第4話 婚約の知らせ
剣戟の音が、朝の空気を切り裂いた。
「——甘いです、ルカ様!」
鋭い声と共に、赤い影が迫る。
僕は咄嗟に剣を上げ、その一撃を受け止めた。金属同士がぶつかり合い、痺れるような衝撃が腕を伝う。
「っ——」
押し込まれる。力では敵わない——いや、違う。彼女の剣は力任せではない。体重の乗せ方、角度、タイミング。全てが完璧に計算されている。
「どうしました、ルカ様! このままでは——」
「——分かってるよ」
僕は受け流すのを諦め、あえて後ろに跳んだ。
距離が開く。
リゼ——僕の従者であり、剣の稽古相手でもある少女は、ポニーテールに結い上げた赤い髪を揺らしながら、鋭い青の瞳で僕を見据えていた。
「退くのですか?」
「退くんじゃない。仕切り直しだよ」
構え直す。剣先を相手の喉元へ。腰を落として、重心を低く。
リゼも同じく構えを取った。彼女の構えには隙がない。防御と迎撃に特化した、正統派の護衛剣術。
「——行くよ」
今度は僕から仕掛けた。
踏み込む。右からの斬撃——フェイント。本命は左下からの切り上げ。
「見えています」
リゼは最小限の動きで僕の剣を弾き、カウンターを放つ。
——速い。
でも、想定内だ。
僕は弾かれた勢いを利用して回転し、背後に回り込む。彼女の死角——その一瞬を突いて、首筋に剣を突きつけた。
「——僕の勝ちだね」
「……っ」
リゼの動きが止まった。
悔しそうに眉を寄せながら、彼女は小さく息を吐いた。
「……参りました」
「うん、お疲れ様」
僕は剣を引き、構えを解いた。
リゼも同じく剣を下ろす。額には薄っすらと汗が滲んでいた。
「また負けました……」
「そんなに落ち込むことないよ。今日は僕の調子が良かっただけだ」
「いいえ」
リゼは真剣な顔で首を振った。
「ルカ様の剣は、日に日に鋭さを増しています。私ごときでは、もはや稽古相手としては不足なのかもしれません」
「そんなことないって」
僕は苦笑した。
「リゼがいなかったら、僕はここまで強くなれなかったよ。いつも感謝してる」
「……っ」
リゼの頬が、僅かに赤くなった。
「そ、そのようなお言葉、もったいのうございます……! 私は、ただ従者として当然のことを——」
「はいはい、分かったから。そろそろ休憩にしよう」
「は、はい……」
僕が歩き出すと、リゼは慌てて後をついてきた。
◇
訓練場の隅にある木陰で、僕たちは腰を下ろした。
用意していた水筒を取り、喉を潤す。リゼも同じく水を飲んでいたが、その目は常に周囲を警戒していた。
「……リゼ、そんなに気を張らなくても大丈夫だよ。ここは僕たちの領地だ」
「油断は禁物です」
リゼはきっぱりと言った。
「いつ何時、主に危険が及ぶか分かりません。警戒を怠らないのは、従者として当然の務めです」
「……はぁ」
僕は小さくため息をついた。
彼女はいつもこうだ。真面目で、堅物で、過保護で——。
でも、それが悪いとは思わない。むしろ、彼女のそういうところには、何度も助けられてきた。
リゼが僕の従者になったのは、六年前のことだ。
彼女の家——かつてアーデンハイト侯爵家に仕えていた男爵家は、僕が廃嫡された時、本家が保身に走ったことを嘆いていたらしい。
そして、リゼの両親は決断した。
「我らが本当に仕えるべきは、その苦境にある若き主君だ」と。
十一歳のリゼは、その命を受けて僕の元にやってきた。
最初は正直、戸惑った。同い年の女の子が、いきなり「生涯をかけてお守りします」なんて言うのだから。
でも——彼女は本気だった。
模擬戦を申し込まれた時、僕は彼女の覚悟を知った。
