第24話 天才の意味
シルフィーネの滞在する客室を訪れたのは、約束の時間より少し早かった。
扉の前で案内役の侍従が取り次ぎを行い、中から入室の許可が出る。
「失礼します」
部屋に入ると、シルフィーネは窓際の机に向かっていた。
こちらを一瞥もせず、何かを描いている。ペンを走らせる音だけが、静かな部屋に響いていた。
「早かったですね、子爵殿」
視線は手元に落としたまま、シルフィーネが言った。
「申し訳ありません。何もおもてなしはできませんが……少しだけ、お待ちいただけますか?」
「ああ、構いません」
僕は部屋の中央で立ち止まり、彼女の背中を眺めた。
ピンクゴールドの髪が、窓からの光を受けて淡く輝いている。小さな背中は、真剣に何かに取り組んでいるように見えた。
机の上に広げられた紙。そこに、細かな線が描き込まれていく。
「……それは、何を?」
「ああ、これですか」
シルフィーネは、ようやくペンを止めた。
「その前に——敬語は結構ですよ、子爵殿」
「え?」
「ここは二人きりですしね。堅苦しいのは、あまり好みではありませんので」
シルフィーネが、くるりと椅子を回してこちらを向いた。
その紫色の瞳が、悪戯っぽく光る。
「……分かった。……いや、分かったよ」
僕は言葉を選び直しながら、頷いた。
「君がそう望むなら、そうさせてもらう」
「ええ、そうしてください」
シルフィーネは満足そうに頷いた。
「それで、さっきの質問だけど……それは何を描いてるんだ?」
「見ますか?」
シルフィーネが、机の上の紙を示した。
近づいて覗き込むと——それは、建物の見取り図だった。
複雑な構造。いくつもの部屋。そして、細かく書き込まれた注釈。
「これは……監獄の地図?」
「ええ。先ほどお渡しした名簿の、収容施設です」
シルフィーネは、再びペンを手に取った。
「記憶を頼りに描いているので、少々時間がかかっておりまして」
「記憶を頼りに……?」
「ええ」
シルフィーネは、淡々と線を引きながら答えた。
「どうして、わざわざそんなことを? 君にとって、僕に協力するメリットは——」
「そう聞かれましても」
シルフィーネが、ペンを止めた。
「あまり他国の貴族に、手の内を明かすのは避けたいのですが……」
彼女は少し考え込むような仕草をして、それから小さく笑った。
「……パフェのお礼、ということにしておいてください」
「パフェの?」
「ええ。とても美味しかったので」
冗談なのか本気なのか、分からない笑みだった。
「……それで、どうやってこの監獄のことを?」
「実は——」
シルフィーネは、再びペンを走らせながら言った。
「わたくし、ドミニク公爵から婚約の申し込みを受けていたのですよ」
「……え?」
「ソリュシアは小国ですからね。大国の貴族からの求婚は、珍しいことではありません」
シルフィーネの声は、どこか冷めていた。
「もちろん、お断りしましたけれど。あのような男の妻になるつもりは、毛頭ありませんでしたから」
「……」
「ただ、その際に——彼の趣味を見せていただく機会がありまして」
「趣味?」
「ええ。自慢げに案内してくれましたよ。『我が秘蔵のコレクション』だと」
シルフィーネの目が、冷たく光った。
「……鎖に繋がれた亜人たちを、まるで美術品のように並べて。それを眺めながら、上機嫌で語るのです。『彼らは私の所有物だ』と」
「……っ」
吐き気がした。
「わたくしは、その光景を——全て、記憶しました」
シルフィーネは、淡々と続けた。
「通路の配置。部屋の数。警備の位置。全て、この頭の中に」
ペンが止まる。
「そして今、こうして地図に起こしているというわけです」
完成した地図を、シルフィーネが僕に差し出した。
詳細な見取り図。侵入経路。警備の配置。全てが、驚くほど精密に描かれている。
「……じゃあ、さっきの名簿も?」
「敵の弱点は、多い方がいいですから」
シルフィーネは、肩をすくめた。
「情報は外交の基本ですよ。使えそうなものは、常に集めておくものです」
「……」
僕は、改めてシルフィーネを見つめた。
千年に一度の天才。
その称号が、どれほどの努力の上に成り立っているのか——今、少しだけ分かった気がした。
「……すごいな、君は」
「え?」
シルフィーネが、僅かに目を見開いた。
「一度見ただけで、これだけ詳細に記憶して、地図に起こせるなんて。それに、常に情報を集めて、いざという時に備えている」
「……それは、当然のことです。国を守るためには——」
「当然じゃないよ」
僕は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「誰にでもできることじゃない。君が、ずっと努力してきたからこそできることだよ」
「……」
シルフィーネは、しばらく黙っていた。
その紫色の瞳が、僅かに揺れている。
「……変わった方ですね、貴方は」
「そうかな」
「ええ。わたくしの能力を褒める人は多いですが……『努力』を褒められたのは、初めてです」
シルフィーネは、小さく笑った。
その笑顔は——さっきまでの計算高いものとは、少し違って見えた。




