嬉しい事2
思いのほかこのエッセイを読む人がいるということに驚いている。もちろん、最初に投稿した小説に比べれば、見られていないと同然なぐらいかもしれない。
でも本音を書くこのエッセイを読んでくれる人がいるということが、フィクションを読んでくれるよりうれしい。
人の喜びっていうのは数字ではないのだなとつくづく思う。たくさんの人が見てくれる。たくさんの人が評価してくれる。だから良いなんてことはたぶんないんだ。もちろん成功体験を積むのは良いことだ。私だって人に読んでもらうための小説をいくつも書いてきた。それによって自分の良さというか才能ってのをつかんだ気がした。
そして今またそれをつかもうとしている。フィクションでは私の考えや思想をド直球に伝えることはできない。でもこんな風にエッセイなら、一直線に伝えられる。
普通ならこんなことできないと思う。ほとんど誰にも評価されないし、見てもらえない。
それでも私がこれを書けるのは、何度か評価された経験と、ただ書きたいという欲求のままに書いているから。
承認欲求は満たされた。それ以上を望んでいる。自分だけではない誰かに影響を与えることを望む。それもプラスの影響を与えること。
なんというか。もうどうすればいいかわからない。一寸先は闇だって時に読んでほしいな。私は誰かの光になりたい。
蛍光灯とか見たいな光じゃなくて、太陽みたいに輝いて、周りの人たちを照らせるようになりたいなあ。みんなこっちにおいでよって、手招きしてみんなも面白くてわくわくするようなところへ案内したい。
すごくつらくて、苦しいこともたくさんあったけど、結局人生って面白いなあ。という結末にたどり着く。
そういえば、私は2月5日で19歳になった。10代最後だけど、私はそんなことどうでもいい。時間なんて、あって、ないようなものだから。
祖母が、19歳に戻りたい。なんて言うから、私は「若返っていったい何するの?」って聞いてしまった。
若いから価値があるとか、高齢だからお荷物とかそんなことないよ。
本当は高齢者ってのは賢者なはずなんだよ。膨大な知識と経験を兼ね備えた賢者。数多な困難を乗り越え、たくさん人にアドバイスができるはず。今はほとんどいなくなってしまったけれど。
それは時代が悪かった。今の高齢者は戦争の被害者であることは間違いない。戦争に直接かかわっていなかったとしても、心理的に大きなダメージを受けた。
申し訳ないけれど、もう私はこの人たちと一緒に生きていくのは無理だと感じている。凝り固まった思考と、前時代的な物の見方は通用しない。
人の物差しで自分を測っても意味がないんだよ。思考の借り物に意味はないよ。




