8 シドニア公爵家の水差し③
甘ったるい声を出した女は、やはり遣ることも甘ったるかった。
後ろには菓子やお茶を持参した侍女達を侍らせ、引き連れていた。菓子の甘ったるい匂いで、部屋が満たされる。
王子はあからさまに嫌な顔をした。
「アンドレア王子、お久し振りでございます」
これでもか、というくらい付けられたレースのドレスの裾を摘み、王子を見つめたまま腰を低くし、挨拶をした。
瞳は涙で潤み、きらきらしているように見える。
ピンク色の膨らんだ袖から出た白く細い腕、大きく開いた襟ぐりから覗く鎖骨、コルセットでしっかりと閉められた細い腰、そして、そんな華奢な体形に合う、豊満な胸。胸はこれ以上大きければ、バランスが取れない、ぎりぎりの線だ。
非の打ち所のない、パーフェクトな体形だった。
顔は少し童顔だが、薄っすらと上品に化粧をして、頬はほんのりピンク色をしている。
髪は栗毛をカールさせ、その髪を上のほうへふわっと結い上げ、ピンクの花を散りばめていた。小さな顔がより一層、小さく見える。
後ろのナタリアが思わず、生唾を飲んだくらいだ。
だが、この変わり者の王子は、彼女から発するピンクのオーラなど感じることは無いのか、あろうことか、皮肉な笑いを浮かべた。
「ああポーラ、相変わらず、甘いお菓子が好きなんだね。君も太ってしまうよ……まるで母上のように!? 今はその体形を維持できるかもしれないが、時期、母上のようになってしまうんだね、可哀想に」
口の端を歪めて、にやりと笑った。誰だってこんな奴に哀れんで欲しくはない。
ナタリアは思わず天を仰ぎ、神に祈った。
この王子は誰にでも、このような失礼な事をいうのだと……
だが、次の瞬間、ナタリアは自分の耳を疑った。そのピンクのオーラが愛情を遺憾なく発揮したからだ。
「まあ、王子さま? わたくしは、あのような醜い姿にはなりませんわよ……王子様の為ならば、どんな苦労も厭いませんの。ご安心なさいませ」
どっちもどっちだという事だ。だから、貴族や王族は嫌いだ。庶民(ナタリアは庶民以下だが)のナタリアは彼らの会話に馴染めない。
執事のキラーでさえ、冷や汗をかいたようで蒼ざめており、白いハンカチで吹き出る汗を拭っていた。
「そうかい? でも、君の苦労や努力なんて、僕にはどうでも良いことだ。努力するのは当たり前のことじゃないか……それより、例の怪盗に狙われているという、水差しはこの屋敷のどこにあるんだい?」
王子は組んでいた足を解き、椅子の背もたれから体を起した。
後ろで控えている、ナタリアがぴくりと動く。
ピンクのオーラはそれを見逃さなかった。
「あら、今日は珍しく、お供がキラーだけではないのね」
ナタリアが何か言おうとしたとき、王子の言葉がそれを遮った。
「どうだい? 僕の下僕の少年は? 可愛いだろ?」
今度はニタリではなく、ニヤリと笑った。
「……えっ、まあ……」
流石のポーラも王子の笑みの意味に苦慮した。
見たところ、特別美しくもなく、かといって気の利いた様子も無い……
まさか……? えっ!?
ポーラの思考はあらぬ方向へと導かれていく。
「まさか、この少年がお好みでございますの?」
王子は心の中でほくそ笑んだ。
そう考えて貰って結構だった。むしろ、そのほうが都合が良い。
この香水臭い女から逃れられるのならば……
「君の想像のままに?」
そう言って、両手を上に向け肩をすぼめて見せる。
何とも、腹の立つ男だ。
ナタリアは後ろから蹴り倒したい気持ちをどうにか押さえ、拳を握り締めていた。
ナタリアの殺気を感じたか、王子は後ろを振り返った。
「ポーラ嬢が水差しを見せてくれるそうだ。ご案内頂こう」
涼しい顔で王子は言うと、猫足の豪華な椅子からすっくと立ち上がった。
ポーラは渋々、王子を案内する事にした。本来なら、晩餐会までの時間を王子と二人でゆっくり過ごすつもりだった。他人と関わりを持つのを極端に嫌うこの王子が、まさか、お世辞にも美しいとは謂えない、それも少年を連れてくるとは、大誤算だった。
菓子とそれを運んで来た侍女を王子の部屋に残し、ポーラは侍女を一人だけ連れて、王子とナタリアを案内していく。ふわふわと無駄に設えたレースがポーラが歩く度に揺れ、重そうだった。
それを後ろから見ているナタリアのほうが、肩が凝りそうだ。よくまあ、あんな重そうなドレスを着て、コルセットで締め上げて、やはり庶民のほうがナタリアには良かった。
ポーラは鏡を張り巡らした部屋の、ある壁(これも鏡でできている)を押す。すると人が一人通れるくらいだけ、動いた。その隙間をドレスを抱え上げ、漸く、ポーラが通る。
その後ろから、王子とナタリアがするりと抜けた。
侍女は鏡の間までで、其処で待つよう、ポーラは指示していた。
隠し部屋は思ったより大きく、絵画や壷、ガラス細工など、様々なコレクションが雑多に置いてあった。
その一番奥の小さなテーブルに、これまた小さな水差しが置いてある。
掌に乗る位の小さな水差しに、王家の紋章があった。
「これでございます……」
ポーラは何とも謂えない難しい顔をしていた。
輝く宝石でもなければ、特別美しい陶磁器でもなく、ただの小さな水差しだった。あまり、興味はないらしい。
王子はにんまりと笑った。
「こんなちっぽけな、安っぽい水差しを、王として恥ずかしくはないかね?」
「……王子様、いくら王子様でも、お言葉が過ぎるというものですわ。王様に失礼ですわ。それに、これを狙っている盗賊がおりますのよ……これでも、この水差しは名工、リッチモンドの作ですわ」
そうは言ったものの、ポーラ自身も困惑していた。こんな水差しに何の価値があるのだろうかと。だがその価値とは、名工の作に加え、王様からの拝領というおまけ付きだった。まあどちらも、おまけのようなものだが。
「ところで、入り口は此処しかないのかね?」
王子はさらりと聞いた、いかにも何となくさらりと。
「……いいえ、本当は言ってはならないのですが、王子様だからお教え致しますわ。でも、わたくしもそのようなところは通ったことはないのですから、よくは分かりませんが。第一、大人は通りませんわよ」
ポーラは海賊船から押収でもしたような、宝箱を開けようとした。ところが重くて開かない。仕方がないので、ナタリアが手伝う。漸く開いたその中は空っぽで、床に穴が開いていた。子供が一人やっと通れる位の穴だ。
「なんだって、こんな所に穴を作っておいたのだ?」
王子は不思議そうに中を覗くが、穴の底は見えない。
「王子様、危のうございますよ。この穴は滑り台のようになっていて、外に通じておりますの。万が一のとき、この穴から大切な物だけを取り出せるようにしているのです」
「ほう、それは興味深い、では、この穴の出口は?」
ポーラは少し躊躇った。出口を教えたくないのだろうかと思った時、ポーラから出た言葉は驚くべきものだった。
「ねえ、この方は、本当に少年なの?」
「……」
ナタリアは声を出せなかった。恋する女の感とは恐ろしいもので、どこから見ても少年にしか見えないナタリアを、ポーラは女だと疑っていたのだ。