鳴りが起こりました。世界が向こう側に吸い込まれていく、あの感じが始まりました。

 私は数歩よろめきました。足元の草の葉が、渦の力に耐え切れずに引き千切られていきます。強い風が渡る折のように、木の枝枝がみしりみしりと軋みます。

 渦は最初のあの晩よりも、格段に力を増しているのでした。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 笛のような悲鳴が響いて、重いものが私のお腹にぶつかりました。突き倒されて私は尻餅をつき、背を強く、蔵の扉に打ち付けました。衝撃で一瞬息が止まります。

 そして。

 痛みに顔をしかめる私の目に、それが映りました。

 私の足の間にごろんと転がったそれは、恋人の首でした。良介の頭でした。

 手も、足も、胴もありません。全部()ぎとられて、何もかもこそぎ落とされて、頭部と縄状の器官が残るばかりの姿です。想像も出来ないような苦痛に苛まれて血走る彼の瞳は、けれど確かに私を認めて、強く安堵の色を浮かべたました。


 ずるり。


 その安堵の意味を解する間もなく、良介の頭が遠ざかりました。縄が手繰られたのです。良介は渦の中心へと引き戻されていきます。


「──ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 渦に巻き込まれた頭部は、ぐるぐるぐるぐると回ります。それにつれて悲鳴は、波のように強弱するのでした。

 喉がからからに乾涸(ひから)びて、声のひとつも出ませんでした。腰に力が入りません。立ち上がる事もできません。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


 そんな私めがけて、また良介が投じられました。今度は狙いが外れ、頭は手前の土を(えぐ)って跳ねました。勢いは損なわれずそのまま蔵壁にぶつかって、嫌な音で良介の鼻が潰れます。さっきよりも高い悲鳴が上がりました。血痕がくっきりと、白い壁に残ります。


 ずるり。


 間を置かず、縄が手繰(たぐ)られ始めました。またも悲鳴が上がります。焦点を失った良介の目玉が、ぎょろぎょろ動き回るのが見えました。


 ずるり、ずるり。

 ずるり、ずるり。ずるり。


 首は、ゆっくりと引き戻されていきます。

 不思議な事に、縄の部分は渦の影響を受けないようでした。頭が渦の中心まで至って初めて、人縄はぐるぐると回りだすのです。そして十分な遠心力を乗せてから、私へ向けて投じられるのです。

 その投擲(とうてき)の狙いは、さして正確ではありませんでした。私の体を逸れて、蔵の壁や地面に打ち当たるのも度々です。けれどまるでお構いなしに、行為は際限なく、飽く事なく繰り返されるのでした。そしてその一投ごとに、高く高く良介の悲鳴が上がるのです。

 私は自分の頭を抱えて体を丸めて、ただただその暴威に晒されるばかりでした。人間の頭部は十分な質量と硬度を備えた凶器でした。幾度となく良介がぶつかった私の腕は、もう(あざ)だらけになっています。


「痛い、痛い、やめてください。お願いです、やめて。もう、やめて……!」


 いつしか許しを請うていました。

 そのお陰というわけではないのでしょう。けれど唐突に、恐ろしい反復行為は不意に終りを告げました。泣きじゃくるばかりの私に飽きたのかもしれません。

 ですが無論、それで渦と良介が消えてなくなってくれるわけではありませんでした。

 痛みが飛来しなくなって恐る恐る腕を(ほど)くと、まだ渦の中心で良介が回ってるのが見えました。回され続けているのが見えました。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」 


 一体どれほどの苦痛なのでしょうか。悲鳴は止む事を知らずに続きます。


 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。

 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


 甲高く泣き叫ぶその姿は、ひたすらに恐ろしいものでした。もし地獄というものがあるのなら、これがそうだと思いました。私はもう何も見たくも聞きたくもなくて、胎児のように膝を抱えて丸くなります。


 良介は馬鹿です。

 少し考えれば判ったはずです。

 蔵の奥に居たものは、もうとっく外に出てしまっているのです。蛭田さんが渦に呑まれてしまったのだから、それは自明の事です。なのに、だというのに、良介は何も考えずにただそのまま、蔵の扉に錠を下ろしただけだったのです。

 空っぽの蔵に封をしてどうなるというのでしょう。閉じ込めたいものは、もう中にはいないのに。

 良介は、馬鹿です。

 涙が(あふ)れて止まりません。


「いいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」


 私が膝を抱くそのうちに、悲鳴の調子が変わりました。それは先ほどよりも更に切実に苦痛を訴えるものでした。

 伏せた顔をそっと上げると、ぐるぐる回るその半径が、明らかに短くなっているのが判りました。


「いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


 高い悲鳴が上がるそのたびに、渦の向こう側へ吸い込まれて、縄が短くなっているのでした。

 またしても繰り返されるその光景を見るうちに、恐ろしい想像が鎌首をもたげました。ひょっとしたら一回で引き込まれるその長さは、渦の奥底、その向こう側に居るものの、丁度一口分になるのかもしれません。


「いぃぃぃぃぃぃいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」


 食べられているのです。生きながらに。さもなければあんな声は出ないでしょう。

 けれど、そんなになっても死ねないのです。

 人の精神はどれくらいまで痛みに耐えられるものなのでしょうか。良介の心が早く壊れて何も感じなくなるようにと願いました。


 ──なら1時間当たり47cmか。

 ──くそ、遅すぎる。そんなにゆっくり殺されるのか。


 良介の言葉が蘇ります。

 ただ、幸いにも、というべきでしょうか。殺されるまで速度は、良介の計算よりも大分早いようでした。

 やがて縄が呑まれて全て尽きると、ついに良介の頭も渦の中に消え失せました。

 最初の夜に蔵で見た、頭像たちと同じ末路でした。やはりごりごり、ばりばりと、向こう側で咀嚼する音が聞こえます。

 ひとつだけ違うのは、肉を噛み裂かれ骨を噛み砕かれる良介の悲鳴もまた漏れ聞こえてくる事でした。たまらなくなって私は、再びぎゅっと目を閉じて、両手で耳を塞ぎます。それでも陰陰と響く苦痛の声は、全身に絡みついて離れません。

 一体、どれくらいの時間が過ぎたでしょうか。

 ふっと音が絶えて顔を上げると、渦は跡形もなく消えていました。渦巻きの形になぎ倒された草と僅かの血痕の他は、何も後には残っていません。

 私がどうにか立ち上がったのは、夜の(とばり)が落ちてきてからの事でした。助かっただなんて、勿論少しも思いません。

 だって、私ももう渦に巻き込まれてしまったのです。

 それははっきりと判っていました。

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