3.
それから一週間が過ぎました。
恐怖は少しだけ薄れました。蔵での事を夢に見て、飛び起きる回数も減りました。
良介と蛭田さんとはあれ以来顔を合わせていはいません。でもそれは仕方のない事でしょう。会えばあれを思い出してしまうのです。お互い気まずく苦しいばかりで、会話が弾むはずもありません。
良介から突然の電話がきたのは、そんなある日の夕暮れにでした。
「先輩が死んだ」
開口一番そう言われました。先輩という言葉が蛭田さんを指すのは、やはり無論の事でした。
「『渦に巻き込まれてしまった』。先輩はそう言っていた。やっぱりあの蔵がまずかったんだ」
渦。
その言葉の意味もまた、即座に理解できました。良介が言うのは蔵に蟠っていた、あの渦に他ならないのです。
やり過ごしたと思ったものが這い出てくる感触に、私は立ちくらみにも似た感覚に襲われました。
「いいか、瑞穂。いいか、落ち着いて聞いてくれ」
返事をしない私を気遣って、良介は優しい声を出しました。
「あの蔵をあのままにしておくのはまずい。先輩はそう思ってた。俺も同意見だった。お前は怖がるだろうから、俺たちだけであの蔵の扉を閉じに行こうって、そうふたりで決めていた」
良介はそこで一度、言葉を切りました。
話すべきかどうかを決めあぐねるようでしたが、やがて決断して続けます。
「……先輩の身には、あの翌日からおかしな事が起こっていた。部屋に見えない渦が現れて、物がぐるぐる回りだすようになっていたそうだ」
蔵での事が脳裏に浮かびました。
ぐるぐると回る人縄の像。やがてそれは渦に呑まれて、ばりばりと音を立てて砕けてしまうのです。
「しかも時間が経つにつれて、渦は大きく強くなった。最初はテーブルの上の小物が動く程度だったのに、そのうち冷蔵庫や洗濯機の位置がずれるくらいになってたそうだ。加えて渦が先輩を追いかけるようになった。出先にも、ちょくちょく渦巻きが現れるようになっていたらしい。
先輩は『流石にあれに呑み込まれたらどうなるのかは、ちょっと想像したくないね』なんて呑気を装っちゃいたが、やっぱり気持ちは追い詰められていただろうと思う。
そんな次第だったから、とにかく出来るだけ早く蔵を閉じに行こうって話になっていたんだ。元々のあの錠は修理できなかった。だからなるたけ頑丈な新しいのを先輩が手配していた。今日の昼に出来上がるそれを受け取って、その足で俺と合流して、蔵へ向かう。そういう手筈になっていた」
吐き出すようにそこまでを語って、良介は口を噤みました。
降りた沈黙を縫って、良介の側の物音が漏れ聞こえてきます。良介が居るのは車の中、つまり運転しながらの通話のようでした。いつもなら危ないよと咎めるところですが、そんな余裕は今の私にはありません。
「けど、いつまで待っても先輩は待ち合わせ場所に来なかった。先輩は時間には正確な人だ。お前も知っての通り、今までに一度だって遅刻なんてなかった。だのに来ないんだ。こんな大事な約束なのに。電話を入れても繋がらなくて、不安になって部屋に行った」
携帯電話を握る手に、じっとりと汗が滲みます。唾を飲む自分の喉の音が、ひどく大きく響きました。
「部屋の鍵は開いていた。中はぐちゃぐちゃになってたよ。まるで竜巻の通り過ぎた後みたいだった。先輩を呼んでみたが返事はなかった」
蛭田さんの部屋には、一度良介と一緒にお邪魔した事があります。私と同じく一人暮らし用のワンルームでした。手狭さから考えても、在室なら声をかけられて気づかないはずがありません。
「悪いと思ったが靴のまま入らせてもらった。真新しい錠前が、投げ出したみたいに床に転がっていた。先輩は、どこにもいなかった」
続ける良介の声が暗い気配を帯びました。
──渦に巻き込まれてしまった。
先ほど聞かされた、蛭田さんの言葉が過ぎります。
「錠を拾った途端、耳鳴りがしたよ。そう、あれだ。蔵で起きたあの耳鳴りだ。そうと気がつくなり玄関に走った。ドアを蹴り飛ばして部屋から出たその時、あの悲鳴がした」
──ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!
