いじめ問題を受けて
2012年の大津市いじめ問題。
何度も似たようないじめ問題がニュースになっていますが、ここまで大きく取り上げられ、世間で話題になったものは、僕の記憶にはありません。これには、今日のネットの普及と、発火現象のようにして起こった個々人の間での情報の発信が大きく関与しているのでしょう。
どのような形であるにせよ、いじめ問題に対して、世間が大きな関心を寄せる事は問題改善の為の力となるでしょうから、評価すべき事だとは思いますが、同時に一抹の不安も僕は感じてしまいます。ネットに公開され続け氾濫する情報が、果たしてどの程度まで正しいのか、また、仮にその情報が正しいのだとしても、本当に情報の公開という手段を執る事が望ましいのかどうかに、大きな疑問を感じるからです。例え、その時は適切に行われたのだとしても、似たような事が起こった時、毎回、適切に行われる保証はどこにもありません。ならば、ネットにおける情報開示はある程度の節度を持って行われるべきものであるはずです。もしも、どんな情報でもネットに流出させて良いのだとすれば、その影響で、この社会全体が危険な場所になってしまうのは容易に想像できます。
ネットでの情報開示が、問題行動を執った者に対する罰だと考えている人達も大勢いるでしょうが、その考え自体にも大きな問題があるのではないかと僕は考えています。少し例え話をしましょう。二つ、シナリオを説明します。
いじめで他人を死に追いやってしまった子がいるとしましょう。一つ目のシナリオは、その子が更生しないシナリオです。その子はその事で世間から責められ続け、上手く社会生活を送る事ができず、結果的に犯罪行為に手を染め、新たな犠牲者を生み出した上で、刑務所に入るような人生を送ってしまう。
もう一つのシナリオは更生するシナリオです。そのいじめっ子は己の罪を悔い、更生して、社会に貢献するような人生を送るのです。
もちろん、後者の方がより望ましいのは、言うまでもありません。仮に、「人を死に追いやったようないじめっ子が、真っ当な人生を送る事が許せない」、という主張を受け入れたとしても、新たな犠牲者を生む事には誰も賛成しないでしょう。
そして、後者のシナリオ。つまり、問題行動を執った者を更生させるシナリオを実現する為には、単に罰を与えるだけでは、効果的ではないのです。
近代刑罰の法律における基本が、“更生”なのはその為で、心神喪失状態にある者が罪を犯した場合に、刑務所ではなく、精神病院に入れられるのも同じ理由になります。つまり、病気が原因で罪を犯したのだから、その人を更生させるのに必要なのは、刑務所ではなく、病院での治療だ、という発想ですね。
近代刑罰の目指すところが“更生”に至った背景には、単に人権思想の広がりばかりがある訳ではなく、歴史的経緯として、罰を与える事のみを目的とする刑務所が、“暴力の再生産装置”となってしまったという問題があります。つまり、罰を与え続けた結果、犯罪者が更に凶暴になってしまった、という人間社会の歴史上の失敗があるのですね(もちろん、その犯罪者は、更に社会に被害を与えます)。
心情面として、それが許せないというのは理解できます。どうやら、人が罪人を罰したいと思うのは、当たり前の心の動きのようですから。ただし、だからこそ、近代社会の刑罰は更生を重要視して設定されている、とも考えられます。人間社会全体の利益を考えるのなら、問題行動を執った者には更生してもらった方が良いからですね。
もっとも、では現代の刑務所が更生の為の機関としての役割を、充分に果たしているのかというと疑問ではあります。むしろ、実質的には罰の意味合いの方が現代でも大きいでしょうし、それにはそれで(矛盾するようですが)効果もあります。理性で行動をコントロールできる人間に対しては、犯罪抑制の効果を期待できるはずですから。
ここで、いじめ問題に話を戻しますが、ネットによる情報公開で、いじめっ子を罰するという発想の問題点はこの“更生”です。つまり、それでは更生の効果が充分に得られるとは思えないだろう点。殺人を犯したと言っても過言ではない、いじめっ子達を許せない、というのは心情的には納得できますが(はっきり言って、僕自身も許したくはありませんが)、彼らが更に他人に迷惑をかけるような事になるのだけは防がなければなりません。だから、できれば、“罰を与える”のではなく、どうすればこれから先、彼らを“更生させる”事ができ、“その罪を償わせられるのか”、という点を重要視してネットを活用すべきだと僕は考えています。
そして、重要なのは、当然の事ながら、これから先、他のいじめ問題を軽減していかなければならない、という点です(今回、灯った火を消してはなりません)。
