2.
蛭田さんの道案内は、少しも頼りになりませんでした。
流石に夜の山は危険だろうと昼のうちに出立したのですが、さんざんに迷って、どうにか登り口を見つけた時には、もうすっかり太陽は傾いていました。
初夏でも、その時分になれば山は冷えます。蛭田さんの助言通りに登山用の格好を整えてはきましたけれど、この気温ばかりは予想外でした。
何か羽織るものも持ってくればよかったと後悔しながら、私は懐中電灯を手に取ります。蛭田さんと良介は両手が自由が利くヘッドランプを身につけるとリュックを背負い、更に蛭田さんはカメラを、良介は下生えを払う為の鉈を持ちました。
登り口こそ見つけるのが困難でしたが、そこからは蛭田さんの言の通り、目指す蔵まではそれなりの道筋がついていました。急な勾配もなく、体力に乏しい私もさほど労せずに同道できたくらいです。
ただ辺りはしん静まって、鳥の声ひとつ聞こえませでした。鬱蒼と高い木々がのしかかってくるようで、何故だか囲い込まれているような、威圧されているような心持ちになります。
私と良介は幾度も顔を見合わせました。
三人でいてももこんなふうに心細く感じるのに、ここで深夜に一人、道に迷いながらも平然としていた蛭田さんの胆力はどうなっているのでしょうか。脱帽する他にありません。
そんな私たちの感慨を知ってか知らずか、蛭田さんは鼻歌混じりに先頭を切っています。
車から降りて、どれくらい歩いたでしょうか。夕日はすっかり木々に隠されてしまいました。それから更にしばし、暗闇が忍び寄ってきた山道を電灯を頼りに進んでいくと、
「やあ、着いた着いた。あれだよあれ」
蛭田さんが歓声を上げました。
彼が指さした先には、確かに土蔵めいた白壁が見えました。
それは蔵という言葉から連想するよりもずっとこじんまりとした、小さいなものでした。周囲の木々の緑に押しつぶされるように絡まれ覆われている所為もあって、そこにあると知ってなければ、きっと見過ごしてしまったでしょう。
使われていないものだと蛭田さんが断言したのも、これならばと頷けました。
「ほら、変だろう? おかしいだろう? 蔵しかないんだ。周りにはなんの建物もない。壊れたり壊されたりじゃないんだ。元から何も建てられてない。でもこんな細道でも道がある以上、何かに使われていたはずなんだよね。ひょっとしたら誰かの隠し蔵で、お宝が眠ったままになっているのかもしれないぜ」
「それが本当だったら、張り切り甲斐もあるんですけどね」
笑顔満面の蛭田さんに、素っ気無く良介が返します。
「枯れてるなあ。君はもっと夢を持つべきだよ。ま、なんにせよ入ってみなくちゃ始まらない。大野君、工具をもらえるかい。瑞穂ちゃんは明かりをよろしくね」
良介から工具を受け取り、私に手元を照らさせると、蛭田さんは早速錠前に挑み始めました。
横から覗き見ると、それは不思議な錠でした。飾り錠というのでしょうか。無骨な錠前ではありませんでした。扉を押さえる錠と閂の部分にまとめて巻きつくように蛇の体が彫刻されています。
今はびっしりと錆に覆われて、おまけに蛇の頭の部分などは欠けてしまっていますが、昔はさぞ綺麗なものだったのだろうと思われました。
集中している蛭田さんに感化され、私たちまでもが無意味に息を詰めて数分。やがてダメだぁと情けない声で蛭田さんは天を仰ぎました。
「うーん、からくり錠っていうのかな、これ。手元が暗いのと錆の所為もあるだろうけど、そもそも鍵穴の場所もよくわからないや。壊してしまうしかないかなあ」
なんであれ、力仕事なら良介の出番です。私がちらりと視線を投げると、悟って蛭田さんが制止しました。
「まあそれは最終手段にしよう。蔵自体がこれだけボロだからね。どこか壁が崩れていて、そこから入れるかもしれない。一度ぐるっと回って調べてみるよ。何、もう大分脆くなってる錠だ。それから壊しにかかったって、時間がかかる事はないさ。それじゃ、君達はここでちょっと待っていて」
言い置いて、蛭田さんは蔵周りの茂みに突入していきました。
出来るだけ物に触れず壊さずそのままで、とは撮影の時にいつも言われている事でした。開錠がよくて器物損壊が駄目という理屈はよく解りませんが、今回も蛭田さんはその信条を貫くつもりのようです。
「ヘンなトコ真面目だよな、あの先輩」
良介の言葉に頷きながら、私はそっと錠に触れてみました。
ざらついた錆の手触りを予想していたのに、ぬるりと何か、生き物の鱗を撫でたような感触がありました。そしてさして力も込めていないのに、指先でふっと軽くなぞっただけなのに、私の手の中でぱきんと乾いた音がしました。
「えっ!?」
思わず取り落とした錠が、ふたつに折れた姿で足元に転がります。思わず良介に目で助けを求めると、こつんと痛くない拳で小突かれました。
「馬鹿。脆くなってるって先輩が言ってたろ」