そして、彼女は僕の剣を見て——何を感じたのか、その場で膝をついて忠誠を誓った。
あの日から六年。
リゼは常に僕の傍にいた。
剣の稽古相手として。従者として。そして——僕が心を開ける数少ない相手として。
「……ルカ様」
「ん?」
「本日の午後の予定ですが、領地の視察を予定しております。ご準備はよろしいでしょうか」
「うん、大丈夫だよ。いつも通りでいい」
「畏まりました。では、昼食の後に出発いたします」
リゼはそう言って、手帳に何かを書き込んだ。
彼女は僕のスケジュールを一分単位で管理しようとする。最初は窮屈に感じたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
「……そういえば、リゼ」
「はい、何でしょうか」
「今日の昼食、何か希望はある?」
「は?」
リゼが、きょとんとした顔で僕を見た。
「いえ、私の希望など……主が従者の食事の希望を聞くなど、前例が——」
「前例とかいいから。たまには好きなもの食べたいでしょ」
「そ、そのようなことは……」
リゼは困ったように視線を彷徨わせた。
その耳が、少しだけ赤くなっている。
「……強いて言えば」
「うん」
「……辛いもの、が」
「辛いもの?」
「はい。……お恥ずかしながら、私は辛い料理を好みます。味よりも、眠気覚ましになるので……」
「へえ」
僕は思わず笑ってしまった。
「リゼって甘いもの苦手だもんね。正反対だなあ」
「ルカ様は甘党でいらっしゃいますからね」
「うん。……あの時のパフェ、美味しかったなあ」
何気なく呟いた言葉に、僕自身が驚いた。
三年前、王都で偶然出会った少女のことが、ふと頭に浮かんだ。
名前も聞けないまま、彼女は走り去ってしまった。あの時の慌てた様子と、胸元で揺れていた王家の紋章が入ったペンダント。
結局、あれが何だったのか、今も分からないままだ。
「……パフェ、ですか?」
リゼが、わずかに目を細めた。
「いや、なんでもないよ。昔の話」
「……そうですか」
リゼはそれ以上追及しなかったが、どこか不満そうな顔をしていた。
まあ、仕方ない。僕が他の女性の名前を出すと、彼女はいつもこうなる。
嫉妬——というのとは少し違う気がする。どちらかというと、警戒心に近い。主に近づく者は全て敵だ、とでも言わんばかりの。
「……リゼ」
「はい」
「そんなに睨まなくても大丈夫だから」
「睨んでなどおりません」
「してるって」
「しておりません」
むすっとした顔で言い張るリゼを見て、僕はまた笑った。
こういう時の彼女は、年相応の女の子に見える。普段の「完璧な従者」とは違う、どこか可愛らしい一面。
「——ルカ様」
その時、別の声が聞こえた。
振り向くと、屋敷の方から使用人の一人が走ってきていた。
「どうしました?」
僕が立ち上がると、使用人は息を切らせながら言った。
「王都から、早馬が参りました。至急、お屋敷へお戻りください」
「王都から?」
嫌な予感がした。
王都から、わざわざ早馬を飛ばしてくるような用件。
それが良い知らせであるはずがない。
「……分かりました。すぐに戻ります」
「ルカ様」
リゼが、すっと僕の隣に並んだ。
その目は、先ほどまでの柔らかさを消し、従者としての鋭さを取り戻していた。
「何があろうと、私がお守りいたします」
「……ありがとう、リゼ」
僕は頷いて、屋敷へと歩き出した。
◇
屋敷に戻ると、応接間に一人の男が待っていた。
王家の紋章が入った外套。間違いない、王都からの使者だ。
「アーデンハイト子爵殿ですな」
男は僕を見ると、慇懃に頭を下げた。
