第10話 ティアーヌ
翌朝、僕とリゼは王都の大聖堂を訪れた。
白亜の壁に、天を突くような尖塔。ステンドグラスから差し込む光が、荘厳な雰囲気を醸し出している。
ソルミナ教の総本山——とまではいかないが、王都の大聖堂は大陸でも有数の規模を誇る。
「……ここに、ティアーヌが」
九年前、孤児院にいた少女。
今は聖女として、この場所で人々を導いているという。
「アーデンハイト子爵様ですね。お待ちしておりました」
入口で待っていた神官が、僕たちを中へ案内した。
長い回廊を歩く。壁には聖典の一節が刻まれ、天井には天使の絵が描かれていた。
やがて、一つの扉の前で神官が立ち止まった。
「聖女様は、こちらにおられます。どうぞ」
扉が開く。
その先に——彼女がいた。
「ようこそ、アーデンハイト子爵様」
柔らかな声が、僕の耳に届いた。
金色の髪が、窓から差し込む光を受けて輝いている。翠色の瞳は、慈愛に満ちていた。
白い聖衣を纏ったその姿は、まさに「聖女」と呼ぶに相応しかった。
「……ティアーヌ」
思わず、名前を呼んでいた。
彼女は——僅かに目を見開いた。
そして、その顔に柔らかな笑みが浮かんだ。
「お久しぶりです、ルカさん」
その声を聞いた瞬間、記憶が蘇った。
◇
あれは、僕が八歳の頃のことだった。
廃嫡されて一年。僕は辺境の領地で、一人で暮らしていた。
剣の稽古と、領地の管理。それだけが、僕の日常だった。
その日、僕はいつものように山で鍛錬をしていた。
木剣を振り、汗を流す。誰に見せるわけでもない。ただ、強くなりたかった。
アリアを迎えに行くために。あの日の約束を果たすために。
「——お願い、誰か……!」
その時、悲痛な声が聞こえた。
僕は反射的に声のした方へ走った。
森の中を駆け抜けると、一人の少女が膝をついていた。
金色の髪。翠色の瞳。僕より少し年上くらいの少女だった。
「どうしたの?」
僕が声をかけると、少女は涙でぐしゃぐしゃの顔で僕を見上げた。
「弟が……弟が、熱を出して……! 薬草を探してるんですけど、見つからなくて……!」
「薬草?」
「はい……! お医者様が、この山に生えてる薬草があれば熱が下がるって……でも、私、どれがその薬草か分からなくて……!」
少女は必死な顔だった。
「このままじゃ、ノアが……弟が、死んじゃう……!」
弟が、死ぬ。
その言葉が、僕の胸に突き刺さった。
「……どんな薬草?」
「え……?」
「どんな特徴がある薬草か、教えて。僕、この山のことなら詳しいから」
少女の目が、僅かに見開かれた。
「あ、あの……白い花が咲いていて、葉っぱがギザギザしてて……」
「シロバナソウだね。分かった、僕が取ってくる」
「え……でも……」
「場所は知ってる。すぐ戻るから、ここで待ってて」
僕は言うが早いか、森の奥へと駆け出した。
シロバナソウの群生地は、この山の北側にある。険しい崖の近くで、普通の人には辿り着けない場所だ。
でも、僕は知っていた。
一年間、この山を歩き回って、どこに何があるか把握していたから。
「……あった」
崖の縁に、白い花が揺れていた。
僕は慎重に近づき、根元から数本を摘み取った。
そして、来た道を全速力で戻った。
◇
「——これ」
少女の元に戻った時、僕は息を切らしていた。
「シロバナソウ。これで合ってる?」
少女は、僕の手の中の薬草を見て——泣き崩れた。
「あ……ありがとう、ございます……! ありがとう……!」
「泣かないで。早く弟さんのところに行かないと」
「は、はい……!」
少女は薬草を受け取り、立ち上がった。
「あの……お名前、教えてもらえますか……?」
「僕? 僕は、ルカ。ルカ・アーデンハイトだよ」
「ルカ、さん……」
少女は、涙を拭いながら微笑んだ。
「私は、ティアーヌです。本当に……本当に、ありがとうございます……!」
「うん。弟さん、良くなるといいね」
「はい……! 必ず、お礼をさせてください……!」
ティアーヌはそう言って、山を駆け下りていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は思った。
——助けられて、良かった。
誰かの役に立てた。