「でもだって、こんな簡単に」
蛭田さんがさんざんに弄り回して平気だったものが、どうして私が撫でたくらいで、と思わずにはいられません。
けれど実際に損壊させてしまった以上、言い訳はできませんでした。
きっとおそらく、これはほんのちょっとしたタイミングだったのだと思います。
ついさっきまで普通に動いていた機械が、一瞬目を離した隙にすっかり動かなくなってしまうような。そんな悪い偶然であったのだと思います。
けれど後から思い返せば、これはひどく暗示的な偶然でした。
「大丈夫かい、瑞穂ちゃん? 何かあったのかい?」
ふたりで言い合っているところに、蛭田さんの訝りがしました。がさがさと草をかき分る音も近づいてきます。
私の上げた声を聞いて、案じて戻ってきてくれたのでしょう。
「ごめんなさい、壊してしまいました」
申し訳なさに身を縮めながら、私は地面から錠を拾い上げました。まっ二つになった錠を見せて頭を下げると、蛭田さんは首を振りました。
「いいよいいよ、きっともう経年劣化してたのさ」
受け取った錠のパーツをくるくるとハンカチで包み、それから蛭田さんは、ぱん、と手を打ち鳴らします。
「それよりも、さて! ご開帳だね」
満面の笑みでした。中に入れるのが余程嬉しいようです。現場保存の信条は、その喜びで押し流されてしまったのかもしれません。
早速良介と蛭田さんが片側ずつに取り付いて、「せーの!」の掛け声で重い扉は引き開けられていきました。蔵に押し込められていた空気がこちら側に逃げ出してきて、草の香がカビの臭いに一変します。
そして真っ先に中へ首を突っ込んだ蛭田さんが、あっと声を上げました。
釣られて覗いた私も、思わず息を飲みました。
さして広くない蔵の左右に、ひな壇のような段が設けられていました。けれどそこに飾られているのは雛人形のように可愛らしいものではありませんでした。
人の頭です。
木彫りに彩色を施した複数の実寸大の人の頭像が、各段にきちりと並んでいました。それらは整列してじっと蔵の入り口を、私たちを睨んでいるのでした。
あまりの不気味さに、私は良介の腕に縋ります。肩を抱いてくれた良介も、かすかに震えるようでした。
「うはー、これは気味が悪いね」
だというのに蛭田さんは、相変わらずのマイペースです。流石にカメラこそ構えませんが、ヘッドランプの明かりだけを頼りに、平然と中へ踏み込んでいきます。
良介の体温と蛭田さんの雰囲気のお陰で、私も少し落ち着いてきました。自分の懐中電灯で手近の首を照らしてみます。
それは芸術品とは言い難い、粗雑で荒い彫りでした。着色された色彩も年月で剥げ落ちて、鮮やかさよりも不気味さを強める役しか果たしていません。
それにしても、色々な首がありました。様々な首がありました。男の子、女の子からお爺さんお婆さんまで、老若男女がすっかり欠けずに揃っています。けれど首たちの顔は、どれも一様に無表情なのでした。それが一層、気味の悪さを引き立てます。
見ていくうちに、私はもうひとつ気がつきました。
首は最初、同じような大きさの輪を重ねた台の上に載せられていると思っていたのですが、そうではありませんでした。輪と見えたのはとぐろを巻いた蛇体なのでした。
と言っても、頭部の下に蛇がいるわけではありません。ぐるぐると巻き上がった蛇の胴が、そのまま人の首に繋がっているのです。人の首から下が、そのままに蛇なのです。人蛇としか呼びようのない、それは異様な像でした。
言い知れないものに一歩後退ったその時、急に耳鳴りが起きました。それはきーんと高く、痛みを覚えるほどの強さでした。見れば私だけではなく、良介も顔を歪めて耳を抑えています。
「先輩!」
「蛭田さん!」
私たちに呼ばわれるまでもなく、異常を感じた蛭田さんも入り口に戻ってこようとしていました。
でもそれよりも早く、人蛇たちが動き始めていました。次々に座していた段から飛び降りるや、がたがたと蔵の中を這い回ります。
いいえ、違います。
像が能動に動いているのではありません。
明かりの届かない蔵の奥。そのどこか一箇所に、穴が開いたのでした。
この世界を満たしている見えない何か、空気のような何かが、その穴からごうごうと向こう側へと吸い込まれているのです。そうしてそこに、やはり目には見えない、大きな渦が出来上がっているのです。
どうしてか、直感的にその事が判りました。
幸いな事に渦は、私たちをどうこうするほどの強さは持ってはいないようでした。
全身を隈なくざわざわと、静電気のように撫で回される感触はあります。けれどもそれは風のようなものでした。目には映らず、そして確かに存在する力ではあるけれど、その所為で引き倒されたり引き込まれたりといった事態には至りません。
でも自重の軽い木像にとっては話が違うのです。彼らにはその引力に抗う術がありません。だから人蛇たちは渦に巻かれて、ぐるぐるといいように回り回されているのでした。
