第6話 朝露のランニングシューズ
井の頭公園の朝は早い。
まだ人の少ない園路に、朝露がきらきらと光っている。
三枝賢が交番を出ると、ランニングウェア姿の若い男性が、公園の入口で立ち止まっていた。
足元を気にしながら、何度もスマートフォンを確認している。
「おはようございます。どうかしましたか?」
声をかけると、男性は驚いたように振り返った。
「あ……すみません。シューズが、片方だけ見当たらなくて」
話を聞くと、男性は毎朝この公園で走っている会社員・高橋だという。
ランニング前にベンチでストレッチをしている間、シューズを脱いでいたら、片方だけなくなってしまったらしい。
「盗まれたんでしょうか……」
高橋の声には、焦りよりも戸惑いがにじんでいた。
賢は首を横に振る。
「この時間帯なら、間違えて持っていかれた可能性もありますね。
一緒に探してみましょう」
二人は来た道を戻り、ベンチや植え込みの周りを見て回る。
朝の空気はひんやりして、息が白くなる。
すると、池の近くで犬の散歩をしている中年の女性が声を上げた。
「あら、その靴なら……さっき、向こうの交番に届けに行くって言ってた人がいたわよ」
「ありがとうございます」
賢は礼を言い、高橋と一緒に交番へ戻った。
交番のカウンターには、濡れたランニングシューズが一足、きちんと揃えて置かれていた。
届けてくれたのは、近所に住む中学生だったという。
高橋は、安堵したように息を吐いた。
「よかった……本当に助かりました」
賢は笑って言う。
「持ち主が見つかってよかった。
ところで、どうして毎朝走っているんですか?」
高橋は少し考えてから答えた。
「……仕事でうまくいかないことがあって。
走ってると、頭が整理できるんです」
賢はうなずいた。
「いい習慣ですね。
また明日も、この公園を走れますよ」
高橋はシューズを履き直し、軽くジャンプして感触を確かめる。
「はい。なんだか、今日はいい一日になりそうです」
彼はそう言って、朝の園路へ走り出した。
賢はその背中を見送りながら、思う。
——誰かの一日が、少しでも前に進むきっかけになれば。
朝露に濡れた木々の間から、やわらかな光が差し込んできた。
それはまるで、また新しい一日を祝福しているようだった。