それが、あの頃の僕にとっては——何よりも嬉しいことだった。
◇
それから数日後。
僕がいつもの場所で鍛錬をしていると、見覚えのある姿が現れた。
「ルカさん!」
ティアーヌだった。
彼女は息を切らしながら、僕の前までやってきた。
「弟は……ノアは、どうなった?」
「おかげさまで、熱が下がりました……! もう元気に走り回っています」
「そっか……良かった」
心から、そう思った。
「あの……これ、お礼です」
ティアーヌが差し出したのは、小さな包みだった。
「孤児院のみんなで作ったんです。大したものじゃないんですけど……」
「孤児院?」
「はい。私とノアは、この近くの孤児院で暮らしてるんです」
開けてみると、中には素朴な焼き菓子が入っていた。
「……ありがとう」
「いえ……こちらこそ、本当にありがとうございました」
ティアーヌは深く頭を下げた。
「ルカさんがいなかったら、ノアは……」
「そんな大げさなことじゃないよ。僕は、たまたま薬草の場所を知ってただけだから」
「たまたまなんかじゃありません」
ティアーヌは、真っ直ぐに僕を見つめた。
「ルカさんは、見ず知らずの私のために、危険な場所まで走ってくれました。それは……とても、すごいことだと思います」
その目は、真剣だった。
「……ありがとう」
僕は、少し照れくさくなって目を逸らした。
「あの……ルカさん」
「ん?」
「もしよければ……また、会いに来てもいいですか?」
「え?」
「私、薬草のこと、もっと知りたいんです。弟が……ノアが、また病気になった時のために」
ティアーヌは、少し恥ずかしそうに言った。
「迷惑じゃなければ……教えてもらえませんか?」
僕は——少し考えて、頷いた。
「いいよ。僕でよければ」
「本当ですか!?」
ティアーヌの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます! じゃあ、また明日来ますね!」
「うん、待ってるよ」
こうして、僕とティアーヌの交流が始まった。
◇
それから、僕たちは何度も一緒に山を歩いた。
「これがシロバナソウ。熱冷ましに使えるやつ」
「これは覚えてます。ノアを助けてくれた薬草ですね」
「こっちは……ヤマニガナ。傷薬になる」
「へえ……葉っぱの形が特徴的ですね」
ティアーヌは熱心だった。
僕が教えることを、一つ一つ丁寧に覚えていく。
「ルカさんは、どうしてこんなに薬草に詳しいんですか?」
ある日、彼女がそう尋ねてきた。
「……一人で暮らしてると、自分で何とかしなきゃいけないことが多いから」
「一人で……?」
「うん。僕、この領地に一人で来たんだ。使用人は何人かいるけど……家族は、いない」
「……」
ティアーヌは、少し悲しそうな顔をした。
「私も……両親はいません。孤児院で育ったから」
「そっか」
「でも、ノアがいます。弟だけど……私にとっては、たった一人の家族なんです」
「……いい弟だね」
「はい。生意気だけど、可愛いんですよ」
ティアーヌは、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、僕も自然と笑みがこぼれた。
「……あの、ルカさん」
「ん?」
「私たちも……家族に、なれませんか?」
「……え?」
思わず、聞き返した。
「あ、その……変な意味じゃなくて……!」
ティアーヌは慌てて手を振った。
「ルカさんは一人で、私とノアには両親がいなくて……だから、その……お互いに、支え合えたらいいなって……」
彼女の顔は、真っ赤になっていた。
「……ふふ」
「わ、笑わないでください……!」
「ごめんごめん。でも——」
僕は、微笑んだ。
「嬉しいよ。ありがとう、ティアーヌ」
「……っ」
ティアーヌの目が、潤んだ。
「じゃあ……」
「うん。僕たちは、家族だ」
その言葉を聞いた瞬間、ティアーヌの顔に満面の笑みが浮かんだ。
「はい……! よろしくお願いします、ルカさん……!」
「うん、よろしく」
あの日から、僕の「家族」が一人——いや、二人増えた。
ティアーヌと、ノア。
彼女たちがいてくれたから、僕は孤独に押し潰されずに済んだ。
廃嫡されて、両親に捨てられて。
それでも——僕は、一人じゃなかった。