そして。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
三人のうちの誰でもない悲鳴が響き渡りました。
蔵の奥の闇から飛んできた物が、蛭田さんにぶつかりました。予期せぬ異常事態に足を止めていた蛭田さんは、意表を突かれてうわっと怯みます。床に落ちた飛来物を、良介のヘッドランプが照らしました。
そこにあったのは、またしても人の頭でした。
けれど今度のは、作り物ではありませんでした。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
それは悲鳴を上げていました。
それが悲鳴を上げていました。
目玉は潰れて血が涙のように頬を伝っていました。大きく開いた口に歯は一本もなく、赤黒い歯茎が曝け出されていました。笑っているのか、泣き叫んでいるのか。いずれのようでもあり、いずれでもないようでした。
その首の下には長く、赤黒い紐のようなものが生えていました。
先程見たばかりの人蛇の像が思い出されますが、でも違います。それは蛇の胴体などではありませんでした。
人の唇とは、粘膜の裏返ったものです。その口から喉、食道、胃、十二指腸、空腸、回腸、盲腸、結腸、直腸、肛門。ここまでが一本に繋がった、長い長い管です。
ひどく極端に、そして大雑把な言い方をすれば、口から肛門までの消化器官の周りに様々が付属して、人体は出来上がっているのです。
その消化管を真っ直ぐにぴんと伸ばした縄。それが蛇体の正体でした。
手をもがれ、足をもがれ、胴を削られ、頭だけにされて。それは人蛇ならぬ人縄であったのでした。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
力いっぱい吹く笛のように、高く高い悲鳴です。
何よりも恐ろしいのは、首だけのそれがまだ生きている事でした。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
耳鳴りを圧して、またも悲鳴が響きます。
人間が出すとは思えない、人間に出せるとは思いたくない、途方もない苦痛を訴える声でした。
ずるずると首は引き戻されていきました。床を引きずられ、蔵の奥へ、闇の奥へ、渦の中心へ。
首には、まだ痛覚があるようでした。むき出しの内臓が、“縄”の部分が動き回る像にぶつかるそのたびに、ひいひいと悲鳴が上がります。
そして蔵の闇と懐中電灯の光とが入り混じる中、投げ縄のようにぐるぐると、その首が振り回され始めるのが見えました。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
再び投じられたそれは、狙いが逸れたのか蔵の壁に当たり、強く跳ね返って床に落ちました。
潰れた目。削げた耳。ひしゃげた鼻。一本もなくなった歯。
垣間見た首の惨状を思い出します。想像がついてしまいました。その容貌は、この繰り返しで作られたのだ、と。
ばりばりと、何かが砕ける音がしました。
思わず見ればヘッドランプの光の中に、頭像たちが渦に呑まれていく様が見えました。音は渦に呑まれた蛇の、いえ──人縄の像の砕けていく音だったのでした。
渦の中央は、さながら吸い込み口です。
引き寄せられた像はそこでふっとこちら側からは消え失せて、ただばりばりと、渦の奥に居るものがそれを噛み砕く音だけが響くのです。
その咀嚼音は凶悪この上なくて、それだけで渦の貪欲さが理解できるようでした。
「逃げろ!」
良介か蛭田さんか、どちらかが叫びました。その声でやっと、私は我に返りました。
そこからは、ただただ必死に走るばかりでした。
手をつなげ、という蛭田さんの言葉がなかったら、足の遅い私は、きっとはぐれるか置いていかれるかしてしまっていたでしょう。
足が上がらなくなるくらい、肺が空気を求めてどうにもならなくなるのぎりぎりまで走って、走れなくなったら早足に歩きました。そして呼吸が整えて、また走るのです。
時折あの笛のような悲鳴が耳に届きましたが、幸いにもそれは、走った分だけ遠くなるようでした。
倒けつ転びつしながら、それでも迷いもせず山を下りれたのは、幸運以外の何ものでもなかったと思います。
車に辿り着くと荒い呼吸のまま乗り込んで、全速力で山を離れました。誰も何も喋りませんでした。全身が水に濡れたように汗びっしょりです。流石の蛭田さんも真っ青な顔をしていました。
とにかく人の居る所に行きたくて、私たちは最初に見えた24時間営業のファミリーレストランに逃げ込んで、そこで夜明けを待ちました。
「もう大丈夫だとは思う。でももし何か起きたら、お互い必ず連絡をしよう」
蛭田さんのその言葉に声もなくただ頷いて、私たちは解散しました。




