第6話 再会
翌日、午後。
僕とリゼは、王城の門前に立っていた。
「アーデンハイト子爵様ですね。お待ちしておりました」
門番の兵士が、僕たちを城内へ案内した。
長い廊下を歩く。
壁には王家の紋章が掲げられ、窓からは美しい中庭が見えた。
豪華な調度品。磨き上げられた床。
全てが、僕の領地とは比べものにならないほど立派だった。
「……ここが、アリアの住む場所か」
九年間、彼女はこの城で暮らしていた。
自由のない、籠の中で。
「こちらでお待ちください。王女殿下がお見えになります」
案内された部屋は、小さな応接間だった。
僕とリゼは、示された椅子に腰を下ろした。
「……緊張、しますね」
リゼが小声で言った。
珍しい。彼女が弱音を吐くなんて。
「僕もだよ」
正直に答えた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
もうすぐ、アリアが来る。
九年ぶりに、彼女と——。
その時、扉が開いた。
「——お待たせいたしました」
凛とした声が、部屋に響いた。
僕は立ち上がり、扉の方を向いた。
そこに——彼女がいた。
白銀の髪。光の加減で、水色にも見える透き通った色。
落ち着いた茶色の瞳。
九年前より大人びた顔立ち。でも、面影は確かに残っていた。
「……アリア」
思わず、名前を呼んでいた。
彼女は——僕を見た。
一瞬、その瞳が揺れた気がした。
でも、それは本当に一瞬のことで。
次の瞬間には、彼女の顔から全ての感情が消えていた。
「これはアーデンハイト子爵様。ご壮健そうで何よりです」
冷たい声だった。
まるで、初対面の相手に挨拶するような。
「……アリア?」
「お座りください、子爵様。本日は、わざわざ王都までお越しいただいたとか」
アリアは僕の言葉を無視して、向かいの椅子に腰を下ろした。
その動作には、一切の無駄がなかった。完璧に訓練された、王女としての所作。
「……ああ、うん」
僕も、促されるまま椅子に座った。
頭が混乱していた。
この冷たさは、何だ?
あの時のアリアとは、まるで別人のようだ。
「ご用件をお聞かせください。私に何の御用でしょうか」
「……婚約のことを聞いた」
僕は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「ドミニク・ヴェルモント公爵との婚約。本当なのか?」
「ええ」
アリアは、表情一つ変えずに答えた。
「事実です。私は、公爵様の元へ嫁ぐことになりました」
「……それは、君が望んだことなのか?」
「私の望みなど、関係ありません」
冷たく、突き放すような声だった。
「これは王国のための婚姻です。王女として、当然の務めを果たすまでのこと」
「当然の務め……?」
「ええ」
アリアは、僅かに目を伏せた。
「私は王女です。生まれた時から、この身は王国のためにあります。個人の感情など、挟む余地はありません」
その言葉が、胸に突き刺さった。
これが——あの時、自由を夢見ていた少女の言葉なのか?
「……嘘だ」
僕は、思わず声を上げていた。
「嘘だ、アリア。君は、そんなことを言う人じゃない」
「何を根拠に、そのようなことを」
「九年前のことを覚えているか?」
アリアの肩が、僅かに震えた。
——やっぱり、覚えている。
「君は言っていた。自分の足で、いろんな世界を見て回りたいって。誰かに決められた道じゃなく、自分で選んだ道を歩きたいって」
「……昔の話です」
「昔の話じゃない」
僕は立ち上がった。
「あの約束を、僕は忘れていない。君だって——」
「お座りください、アーデンハイト子爵」
アリアの声が、僕の言葉を遮った。
その声は、先ほどよりもさらに冷たかった。
「あなたには、どうにもできないことです」
「……何?」
「これは、私が選んだ道です。王家のため、そして何より——私が私であるための決断です」
アリアは、真っ直ぐに僕を見つめた。
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
「アーデンハイト子爵、貴方の祝福など必要ありません。ただ、二度と私の前に現れないこと。それだけを約束してください」
「——っ」
息が、詰まった。
二度と、現れるな。
それは——拒絶だった。
完全な、絶対的な拒絶。
「それに——」
アリアの視線が、僕の隣に立つリゼへと向けられた。
「あなたには、私でなくともお傍に立つ方がおられるようですから」
その声には——どこか、寂しげな響きがあった。
「リゼは、そんなんじゃ——」
「……っ」
リゼが、小さく息を呑んだのが分かった。
「従者として、これほど献身的な方がいらっしゃるのです。私などいなくとも、あなたは十分にやっていけるでしょう」
アリアの目が、一瞬だけ揺れた。
でも、それは本当に一瞬のことで——すぐに、冷たい仮面が戻った。
「……どうして」
声が、震えていた。
「どうして、そんなことを言うんだ。僕は——僕は、君を迎えに来たんだ。あの日の約束を果たすために——」
「約束?」
アリアが、僅かに首を傾げた。
「そのような約束、私は覚えておりません」
——嘘だ。
嘘に決まっている。
さっき、九年前の話をした時、彼女の肩は確かに震えていた。
覚えていないはずがない。
でも——彼女は、覚えていないと言った。
「……お下がりください、アーデンハイト子爵」
アリアが立ち上がった。
「本日の謁見は、これにて終わりです。お引き取りください」
「待ってくれ、アリア——」
「侍女、子爵様をお見送りして」
アリアは僕の言葉を最後まで聞かず、部屋を出ていった。
その背中は、真っ直ぐに伸びていた。
一度も、振り返らなかった。
「……アリア」
呼びかけても、返事はなかった。
扉が閉まり、彼女の姿が消える。
残されたのは、僕とリゼと——。
「子爵様、こちらへ」