「お初にお目にかかります。王宮より参りました」
「……ご丁寧にありがとうございます。それで、ご用件は?」
「はい」
使者は懐から一通の書状を取り出した。
「こちらを、お読みいただきたく」
僕は書状を受け取り、封を開いた。
中身に目を通す。
一行目を読んだ瞬間、僕は——息が止まった。
『アリア・アステリナ王女殿下は、マルディナ王国のドミニク・ヴェルモント公爵と婚約される運びとなった』
「……は?」
声が、掠れた。
読み間違いかと思って、もう一度読み返す。
でも、書かれている内容は変わらなかった。
アリアが——婚約。
政略結婚。
「……何ですか、これは」
「王女殿下のご婚約に関するお知らせでございます。王国内の貴族の方々には、広くお伝えするよう仰せつかっております」
使者は淡々と言った。
「式の日取りはまだ決まっておりませんが、おそらくは数ヶ月以内かと。子爵殿におかれましても、祝辞の準備をお願いできればと——」
「祝辞?」
僕は、使者の言葉を遮った。
「……祝辞、ですか」
「はい。王女殿下のご婚約は、王国にとって慶事でございますゆえ——」
「慶事」
その言葉が、胸に突き刺さった。
アリアが、見知らぬ男に嫁ぐことが——慶事?
九年前の記憶が蘇る。
泣きながら僕の名前を呼んでくれた彼女。
「迎えに来て」と叫んでくれた彼女。
あの約束を——僕は、まだ果たしていない。
「……子爵殿?」
使者が、怪訝そうな顔で僕を見ていた。
「大丈夫ですか? お顔の色が——」
「問題ありません」
僕は、努めて冷静な声を出した。
「お知らせ、確かに受け取りました。ご苦労様でした」
「はあ……では、私はこれで。失礼いたします」
使者は一礼して、部屋を出ていった。
その足音が遠ざかっていく。
応接間には、僕とリゼだけが残された。
「……ルカ様」
リゼが、静かに声をかけてきた。
「お顔が……真っ青です」
「……そう?」
自分では分からなかった。
ただ、手が震えているのは分かった。書状を握りしめる指が、白くなっていた。
アリア。
九年間、ずっと心の奥にしまっていた名前。
忘れたことなど、一度もなかった。
強くなって、迎えに行く。
そう誓って、僕はここまで来た。
でも——。
「……っ」
遅かった、のか。
僕がこの辺境で燻っている間に、彼女の運命は決められてしまったのか。
——いや、待て。
ふと、頭の中で何かが繋がった。
九年前。僕がアリアと引き離され、廃嫡された、あの出来事。
あの時、父上は言った。「第一王子殿下の怒りは深い」と。
でも——本当にそうだったのか?
たかが子供同士が森で会っていただけで、侯爵家の嫡男を廃嫡するほどの「怒り」が生まれるものだろうか。
今なら、分かる。
もし——もしも、あの時点で既にアリアの政略結婚が決まっていたとしたら。
王女に近づく者は、たとえ子供であっても排除しなければならなかった。
僕の廃嫡は、「罰」ではなく——「邪魔者の排除」だったのではないか。
「……そういうことか」
低い声が、自分の口から漏れた。
あの日から、全ては仕組まれていたのかもしれない。
アリアを籠の鳥にするために。
誰にも触れさせないために。
僕は——最初から、彼女の傍にいることを許されていなかったんだ。
政略結婚。
それが何を意味するか、貴族である僕には分かる。
アリアの意思など、関係ない。
王国の都合で、知らない男に差し出される。
あの自由を夢見ていた少女が——籠の中に閉じ込められる。
「……リゼ」
「はい」
「僕は——」
言葉が詰まった。
何を言えばいい?
何をすればいい?
