第21話 シルフィーネ・ソリュシア
その日の午後。
クローネが、少し困ったような顔でルカの元を訪れた。
「ルカ様。ソリュシア王国のシルフィーネ王女殿下が、貴方にお会いしたいそうです」
「シルフィーネ王女……」
僕は、その名前を聞いて眉をひそめた。
シルフィーネ・ソリュシア。
アステリナ王国の隣に位置する小国、ソリュシア王国の王女だ。
ソリュシアは様々な国家に囲まれた地政学的に脆弱な国だと聞いている。一歩間違えれば、大国に飲み込まれてもおかしくない立場。
だが——その国は、今も独立を保っている。
理由は、彼女だ。
病弱な父王に代わり、十代にして国の実権のほとんどを掌握。巧みな外交と政治手腕で、周辺国との均衡を保ち続けているという。
「千年に一度の天才」——そう呼ばれる少女。
「……その王女殿下が、僕に?」
「はい。アリア様との茶会で、ルカ様のことをお聞きになったようです」
「なるほど……婚約破棄の件か」
「おそらくは」
クローネは、声を潜めた。
「ルカ様。あの方は、アリア様とはまた違う、底知れない瞳をされています」
「……」
「くれぐれも、お気をつけて。値踏みされるような気がします」
「値踏み、か」
僕は少し考えた。
千年に一度の天才と呼ばれる王女が、わざわざ僕のような子爵に会いたがる。
何か、狙いがあるのだろう。
だが——断る理由もない。
「……分かった。会ってみよう」
「お気をつけて、ルカ様」
◇
シルフィーネの滞在する客室は、離宮の奥にあった。
案内された部屋に入ると——僕は、思わず足を止めた。
窓際の机に向かっている少女がいた。
光沢のあるピンクゴールドの髪が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。長い髪は、ツーサイドアップに結い上げられていた。
小柄で、華奢な体躯。
その姿は——まるで、精巧に作られたビスクドールのようだった。
「……」
少女は、書類を眺めながら、こちらを一瞥もしない。
僕は静かに待った。
やがて、少女が顔を上げた。
その瞬間——紫色の瞳と、目が合った。
息を呑んだ。
完璧に整った、愛らしい顔立ち。
だが、その大きな瞳には——鋭い知性が宿っていた。
全てを見透かすような、底知れない光。
愛らしい外見とは裏腹な、計算高い視線。
——これが、千年に一度の天才か。
僕は、内心で警戒心を強めた。
この少女は、見た目に騙されてはいけない相手だ。
小柄で、華奢で、守ってあげたくなるような外見。だが——その内側には、大国を手玉に取る頭脳が潜んでいる。
「お待たせいたしました。アーデンハイト子爵殿」
声は、穏やかだった。どこか誘惑的で、余裕のある響き。
「いえ。お忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」
「ふふ、礼儀正しい方ですね」
シルフィーネは、くすりと笑った。
その笑顔は——確かに愛らしかった。
だが、僕は油断しなかった。
この少女の前では、一瞬の隙も見せてはいけない。
そう、直感が告げていた。
「さて、子爵殿。早速ですが——」
「シルフィーネ王女殿下。僕に会いたいというお話でしたが……どのようなご用件でしょうか」
「単刀直入ですね。嫌いではありませんよ」
シルフィーネは、くすりと笑った。
「聞くところによると、貴方がアリア王女殿下の婚約破棄を主導したとか」
「……はい」
「一介の子爵が、わざわざ王族の婚約に横入りしたのはなぜでしょう? 何か、国を動かすための策略でもお持ちなのですか?」
その目は、鋭く僕を観察していた。
僕は——正直に答えることにした。
「それは……彼女が泣いていたからです」
「……は?」
シルフィーネの表情が、一瞬だけ固まった。
「泣いていた……?」
「はい。アリアは、望まない婚約を押し付けられていました。苦しんでいました。だから、僕は動いた。それだけです」
「……」
シルフィーネは、しばらく僕を見つめていた。
その目には、困惑と——どこか、興味深げな光が浮かんでいた。
「策略ではないのですか?」
「策略……というほどのものではありません。確かに、宰相の弱みを握りましたが、それは手段に過ぎない」
「では、目的は?」
「アリアを救うこと。それだけです」
沈黙が落ちた。
シルフィーネは、僕の目を真っ直ぐに見つめていた。
何かを探るように。何かを確かめるように。
「……ふふ」
やがて、シルフィーネは小さく笑った。
「面白い方ですね、子爵殿。本当に、そんな理由で動いたのですか」
「信じていただけないかもしれませんが、本当です」
「いえ、信じますよ。貴方の目は、嘘をついていない」
シルフィーネは、椅子の背にもたれた。
「……正直、困惑しているのですよ。わたくしの常識では、理解できない行動ですから」
「でも——」
シルフィーネの目が、僅かに輝いた。
「嫌いではありませんよ。そういう、損得を超えた行動をする人間は」
「……ありがとうございます」
「さて、質問はこれくらいにいたしましょう」
シルフィーネは立ち上がりかけ——そして、僕の視線が机の上のあるものに向いているのに気づいた。
「……そのパズル」
「え?」
「王女殿下のものですか?」
机の上には、複雑な形をした木製のパズルが置かれていた。
シルフィーネは、少し恥ずかしそうに答えた。
「ええ……最近解き始めたのですけれど、なかなか解法が見つからなくて。お手上げ状態なのですよ」
「……」
僕は、そのパズルをじっと見つめた。
見覚えがあった。
いや——見覚えどころではない。
「それなら、ここの部分……力を加える方向を逆にしてみたらどうでしょうか」
「……」
シルフィーネの手が、一瞬だけ止まった。
それ以外に、彼女の動揺を示すものは何もなかった。
「子爵殿……貴方、これを?」
「僕も最近解けたばかりなんです。ずっとこのパズルに挑戦していて……かなり、時間がかかってしまいましたけどね」
「……」
シルフィーネは、静かに僕を見つめていた。
その紫色の瞳は、いつもと変わらぬ冷静さを湛えている。
だが——その奥で、何かが揺れたような気がした。
「失礼ですが……どれくらいの期間、このパズルに?」
「えっと……三年、くらいでしょうか」
「三年……」
シルフィーネは、呆然と呟いた。
三年。
一つのパズルに、三年間も取り組み続けた。
それは——ただの「知性」ではない。
「執念」だ。
一度決めたことを、絶対に諦めない。どれだけ時間がかかっても、必ず答えに辿り着く。
——この男は。
——わたくしが思っていたよりも、ずっと——。
「……ふふ」
シルフィーネは、小さく笑った。
「驚きました、子爵殿。貴方は、本当に面白い方ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。ますます興味が湧いてきましたよ」
シルフィーネの目が、妖しく輝いた。
「子爵殿。また、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「……ええ、構いませんが」
「ありがとうございます。では、また後日」
シルフィーネは、優雅に微笑んだ。
その笑顔には——どこか、獲物を見つけた捕食者のような光があった。




