第2話 引き離される二人
それから、僕たちは何度かこの山で会うようになった。
最初は偶然を装っていたけれど、すぐにお互い「会いに来ている」ことに気づいた。
「ルカ、今日は何してたの?」
「素振りだよ。いつも通り」
「すごいね、毎日やってるの?」
「うん。父上に言われてるから」
僕がそう答えると、アリアは少し羨ましそうな顔をした。
「私も……剣術、習ってるの。でも、全然楽しくない」
「楽しくない?」
「うん。だって、決められたことをやらされてるだけなんだもの。自分で選んだわけじゃないのに」
その言葉に、僕は少しだけ驚いた。
僕も同じだったから。
剣術も、礼儀作法も、帝王学も——全部、「侯爵家の嫡男だから」という理由で押し付けられたものだ。自分で望んだわけじゃない。
「……分かるよ、その気持ち」
「本当?」
「うん。僕も、やらなきゃいけないことばっかりで、息が詰まる時がある」
アリアは目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「ルカも同じなんだ。……なんだか、安心した」
その笑顔を見て、僕も自然と笑みがこぼれた。
この子といると、不思議と心が軽くなる。
誰にも言えなかったことを、素直に話せる気がした。
「……ねえ、アリア」
ふと、僕は前から気になっていたことを尋ねた。
「アリアはどうやってここまで来てるの? 一人で山奥まで来るの、大変じゃない?」
「ああ、それはね——」
アリアは少しいたずらっぽく笑った。
「秘密の抜け道があるの」
「抜け道?」
「うん。昔、お母様に教えてもらったの。離宮の庭園から続いてる古い通路があって、そこを抜けると森の近くに出られるの」
「へえ……」
「お母様も昔、息が詰まると一人でこっそり抜け出してたんだって。だから、私にだけ教えてくれたの」
アリアは懐かしそうに目を細めた。
「でも、誰にも言っちゃダメだよ? 私だけの秘密なんだから」
「……うん、分かった。誰にも言わないよ」
僕が頷くと、アリアは安心したように微笑んだ。
「ルカになら、教えてもいいかなって思ったの」
その言葉が、なんだかとても嬉しかった。
◇
ある日のことだった。
いつもの場所に行くと、アリアが一冊の本を抱えて待っていた。
「ルカ、見て。これ、私のお気に入りなの」
「本?」
「うん。冒険のお話。すごく面白いんだよ」
アリアは嬉しそうに本を開いて見せてくれた。
表紙には、剣を持った若者と、広大な世界の風景が描かれていた。
「主人公がね、すごく自由なの。誰にも縛られないで、いろんな世界を見て回るの。山を越えて、海を渡って、誰も知らない場所を冒険して……」
アリアの目が、きらきらと輝いていた。
「私も、こうなりたいなって思うの」
「……アリアの憧れってこと?」
「うん」
彼女は本を胸に抱きしめた。
「私も、もっと自分の足でいろんな場所を見てみたい。誰かに決められた道じゃなくて、自分で選んだ道を歩きたいの」
その言葉は、僕の心にも響いた。
僕だって、同じことを思ったことがある。侯爵家の嫡男として用意された道筋の上を、ただ歩くだけの人生なんて——。
「……ねえ、ルカ」
「なに?」
「私が剣術を学んだら、この主人公みたいになれるかな?」
アリアは真剣な目で僕を見つめていた。
「どうかな……」
僕は少し考えて、答えた。
「でも、無駄ではないと思うよ。少なくとも、前みたいにただ逃げるだけじゃなくなる」
「……うん」
アリアは頷いた。その目に、決意の光が灯る。
「じゃあ、私も強くなる。それで、自分の足でいろんな世界を旅するの」
そして、彼女は僕の顔を真剣に見つめた。
「ルカも、手伝ってくれる?」
「……え?」
「私が強くなるの、手伝って。それで——」
アリアは少し恥ずかしそうに、でも真っ直ぐな目で言った。
「一緒に来てくれない? いろんな世界を見に」
心臓が、大きく跳ねた。
この子と一緒に、まだ見ぬ世界を旅する。
決められた道じゃなく、自分たちで選んだ道を歩く。
それは——僕にとっても、夢のような話だった。
「……うん」
気がつけば、僕は頷いていた。
「僕も、大切な人を守れるようにもっと強くなるよ。そして——一緒にいろんな世界を見て回ろう」
アリアの顔が、ぱっと輝いた。
「本当!?」
「本当だよ」
「じゃあ、約束ね!」
アリアが小指を差し出す。
僕は笑って、その小指に自分の小指を絡ませた。
「約束」
「一緒に、この本の物語みたいに冒険するの!」
「うん」
木漏れ日の中で、僕たちは笑い合った。
その約束が、どんな結末を迎えるのか。
この時の僕は、まだ知らなかった。
◇
約束を交わしてから、数日後のことだった。
その日も、僕はいつもの場所でアリアを待っていた。
木々の間から差し込む光が、午後の傾きを帯びている。
「……遅いな」
普段なら、もうとっくに来ている時間だ。
何かあったのだろうか。
胸がざわついた。
——大丈夫、きっとすぐ来る。
自分にそう言い聞かせて、僕は待ち続けた。
やがて——足音が聞こえてきた。
でも、それはアリアのものではなかった。
重い、複数の足音。金属が擦れる音。
「——いたぞ!」
男の声が響いた。
木々の向こうから、鎧を纏った男たちが現れる。
騎士だ。それも、一人や二人ではない。
「お前は......アーデンハイト侯爵家の嫡男か?」
先頭の男が、厳しい目で僕を見下ろした。
——アーデンハイト侯爵家。僕の家のことだ。
「王女殿下をこんな山奥まで連れ回していたのは、お前か」
——王女殿下?
