1 ナタリアとサラ①
石畳を闇に紛れ駆け抜ける少女が一人、数人の男達に追われている。
少女は壁と壁の隙間にすっと身を隠す。
闇が彼女の味方をする、男達は少女に遣り過ごされた。
「馬っ鹿じゃないの!? あのくらいの事で怒ってさ……」
少女は小声で悪態をつきながら慎重にあたりを見回して、誰も居ないことを確認すると今度は来た道を戻って行く。
歩きながらポケットから皮の袋を取り出すと、その膨らみをチャリチャリと謂わせ、手の平で量を確認する。
「まあ、あのくらいの男じゃあ、こんなもんか!」
にたりと笑って、それをポケットに放り込む。
彼女の名前はナタリア、この辺りでは名の通ったあばずれ? だ。
とは謂っても身体は売った事は無い。
歳は十六で売れるものなら売りたいのだが、胸は小さく、身体はガリガリで魅力はない。どう見ても飢えた餓鬼だ。髪は栗毛でくるりとカールしている、上手くセットすれば上品に見えるのだろうが、そんな手入れをする筈もなく、ボサボサだ。
ところが如何したものか、めっぽう博打が強い。ルーレットを回せば思うように玉が入り、競馬だって狙ったレースは逃したことが無い。
港に船が停泊する度に船員を手玉に取り博打をし、金を巻き上げる。子供のような女に手玉に取られるのに腹を立て、金を取り返そうとするが、二、三日もすれば船は出港する、船員も諦めざるを得ない。
静かな闇夜をナタリアは足音を響かせることのないよう、細心の注意を払い走り始める。
この国は石で出来ていた。石畳の道に沿って石の壁が迷路のように連なり、所々に木の扉がある。国全体がそうだった。この国は外敵を防ぐ為、壁で囲まれていた。つまり、国全体が石を積み上げた城壁だった。
その城壁の中で、港だけが開かれていた。外国との接点は港だけだった。地理的にもここは海の要所で、近隣の国は如何してもこの国の領海を通らなければ行き来が出来ず、その通行料と交易に加え、国の北側から摂れる豊富な銀がこの国を富ませていた。
狭い国土だが豊かで、何よりも国全体が石の壁で囲まれ安全だった。
国の中心の小高い丘の上に城が築かれ、王であるヴォルツ2世がこの国を治めている。王妃は早くに亡くなり、今年、十八になる王子が一人いる。
ナタリアは表通りを走り抜けて狭い裏通りへと入り、色は剥げ腐りかけた戸を叩く。
戸の中から鍵を開ける音がする、少年が少しだけ戸を開けた。
ナタリアは素早くスルリと隙間へ入っていった。
「ナターシャ、おかえり!」
「ああ、待ったかい? ルーカ、ほうら……」
ナタリアはポケットから皮袋を取り出すと、放り投げた。
「今日は上々だね」
ルーカはその皮袋を上手く受け取る。
ナタリアをナターシャと愛称で呼んだルーカは、満面の笑みで皮袋の中を覗いた。
ルーカはナタリアより二、三歳下のようだった。
こちらも栗毛で肩でくるりとカールし、愛くるしい顔をしている。
二人とも古ぼけた服を着て、目は獰猛な猛獣の子供のように鋭く光っていた。
白い手が美しいレースを編み上げていく。
まるで魔法でもかけられたように、白く細い糸は複雑な模様を成していく。
蝋燭の明かりに照らされた少女は美しい顔立ちで、細く白い指先で糸を編んでいく。
化粧っけの無い肌は水々しく、白磁のように艶やかで光を帯び、見る者を吸い寄せるようだった。
しかし、その美しさに気付く男はいない。
それもその筈、彼女は修道女の衣を身に纏い、ベールを被っており、生まれてこの方、修道院の外に一度たりとも出た事は無かったのである。この修道院では女達は生涯外へ出ず、修道院の中で育つ植物から摂れる繊維を干した白い糸でレースを編み続け、此処で終えるのが通常であった。
彼女も他の修道女と同じく毎日幾時間も神に祈りを捧げ、年老いた修道女からレースの編み方を教えられ、レースを編み続けている。
「サラ、糸が出来た、此処に置いておくよ」
年老いた下男は部屋の前に、籠に盛られた糸を置いた。糸を作るのは下男の仕事だった。
「ありがとう、ジョイ、それより神父様はもうお休みかしら?」
「ああ、さっき蝋燭の代えをと申し上げたが、もう休むから要らないと言われた」
「……そう、分かったわ、おやすみなさい、ジョイ」
「ああ、サラもあまり無理をするなよ」
下男はそう言って立ち去った。
サラは十六年の年月をこの修道院で過ごしている、彼女は他の修道女とは少し立場が違っていた。神父の娘として育てられていた。
神父が親から頼まれ、育てたのである。しかし親が誰であるかは、サラには知らされていない。神父はその事には一切触れようとはしなかった。
「少し、話をしたいのだが……」
扉の外で牧師の声がする。さっきジョイは休んだと言っていたのだが、サラは首を傾げる。
「ええ、お入り下さい」
「悪いね、夜遅くに……」
神父はだいぶ老齢であった、髪は白く、ほんの少ししか残っていない。
彼はサラの前にあった椅子に座った。
「如何なさいました? 神父様、お体に触ります」
「いや、如何してもサラに話しておきたい事がある……サラはもうすぐ、十六になるのだから」
「十六が如何したのですか?」
サラは漸くレースを編む手を休めた。
「サラを育てるのは十六までという約束だったから……」
「……!?」
突然のことに、言葉が出なかった。
「貴女の親族の方に頼まれて、お育てした」
「神父様、如何して今、そのような事を申されるのですか? 私は何処にも行きたくはありません」
静かだが強い口調だった。
「嬉しいよ、サラ、だが、このままではサラの身に危険が及ばないとも限らない、明日、その親族に一度、会ってくれないか?」
「……嫌です、私を捨てた人達には会いたくはありません! 私は、神父様の子です、他の誰も親族ではありません」
「……そうかい? だが、それでは私の立場がない、お願いだから……明日、いらっしゃる事になっているから……」
立場がない、という神父の言葉にサラは引っかかるものを感じた。
この教会は王族や貴族など地位ある人々の為の教会である、礼拝に訪れる者も王族や貴族が主であった。
だが、彼女達修道女は表に出る事無く、外部の人間に会うことは無かった。
「それは、貴族の方に対して、神父様のお立場が無いという事ですか?」
「……まあ……そんなところだが……」
神父の歯切れの悪い話しぶりに、サラは神父を追い詰めているような罪悪感を覚えた。
「……分かりました、神父様がそのようにおっしゃられるのであれば、お会い致しましょう」
それを聞いた神父は天を見上げ、首に吊るした十字架を手に取り、もう一方の手で十字を切り、「おお、神よ……」と感謝をしたのだった。