第5話 夕焼けのベンチ
夕方の井の頭公園。
空が少しずつ茜色に染まり、池の水面にゆっくりと反射していた。
三枝賢は交番を出て、いつもの巡回コースを歩いていた。
仕事終わりの人、散歩をする老夫婦、スケッチブックを抱えた学生。
それぞれの一日が、公園の中で静かに終わろうとしている。
ベンチの一つに、ひとりの老人が座っているのが目に留まった。
背筋は伸びているが、どこか所在なげで、手元の紙袋を何度も覗き込んでいる。
「こんばんは。少し寒くなってきましたね」
賢が声をかけると、老人はゆっくり顔を上げた。
「ああ……こんばんは。
すみません、ここ、しばらく座っててもいい場所ですかね」
「もちろんです。公園ですから」
老人はほっとしたように息をついた。
「実は、待ち合わせをしていましてね。
妻と……でも、もう亡くなって十年になるんですけど」
賢は何も言わず、隣に腰を下ろした。
「今日は結婚記念日で。
生きていた頃は、毎年このベンチで夕焼けを見るのが決まりだったんです」
紙袋の中から、白い封筒が少しだけ見えた。
「手紙を書いたんですよ。
もう渡せないのに……馬鹿ですよね」
賢は首を横に振った。
「そんなことないと思います。
約束の場所に来たってことが、もう答えなんじゃないですか」
老人は驚いたように賢を見つめ、やがて静かに笑った。
「あなた、いいこと言いますね」
夕焼けが、二人の影を長く伸ばす。
しばらくして、老人は立ち上がり、ベンチに封筒をそっと置いた。
「ここに置いて帰ります。
きっと、読んでくれますから」
賢は帽子に手を添え、敬礼するように軽く頭を下げた。
「きっと」
老人はゆっくり歩き去っていった。
賢はしばらくその背中を見送り、ベンチに残された封筒をそっと拾い上げる。
——忘れ物ではない。
これは、預かり物だ。
賢は封筒を元の位置に戻し、静かにその場を離れた。
井の頭公園の夕焼けは、今日も変わらず、
誰かの想いをやさしく包み込んでいた。