頭が真っ白になった。
「な、何のことですか。僕は——」
「ふん、惚けても無駄だ。王女殿下は既に確保した」
男が顎をしゃくると、騎士たちが左右に分かれた。
その奥に——。
「ルカ……!」
アリアがいた。
二人の騎士に両腕を掴まれ、無理やり連れてこられていた。
「アリア!」
僕は駆け出そうとした。でも——。
「動くな」
剣の切っ先が、僕の喉元に突きつけられた。
「これ以上、王女殿下に近づくことは許されない。侯爵家の子息といえど、王族を勝手に連れ出すなど言語道断」
「待ってください! 僕たちは、ただ——」
「黙れ」
冷たい声が、僕の言葉を遮った。
「子供の言い訳など聞いていない。この件は、侯爵閣下にも報告させてもらう」
報告? 父上に?
背筋が凍った。でも、それよりも——。
「アリアは何も悪くない! 僕が——」
「口を慎め。事情は侯爵家で聞く」
騎士は僕の言葉を遮り、部下たちに命じた。
「王女殿下をお連れしろ」
号令がかかる。
アリアが、僕の方へ必死に手を伸ばした。
「ルカ!」
「アリア——!」
僕も手を伸ばす。でも、騎士に押さえつけられて、一歩も動けない。
「離せ……! 離してくれ……!」
「暴れるな、小僧」
力ずくで地面に押し付けられる。土の匂いが鼻をついた。
顔を上げると、アリアがどんどん遠ざかっていくのが見えた。
騎士たちに囲まれて、森の出口へと連れ去られていく。
「ルカ——!」
アリアが叫んだ。
その目から、涙がこぼれていた。
「約束、忘れないで……!」
——約束。
一緒に世界を見て回ろう、という約束。
「あなたは強いから……! いつか、私のこと——」
アリアの声が、途切れそうになる。
「——迎えに来て!!」
その叫びが、森に響いた。
僕は——何もできなかった。
押さえつけられたまま、彼女の姿が木々の向こうに消えていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
「……アリア」
声が震えていた。
手を伸ばしても、届かない。
あんなに近くにいたのに——何も、できなかった。
騎士たちが去った後も、僕はしばらく動けなかった。
地面に膝をついたまま、彼女が消えていった方角を見つめ続けた。
悔しかった。
情けなかった。
自分が、こんなにも無力だなんて——。
「……僕は」
拳を握りしめる。
土が爪の間に入り込んで、痛かった。
「僕は……」
あの日、熊からアリアを守れたのは、ただの偶然だった。
本物の騎士たちの前では、僕は何の力も持たない、ただの子供だった。
身分の壁。実力の壁。
そんなものに、僕は一瞬で押し潰された。
「……っ」
涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
泣いたって、何も変わらない。
泣いたって、アリアは戻ってこない。
「……絶対に」
僕は立ち上がった。
膝が震えていた。でも、歯を食いしばって、真っ直ぐに立った。
「絶対に、迎えに行く」
誰にも聞こえない声で、僕は誓った。
強くなる。
誰にも負けないくらい、強くなる。
そして——必ず、あの約束を果たしてみせる。
木漏れ日が、いつの間にか陰っていた。
風が冷たく頬を撫でる。
僕はその場を離れられないまま、沈みゆく太陽を見つめ続けていた。




