1.
「蔵を見つけたんだ」
学食のコーヒーを啜りながら、蛭田さんはそう切り出しました。
蛭田さんは、良介のサークルの先輩です。当のサークルの活動とは別に写真を趣味としている方なのですが、その撮影対象が一方ならず変わっています。夜半廃屋に入り込んで、その建物の内外を撮るのです。
「いわゆる廃墟マニアってヤツだよ。いい人だけどヘンな人だ。いや、ヘンな人だけどいい人、だな」
良介の評によるならば、そんな先輩です。
良介と蛭田さん、ふたりの交流のきっかけになったのが、蛭田さんのこの奇矯な趣味でした。
蛭田さんの好きな、廃墟、廃屋。
その類の打ち捨てられ、遺棄された建物は、交通の便の悪い、人の通わない場所にあるのが殆どです。昼ですら人気がないところなのですから、撮影を終える深夜ともなれば尚更です。
蛭田さんは常から「帰りのタクシーを捕まえるのも一苦労だよ」とボヤいていて、それを耳にした良介が、ある時親切心を起こしたのだそうです。
「丁度そっち方面に行く用事があるんで、よければ帰り拾いましょうか」
蛭田さんには渡りに舟であったのでしょう。話はすぐにまとまったそうです。
本来はその一度きりだったはずなのですが、車内で話すうちに馬が合って、以後も良介と蛭田さんは行動を共にするようになったのでした。
蛭田さんは律儀な人で、先輩後輩の関係を笠に着て、頼みを押し付けるような真似はしませんでした。最初からちゃんとガソリン代と食事代に色を付けた心付けを支払ってくれたそうです。
ですから良介にしてみれば、気の合う先輩とドライブに行けばちょっとした収入になるという、丁度どいいアルバイトであったのです。
私が良介と交際を始めたのは、ふたりがそうやって出かけるようになった後の事でした。
なので良介の休日はしばしば塞がって、その頻度と帰りの遅さから、私は良介の不実を疑いました。ひょっとして他に交際相手がいるのではと不安になったのです。付き合い立ての恋人としては、勘ぐってしまっても仕方がない状況であったと思います。
ある時とうとう我慢できなくなって、私は電話口で泣きました。
その翌日、良介が弁明を兼ねて引き合わせてくれたのが蛭田さんでした。
「いやいやごめんね。大野君、そういう事を一切言わないものだからさ。知らないで連れ回してしまっていたんだよ」
蛭田さんはなんともすまなそうな顔で私に手を合わせた後、
「でも大野君もいけないぜ。こんな可愛い子がいるのだからそっちを優先しないとね。万一、僕に男色疑惑が立ったらどうしてくれるんだい?」
そう良介を嗜めてくれました。そしてそれが、私と蛭田さんとのご縁にもなりました。
私とふたりはサークルこそ違いましたが、学部は一緒でした。それ以後何かにつけて同席するようになって、私がふたりの撮影に同道するのも、今ではよくある事になりました。
私のお仕事は車内の雰囲気作りと移動中の軽食の準備、時折の被写体に目的地までのナビゲートです。
「ふたりでもお給料は一人分だよ」
そんなふうに釘を刺しつつも、蛭田さんは「デート代の足しにね」などと、良介への一封を少し増やしたりもしてくれるのでした。
また私が同行する時は、
「瑞穂ちゃんが来ると楽でいいね。助手席だと寝れないからね」
蛭田さんはいつもそんな事を言って、後部座席で毛布に包まって寝てしまいます。おそらく、私たちに気を遣っているつもりなのでしょう。確かに蛭田さんは風変わりではあるけれど、とてもいい方なのでした。
またのみならず、ひどく肝の据わった人でもありました。
撮影対象が対象なだけに、インターネットなどで噂になるような心霊スポットに赴く事もありました。
けれどどんな場所でも蛭田さんは怖じもせずに漂々としていて、そんな蛭田さんの雰囲気のお陰で、私と良介もちょっとした肝試し気分で後をついていけたのでした。
思う様写真を撮った後は現場近くの飲食店で打ち上げめいた食事会をしたりして、三人での行動は、気のおけない同士のちょっとした小旅行といった感じになっていました。およそひと月に一、二催のそれを、私たちはとても楽しんでいたのです。
ですから蛭田さんのこのいきなりの発言も、次回の目的地についてだろうとすぐに見当がつきました。
「蔵?」
「うん、蔵」
発言を鸚鵡返しした良介に、蛭田さんはこっくり頷きます。
「こないだ単身で撮りに行った時に、道に迷ってちゃってね」
暗いし寒いし困ったよ、と蛭田さんはまたちびちびとコーヒーを啜りました。猫舌なのです。
「栃木の山ん中だったんだけど、来た道辿って帰ってたつもりが、全然見当違いに進んでたみたいでさ。どこにいるのかさっぱりになっちゃってね。結局勘頼りの運任せでがさがさやってたら、唐突に蔵を見つけたんだよ」
一体何をやっているのでしょう。
夜の山で道を失った上に適当に歩くだなんて、私にだって危ない事だと判ります。生死に関わる可能性だってあったのではないでしょうか。
「先輩、絶対畳の上で死ねませんよ」
「そうだね、うちはフローリングだからね」
同感らしい良介が口を挟むと、蛭田さんはいつもの調子でしれっと返します。
「いやそういう話じゃなくて」
「そうそう、そういう話じゃないんだ。蔵だよ、蔵。蔵蔵。そりゃもうボロボロでさ。それまでの早く帰りたい気分も忘れて飛んでいったね」
「……先輩、ほんっと好きですよね」
「うん、大好きさ」
屈託のない笑顔でした。
こりゃ駄目だと良介は肩を竦めて、私たちは顔を見合わせて苦笑します。
「ただ残念ながらね、入れなかったんだ。入り口に錠が下りててさ。まったくがっかりだよ。心底しょんぼりだよ」
「戸締りされていたのでしたら、まだ使われてたのではないでしょうか?」
「いやいや、あの放置され具合から見てそれはないよ。僕の目が確かなら二、三十年は人の出入りがないね」
私の問いに、蛭田さんは断言しました。
適当なようですけれど、蛭田さんが言い切るのならそうなのでしょう。いい加減だと思って聞き流していた話がその通りだった、なんて事が、これまでにも幾度となくありました。不思議とこうした見立てを誤らない人なのです。
「ちゃんと調べようにも暗いし道具もないし。それで諦めて帰ってきたんだよ」
「帰ってきたって、そこから道は判ったんですか?」
「ん? ああ、その蔵から車道まで、獣道だけど一応ルートがあってね。それを辿ったら無事生還できたってわけさ」
さらりと言うので疑問に思って尋ねると、なんともふわっとした返答でした。
「まあそういう次第だから、今度は色々準備して乗り込みたいと思うんだ。是非あの中に入ってみたくてさ。ちょっとうろ覚えだけど、多分蔵への登り口まで、迷わず案内できると思うよ」
発端からして、この活動は蛭田さんの趣味に私たちが付き合うという体裁なのです。今までの目的地だって全部、蛭田さんの意向で選んできたものです。ですから当の蛭田さんが希望するのなら、私たちに否やはありませんでした。
「それじゃ、今週末に」
予定を繰り合わせて、私たちはその蔵に向かう事を決めました。
そんなふうにして、私たちの運命は決まったのでした。