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第14話 決められた婚約

王城の一室。

私は兄上——レグナス・アステリナ第一王子の前に立っていた。

アステリナ王国の政治は、今や実質的に兄上の手中にある。

父上——現国王は、数年前から「若い者に任せる」と称して、国政の大半を兄上と私に委ねるようになった。

表向きは次世代への権限移譲。だが、その実態は——兄上による権力の独占だった。

第一王子派閥と第二王子派閥。

かつては拮抗していた二つの勢力も、今ではレグナス兄上が圧倒的に優位に立っている。マルシャン宰相を筆頭に、多くの貴族が兄上の下に集い、私の味方は日に日に減っていった。

私自身、王位を望んだことはない。

ただ自由に生きたかっただけ。ルカとの約束を果たしたかっただけ。

でも——この国では、そんな願いすら許されなかった。


「——報告は以上です、兄上」


淡々と告げる。感情を押し殺して、事実だけを並べる。

婚約の準備は順調に進んでいること。ドミニク公爵との顔合わせも滞りなく終えたこと。そして——。


「アーデンハイト子爵の件は?」


レグナスは、書類から目を上げずに問うた。


「……お帰りいただきました」


「追い返した、か」


「はい」


「奴は何か言っていたか」


「……昔の約束を、果たしに来たと」


その言葉を口にした瞬間、胸が締め付けられた。

ルカの顔が、脳裏に浮かぶ。

あの真っ直ぐな目。「僕は君を迎えに来たんだ」という声。

九年間、ずっと待っていた言葉だった。

なのに、私は——。


「ふん。相変わらず青臭い男だ」


レグナスは鼻で笑った。


「だが、お前はうまくやったようだな。奴が引き下がったということは、諦めさせることができたのだろう」


「……はい」


諦めさせた。

その言葉が、重く胸にのしかかる。

本当に、諦めてくれただろうか。

あの目を見る限り——きっと、まだ諦めていない。

でも、それでいい。

ルカが諦めなくても、私が突き放し続ければいい。

そうすれば——ルカは、死なずに済む。


「……いいだろう。引き続き、婚約の準備を進めろ」


「はい、兄上」


私は深く頭を下げた。



部屋に戻り、窓の外を眺める。

夕暮れの空が、赤く染まっていた。

——ドミニク公爵。

その名前を思い出すだけで、背筋に悪寒が走る。

婚約が正式に決まった日。私は、マルディナ王国を訪れ、初めて彼と対面した。



「ようこそいらっしゃいました、アリア王女殿下」


ドミニク公爵は、慇懃な笑みを浮かべて私を迎えた。

四十代前半の、整った顔立ちの男。だが、その目には——どこか、爬虫類のような冷たさがあった。


「遠路はるばる、お疲れでしょう。どうぞ、おくつろぎください」


「……お気遣い、感謝いたします」


私は表情を崩さずに答えた。

公爵の屋敷は、豪華絢爛だった。

大理石の床。金箔の装飾。壁には高価な絵画が並び、廊下には美しい彫刻が置かれている。

だが、私の目を引いたのは——そこで働く者たちだった。

メイド服を着た亜人の女性たち。エルフ、獣人、様々な種族がいる。

彼女たちは無表情で、機械のように働いていた。その首には——全員、同じ首輪がつけられていた。


「お気づきになりましたか」


ドミニク公爵が、にっこりと笑った。


「私のコレクションです」


「……コレクション?」


「ええ。私は美しいものを集めるのが趣味でしてね」


公爵は、近くにいた亜人のメイドの顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。


「この子は北方で手に入れたエルフ。純血種は珍しいんですよ」


メイドは——抵抗しなかった。

ただ、人形のように、されるがままになっていた。

その目には、何の光も宿っていなかった。


「こちらは帝国の奴隷商から購入した猫人。毛並みが美しいでしょう?」


公爵は次々と「コレクション」を紹介していく。

まるで、美術品を自慢するかのように。

胃の奥から、吐き気がこみ上げてきた。

この男は——亜人を、人として見ていない。

道具として。飾り物として。自分の欲望を満たすための——玩具として。


「そして——」


公爵の目が、私を捉えた。

ねっとりとした、舐めるような視線。


「あなたは、私の最高傑作になるでしょうね」


「……」


「アステリナ王国の第二王女。しかも、これほどの美貌。銀の髪に、茶色の瞳……実に、実に素晴らしい」