一人の侍女だけだった。
◇
城を出た時、空は曇っていた。
さっきまで晴れていたはずなのに、いつの間にか雲が広がっていた。
「……ルカ様」
リゼが、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫、ですか」
「……ああ」
大丈夫なわけがなかった。
アリアに、拒絶された。
覚えていない、と言われた。
二度と現れるな、と。
九年間、ずっと思い続けてきた。
強くなって、迎えに行くと誓ってきた。
それなのに——。
「……でも」
僕は、拳を握りしめた。
「諦めない」
「ルカ様?」
「アリアの目、見たか?」
リゼは首を傾げた。
「目、ですか……?」
「あいつ、嘘をついてた」
確信があった。
あの冷たい言葉。感情のない声。
全部、演技だ。
本当のアリアじゃない。
「覚えていないって言った時、一瞬だけ——目が揺れた」
あの頃と同じ、茶色の瞳。
その奥に、何かを堪えているような光が見えた。
「あいつは、何かを隠してる。本心じゃないことを言ってる」
「……なぜ、そのようなことを」
「分からない。でも——」
僕は、王城を振り返った。
灰色の空の下、巨大な城がそびえ立っている。
あの中に、アリアがいる。
何かを抱えながら、一人で。
「僕は、諦めない」
声に、力を込めた。
「あいつが何を隠していても、何を恐れていても——僕は、アリアを助け出す」
九年前は、何もできなかった。
でも、今は違う。
今度こそ——。
「リゼ」
「はい」
「もう少し、王都にいよう。調べたいことがある」
「……畏まりました」
リゼは深く頷いた。
その目には、迷いがなかった。
「主がそうお決めになったのなら、私はどこまでもお供いたします」
「ありがとう」
僕は歩き出した。
雲の隙間から、僅かに光が差し込んでいた。
まだ、終わりじゃない。
アリアの本心を知るまで——僕は、諦めない。
◇ ◇
「子爵様、こちらへ」
私は、ルカ様とその従者の方を城の出口へと案内した。
長い廊下を歩く間、誰も口を開かなかった。
ルカ様の横顔は——ひどく傷ついているように見えた。
当然だろう。
アリア様の言葉は、あまりにも冷たかった。
「覚えていない」「二度と現れるな」——。
あれが本心でないことは、私には分かる。
応接間で、アリア様がルカ様を見た瞬間——その瞳が揺れたのを、私は見逃さなかった。
「……ここまでで結構です」
城門の前で、私は足を止めた。
「お気をつけてお帰りください」
「……ありがとう」
ルカ様は小さく頭を下げ、従者の方と共に去っていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
——やはり、あの方だったのですね。
三年前、王都の街中で偶然出会った青年。
助けてくれた、優しい人。
きちんとしたお礼も言えないまま、私は走り去ってしまった。
そして——アリア様が幼い頃からずっと想い続けていた「ルカ」という名の人。
同じ人だった。
アリア様が愛した人。
私が、恋した人。
◇
私は、アリア様の私室へと急いだ。
扉の前で一度深呼吸をし、ノックする。
「……アリア様、クローネです。お見送りを済ませて参りました」
返事はなかった。
私は静かに扉を開けた。
アリア様は——窓辺に立っていた。
外を見つめている。
その背中は真っ直ぐに伸び、王女としての威厳を保っていた。
泣いてはいない。
声も震えていない。
完璧な王女の姿。
けれど——私は気づいてしまった。
アリア様の手。
ドレスの裾を握りしめるその手が、白くなるほど震えていることに。
「……アリア様」
「下がりなさい、クローネ」
声は、冷たかった。
でも、その冷たさの奥に——私には、聞こえた。
今にも壊れそうな、悲鳴のような響きが。
「……失礼いたします」
私は一礼して、部屋を出た。
扉を閉める直前、振り返った。
アリア様は、まだ窓の外を見つめていた。
その横顔は——九年前から、何も変わっていなかった。
ルカ様のことを話す時だけ、少女のような笑顔を見せていた、あの頃と。
◇
廊下を歩きながら、私は涙を堪えていた。
アリア様は、自分の想いを殺そうとしている。
ルカ様を守るために。
この国を守るために。
魔剣の呪い。
最愛の人と結ばれた時、その相手の命を奪う——そんな残酷な呪いを、アリア様は一人で背負っている。
だから、あんな冷たい言葉を投げつけた。
「覚えていない」と嘘をついた。
「二度と現れるな」と突き放した。
全ては——ルカ様を、呪いから遠ざけるため。
愛しているからこそ、拒絶した。
守りたいからこそ、傷つけた。
「……アリア様」
私の目から、涙がこぼれた。
どうして、一人で背負おうとするのですか。
どうして、誰にも頼ろうとしないのですか。
あなたは——もう十分、頑張っているのに。
「……私が」
涙を拭い、私は顔を上げた。
「私が、お守りしなければ」
アリア様の心を守れるのは、私しかいない。
幼い頃から姉妹のように育った、私だけが。
アリア様は、自分を犠牲にしてルカ様を守ろうとしている。
でも——それは、本当にアリア様が望んでいることなのか。
本当は、助けてほしいのではないか。
誰かに、手を差し伸べてほしいのではないか。
「……ルカ様に、会いに行きます」
誰にも聞こえない声で、私は呟いた。
アリア様の命令に背くことになる。
侍女として、あるまじき行為かもしれない。
でも——私は、アリア様の幼馴染だ。
アリア様が言えないことを、私が伝える。
アリア様が求められない助けを、私が求める。
アリア様の本当の想いを。
この九年間、どれほどルカ様を待ち続けていたかを。
そして——魔剣の呪いのことを。
全てを、伝えなければ。
アリア様を救えるのは、きっと——あの方だけだから。
私は、廊下を歩き出した。
迷いは、なかった。