子爵の立場で、王女の婚約に口を出せるはずがない。
身分の壁。力の壁。
九年前と、何も変わっていない——。
「ルカ様」
リゼの声が、僕の思考を遮った。
「私は、主がどのような決断をされようとも、お供いたします」
「……え?」
顔を上げると、リゼは真っ直ぐな目で僕を見ていた。
「主の御心は、私などには計り知れません。ですが——今、主が何かを決意されようとしていることは分かります」
「リゼ……」
「例えそれが、どれほど無謀なことであろうとも」
リゼは、静かに、しかし力強く言った。
「この命に代えても、私は主をお守りいたします。それが、私の誓いです」
その言葉が、僕の胸に深く響いた。
一人じゃない。
この六年間、リゼはずっと僕の傍にいてくれた。
どんな時も、僕を信じて、支えてくれた。
「……ありがとう、リゼ」
僕は、震える手を握りしめた。
「僕は——王都に行く」
「……はい」
「アリアに会いたい。彼女が本当に、この婚約を望んでいるのか。この目で確かめたいんだ」
九年前は、何もできなかった。
でも、今は違う。
僕は強くなった。少しは、自分の足で立てるようになった。
だから——。
「行こう、リゼ。王都へ」
「承知しました」
リゼは深く頭を下げた。
「いつでも、出立の準備は整えます」
僕は窓の外を見た。
空は青く晴れ渡っている。
九年ぶりに——僕は、王都へ向かう。
あの日、果たせなかった約束を。
今度こそ——。
◇
翌朝から、僕たちは王都への出発準備を始めた。
「リゼ、荷物はこれくらいでいいかな」
「はい。長期滞在になる可能性も考えて、着替えは多めに用意しました」
リゼが手際よく荷物をまとめていく。
僕は自分の部屋で、持っていくものを選んでいた。
必要最低限の衣服。身分を証明する書類。それから——。
「……」
机の上に、木製のパズルが置かれていた。
複雑に組み合わさった木片。一見すると、どう解けばいいのか全く分からない代物だ。
三年前、王都の商人から買ったものだった。
暇な時間を見つけては、少しずつ挑戦していた。
「ルカ様」
リゼが部屋に入ってきた。
「荷物の準備が——あ」
彼女の視線が、机の上のパズルに向いた。
「そのパズル……」
「ああ、これ?」
僕はパズルを手に取った。
「最近、やっと解けたんだ。結構かかっちゃったけどね」
「そうでしたか」
リゼは、どこか懐かしそうな目でパズルを見つめた。
「ルカ様がそれに挑戦されているのは、ずっと見ておりました」
「え、見てたの?」
「はい。夜、書斎で難しい顔をされながら、何度も組み直しておられましたから」
「……恥ずかしいな、それ」
僕は苦笑した。
何度挑戦しても解けなくて、悔しくて、でも諦められなくて。
そんな姿を、リゼはずっと見ていたのか。
「ルカ様は、一つのことに真面目に取り組まれる方ですから」
「そうかな?」
「そうですよ」
リゼは、静かに、しかし確信を込めて言った。
「ずっと……何かを成そうと、努力しておられる。私は、そんな主の姿を見てきました」
「……」
「剣の鍛錬も、領地の経営も、このパズルも。一度決めたことは、絶対に諦めない。それが、ルカ様です」
リゼの言葉が、胸に沁みた。
六年間、彼女はずっと傍で見ていてくれたんだ。
僕が足掻いている姿を。諦めずにもがいている姿を。
「……ありがとう、リゼ」
「いえ。事実を申し上げただけです」
リゼは、いつもの無表情に戻った。でも、その目には——どこか、温かな光が宿っていた。
「それで、そのパズルは持っていかれますか?」
「……いや、置いていくよ」
僕はパズルを机に戻した。
「もう解けたからね。今は——別のことに集中しないと」
アリアのこと。
九年越しの約束。
今度こそ、果たさなければならない。
「では、出発の準備は整いました」
「ああ。行こう、リゼ」
僕は部屋を出た。
振り返らなかった。
今は、前だけを見て進む時だ。