公爵は恍惚とした表情で言った。


「あなたを手に入れることが、どれほど私の悲願だったか……ご存知ですか?」


「……光栄に存じます」


私は、無表情のまま答えた。

吐き気を堪えながら。

この男の妻になる。

この男の「コレクション」になる。

——でも、それでいい。

ルカが死ぬよりは。

ルカがこの世界からいなくなるよりは。

私が、この男の玩具になる方が——ずっとましだ。


「ふふ……あなたは、強い方だ」


公爵は、愉しそうに目を細めた。


「その強さが折れる瞬間を見届けるのも——また、楽しみの一つですよ」



——あの日の記憶が、今も私を苛む。

窓の外を見つめながら、私は自分の腕を抱いた。

震えが、止まらなかった。


「……ルカ」


小さく、名前を呼ぶ。

会いたい。

会いたいけれど、会えない。

会ってしまったら——私は、きっと耐えられなくなる。

だから、突き放した。

冷たい言葉を投げつけた。

「覚えていない」と——嘘をついた。

本当は、一日だって忘れたことなんてない。

あの山で出会った日のこと。

一緒に笑った日のこと。

「世界を見て回ろう」と約束した日のこと。

全部、全部——覚えている。


「……ごめんね、ルカ」


涙が、頬を伝った。


「私は……あなたを、守りたいだけなの……」


誰にも聞こえない声で、私は呟いた。



一方、アリアが退出した後の部屋。

レグナスは書類を机に置き、窓の外を眺めていた。


「——やれやれ、順調に進んでいるようでぇ」


ねっとりとした声が、部屋に響いた。

振り返らなくても分かる。マルシャン宰相だ。


「盗み聞きとは、趣味が悪いな」


「いえいえ、殿下のお役に立てればと思いましてぇ」


マルシャンは、にやにやと笑いながら部屋に入ってきた。


「アリア王女殿下も、すっかり大人しくなられましたねぇ。あの気の強いお方が、あそこまで従順になるとは」


「……魔剣の呪いのおかげだ。皮肉なことにな」


「呪いとは、使いようでございますなぁ」


マルシャンは下卑た笑みを浮かべた。


「ドミニク公爵も大層お喜びでしょう。あれほどの美姫を手に入れられるのですから」


「公爵がお前に働きかけてきた時は、正直どうかと思ったがな」


「いえいえ、殿下にとっても悪い話ではなかったでしょう?」


マルシャンは、にやりと笑った。


「アリア王女殿下は、仮にも王位継承権をお持ちのお方。国内にいらっしゃる限り、万が一ということもございますからねぇ」


「……ふん」


レグナスは否定しなかった。

確かに、アリアは聡明だ。剣の腕も立つ。そして——厄介なことに、民からの人気もある。

王位を狙う気がなくとも、誰かに担ぎ上げられる可能性は常にあった。


「公爵の欲望に乗じて、厄介の種を国外へ出す。……悪くない取引だ」


「さすが殿下。先を見据えておられる」


「世辞はいい」


レグナスは振り返り、マルシャンを見据えた。


「それより、マルシャン」


「はい?」


「お前の遊びについてだが」


マルシャンの目が、僅かに泳いだ。


「……何のことでございましょう」


「とぼけるな。王都郊外で何をしているか、俺が知らないとでも思ったか」


「……」


「勘違いするなよ。俺は別にお前の趣味を咎めているわけではない」


レグナスは、淡々と続けた。


「お前の遊びが派閥の資金源になっている。貴族どもを繋ぎ止める餌にもなっている。俺にとって利益がある限り、目を瞑ってやる」


「……ありがたき幸せにございます」


「だが」


レグナスの目が、冷たく光った。


「もし大事になれば、俺は即座にお前を切り捨てる。そうなった時、お前を庇う者は誰もいない。分かっているな?」


「……ええ、ええ。重々、承知しておりますとも」


マルシャンは、深々と頭を下げた。

その顔には——一瞬だけ、憎悪の色が浮かんでいた。


「ご安心くださいませ、殿下。私も、馬鹿ではございませんので」


「そうであることを祈る。下がれ」


「はい。では、失礼いたします」


マルシャンは一礼して、部屋を出ていった。

その足音が遠ざかるのを確認してから、レグナスは小さく息を吐いた。


「……使える駒ではあるが、いつか始末することになるかもしれんな」


窓の外を見る。

夜の帳が、王都を包み込もうとしていた。

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