「肩口に重いものがぶつかった。思わずで振り返ったら、床に落ちたそれと目が合った。まだ、面影があったよ」
聞きたくありませんでした。その先は聞きたくありませんでした。
けれど、
「蛭田先輩だった」
良介は断言しました。
縄になっていた。
縄にされていた。
いつしか私は、ぼろぼろと涙を零していました。
「いいか、ここからだ。聞いてくれ。瑞穂、よく聞いてくれ」
囁く良介の声が震えています。
ひどく悪い予感がして、私はぎゅっと体を縮めました。
「渦に巻き込まれてしまった。俺も、巻き込まれてしまったんだ」
頭が真っ白になりました。もう、何も考えられませんでした。
「逃げ出した俺は車の中でしばらく震えてたよ。どれくらいしたか、ようやく人心地がついて、とにかくお前に電話しようと思った。そうしたら──そうしたら、助手席に投げてあった携帯と錠前。それが動いていた。ぐるぐる、回りだしていた」
「……やだ、やだよ、やだやだ、やだよぅ」
私はひたすらそう繰り返しました。
もう何も聞きたくありませんでした。
「逃げよう。どっかに逃げちゃおう? そうすれば、きっと、ね?」
「駄目だ。あの渦は追ってくる。多分、あれは腹を減らしてたんだ。最初は飢え死に寸前だったが、先輩を呑み込んで、力を取り戻してきている。元気になってきているんだ。先輩から聞いていたより、俺を追ってくる速度が早い。信号で停まるたびに、車の中の物が回りだしてる。渦の力もどんどん強まってきている気がする」
喋るうちに感情が昂ぶったのか、良介も涙声でした。
「死にたくない。だから俺は行く。このままだと俺も渦に呑まれる。先輩みたいにされちまう。なら行くしかない。蔵に錠をかけてやれば、元通りに閉じ込めてやれば、必ず全部収まるはずだ」
「やだ、やめてよ。怖いよ。やめてよ。落ち着いて考えてよ!」
「落ち着く? 落ち着いてるよ。落ち着いてるに決まってるだろ! 大丈夫だ。冷静だ。俺は冷静だ。証拠に計算してみせてやる。
いいか、先輩と話したのは昨日の夜だ。つまり先輩が渦に呑まれたのはその電話以降だ。直後だとしても22時。俺が先輩の部屋に行ったのが13時。最長15時間ってわけだ。人間の消化管の長さを知ってるか? 大体9mだそうだ。先輩の縄の残りがリビングから玄関のドアまで、ざっと2m。つまり先輩は7mくらい飲み込まれていたわけだ。つまり1時間当たり47cmだな。
くそ、遅すぎる。そんなにゆっくり殺されるのか。違う、間違ってる。いや、計算は合ってる。でも前提が間違ってるかもしれない。あれが腹を空かせていたから、先輩はすぐに食われただけなのかもしれない。蔵の中の最初の縄はどうだ。一緒に閉じ込められてたあいつは、あとどれくらい残ってた? 4mか? 5mか?
くそ、半分、半分以上じゃないか。先輩はあそこが二、三十年は使われてないと言っていた。短い方で二十年、閏を考えなければ7300日。概算で一日0.06mmずつだと? くそ、くそ! 冗談じゃない!」
私の言葉が引き金になったのでしょう。
抑えていた恐怖を爆発させるように、良介はまくし立てました。後はよく聞き取れない、怒声とも罵声ともつかないものが続きました。それから荒い呼吸だけになって、それでようやく落ち着いたのでしょう、良介はまた話し始めました。
「……悪い。興奮した。でも解ってくれ。俺も相当追い詰められてるんだ。とにかく、もう泣いてる場合じゃない。それより確認させてくれ。お前の周りにはまだ、何も起きてないんだな?」
私が肯定すると、彼はそうかと言って黙り込みました。じっと何かを思いを凝らしているようでした。
「多分、これは多分だが、少しだけ見えた気がする。向こうには向こうのルールがあるんだ。瑞穂、今から言うルートをメモしてくれ。あの蔵への道筋だ。俺は生き残ってやるつもりだが、次善の策を残しておきたい。もし俺がしくじったら、お前を当てにするしかない。お前も来てくれ」
「……え?」
「俺が駄目だったら、お前が錠をかけるんだ」
乾いた声で、良介が告げました。
「いや、大丈夫だ。俺は上手くやれるはずだ。失敗した時の事を考えるべきじゃない。上手くいくはずだ。上手く、上手く、上手くやってのけられるはずだ。最悪でも瑞穂が来てくれる。だが待て。待てよ。仮に縄がなくなったとして、頭だけになったとして、本当にそれで死ねるのか? 本当にそこで死ねるのか? あの状態ですら生かされてるのに? くそ、駄目だ。違う。失敗した時の事なんて考えるんじゃない。渦に巻き込まれた? だからどうした。俺はまだ途中だ。完全に呑まれちまったわけじゃない」
「──良介!」
「とにかく、もし俺が帰らなかったら頼む。お前しかいない。お前が俺の次善の策だ。でも大丈夫だ。俺は上手くやってのける。大丈夫。大丈夫だ。終ったら電話する」
私が何を言うより早く、そこで通話は切れました。
私は携帯電話を握り締めて、一晩中待ちました。
けれどそれが鳴る事はありませんでした。とうとう、ありませんでした。