大津市いじめ問題で、全国のいじめ問題の減少は期待できますが、それは効果があっても一時的なものに過ぎないでしょう。ネットでの情報開示には、問題点がある事を考えるのなら、その他の方法で、永続的に効果のある手段を、そろそろ講じなければいけないはずです(そもそも、ネットでの情報開示は限定的な手段としてしか使えません)。ですから、その方法を述べてみたいと思います。
さて。では、その前に、“いじめ”とは何か? という点から話をしましょう(それが分からなければ、対策だって練れないですから)。
ただ、これは実はそんなに簡単な事ではありません(いじめに限らず、何かを定義するのはかなり困難なのが普通なのですが)。僕個人としては、いじめは集団心理現象で、個人的な“嫌がらせ”とは分けて考えるべきだと思っていますが、その境界線が曖昧なのは認めるしかありません。また、相手を軽く馬鹿にする等の悪ふざけレベルといじめとの境界線も曖昧です。ですが、それでも要点を絞れば、いじめについて、注目すべきポイントは見えてきます。
いじめ(或いは、それに準ずる行動)は、実は人間以外の動物にも観られます。集団で生活する脊椎動物ならば、それこそネズミのような原始的な哺乳類から、サルやイルカまで様々です(人間と同じで、相手を神経症、または死に追い込んでしまうような酷いケースもあります)。そして、そのいじめ行動の要因となっているものに、“優劣を決める”心理があるのだそうです。上位に立った者が、その優位を示す為に、下位にある者を攻撃する。しかも、何の理由がなくても、それを行う事がある(つまりは、八つ当たりですね)。因みにこの考えは、いじめられっ子は、ストレスのはけ口になっている犠牲者だ、というスケープゴード説とも重なる部分があります。
これは平たく言ってしまえば、プライドの為に他者を攻撃する、という事です。
もちろん、いじめ行動は多様な要因から起こるものでしょうから、これだけで全てを説明する事はできませんし、“プライド”が重要な要因になっていない場合もあるでしょう。ただし、それでもこの点を踏まえて対策を執れば、広範囲に大きな効果を与えられるだろう点は事実だと思います。これに、いじめの定義の曖昧さと対策にかかるコストを考慮に入れた上で方法を考えれば、実現可能な対策が導き出せるはずです。それでは具体的な、いじめ対策の方法を述べてみたいと思います。
僕の提案する方法は、「いじめを臨床心理で、正式に病気として定義する」です。
いじめ行動を、病気とすべきだという根拠はあります。
圧倒的に有利な状況で、相手を神経症や自殺にまで追い込んでしまう行動は、明らかに異常でしょう。更に、人によっては、ターゲットがいなくなると、新たな犠牲者を探すような行動も観られ、ここまで来ると、理性で行動を制御できているようには思えません。事件になれば、自分も被害を受けるのだという点を分かっていれば、行動を抑制するはずですが、それができない。恐らくは、一部のいじめっ子は、自分のいじめ行動を抑えられくなくなっています(この判定方法は、簡単です。「いじめを止められるのなら、止めてみろ」と言って、止められなければ病気と考えて差し支えないでしょう)。
今回の場合のように、行動が明らかに常軌を逸している場合は、直ぐにカウンセラーによる治療対象としても良いですし(いじめ問題をどう扱えば良いのか分からないで困っている教師にとっても、これは援助になるでしょう)、治療対象としなくても未然に防ぐ事が可能です。先のプライドの話を思い出してください。病気と診断される事は、そのプライドを傷つけるでしょう。つまり、いじめがプライドを護る手段として成立しなくなるのです。これならば、いじめ行動を抑制できるはずです。
この方法ならば、いじめ行動が、徐々に過激になっていく傾向にある事を考慮するのなら、まだ軽い段階でその芽を摘む事ができるだろうと思います(自発的に止められなくなっていれば、教師の出番でしょう。と言っても、カウンセラーに相談すれば良いだけですが)。
この方法の優れた点は、それが“いじめ”であると、明確に判断する必要がないことです。先にも述べましたが、いじめの定義は曖昧です。どちらとも判断できない境界線に位置するケースは膨大な量になるでしょう。いじめっ子だけを明確に区別し対象としなければ実施できない方法だと、その全てに対し、判断を行って実施するかどうかを決める必要があります。もし仮にそれが可能でも、膨大なコストがかかります。ですが、いじめを病気と定義するのは、それだけで済むので、コストがほとんどかかりません。かかってもカウンセリングの料金くらいです(ニュースで取り上げてもらえれば、宣伝もそれだけで充分でしょう)。
もし仮に、充分な効果が得られなくても、コストはほとんどかかっていないので、大きな問題はありません。
ほとんど有効と思える具体的な対策案がない現状を鑑みるのなら、試してみる価値は充分にあると僕は考えます。