第2話 : 時間は全く何も癒してくれなかった。
頭の中の写真アルバムが自然とめくられる瞬間があります。
脳が自らページをめくるアルバムのようなものです。
ぼんやりした写真もある。それは記憶のかけらを残すものだ。この写真は、その瞬間の現実を疑わせる:どうだったっけ?顔や感触がぼんやりと思い出される。ある瞬間のかけらを創り出したのだろうか?本当に、自分が思い出しているように存在したのだろうか?
そして、構図の外れた写真もある。その場で慌てて撮ったもの。撮った瞬間にはほとんど忘れてしまったようなもの。何年も後にもう一度見ることに驚くようなもの。その瞬間は、人生というゲームのメインストーリーの中でのサイドクエストのようだった。どうしてこの顔を忘れてしまったんだろう?どうして忘れられたんだろう?
それから、くっきりとした写真があります。決して忘れられない写真です。幸せな写真であろうとそうでなかろうと、永遠に額に入れて飾っておく写真です。しかし、時にはぼんやりとした写真にしたかったり、フレームから外したかったりすることもあります。顔とその瞬間を灰にし、遠くへ持って行ってくれるよう燃やしたくなる写真もあります…。
忘れたいこの写真。私たちの魂の中に巨大な額縁で感情の記憶を残してくれる写真。
日々、月々、年々が過ぎ去っても、その額縁は掛けられたまま残ります。埃をかぶったり、時間とともにだんだんぼやけた感じになったりします。
ときには、その額縁に立ち止まり、まるで古い家族写真を見つめるように、新しい時代の写真として観察することもあります。その時代は、別の人生で過ごしたように感じる時代です。
しかし、ある時には、たった一人の訪問者が必要です。興味深く好奇心旺盛な訪問者です。その訪問者は額縁のガラス越しに指を通し埃を拭き取ろうとし、中に何があるのか知りたくてたまらない様子です。それで、拭きます。額縁を拭くと、写真がどんどん鮮明になります。
トラウマは、脳内に保存されている写真のようなものです。
だから、封じ込めたと思っていたトラウマが再び表面化します。
古い習慣と古い悪魔が戻ってきます。
記憶や感情が再び蘇ります。
まだだ…お願いだからまだだ…
この物語は終わっていました。
私が壁から額をもぎ取り、千々に砕きます。
ほっといてくれ!
頭の中で何が起きているのか?
なぜこんなに怒っているのか?
時間は全く何も癒してくれなかった。
逃げたかったことを、ただ埃の層で覆っただけだ。
なぜ私がこんなにも脆く感じるのか?
脆くなりたくない。
もう嫌だ。
地面にしっかりと根を張った木のように成長し、強くなりたい。
木…
木は成長する…
どうしてあんなに強くて堂々とするようになれるの?
結局のところ、あれも最初はただの種に過ぎない。
あれも成長する時は脆い… そんなに壊れやすくて弱い。
どうやって悪天候に耐えるのか? 根こそぎにされる可能性のある動物たちに?
時間が経って、自分はもう木になったと思っていたのに…
なぜ過去の傷が再び浮上してくるのか?
過去を掘り下げるべきか?
いや…
過去について何度考えても、それは私を助けてはくれない…。
過去はとても暴君のようだ…それは現在の私の反応を支配している。
私の感情を理解する必要があると思う…なぜ今それが私に影響を与えるのかを理解する必要がある。それは過去のことではなく、現在のことだ。
私は被害者なのか、それとも生存者なのか?
いや、私はどちらでもない。
どちらかに自分を同一視することで、それ以外の選択肢がなくなってしまう。
選択肢が欲しい。変わるという選択肢が。
トラウマは事実ではない、それは私たちに起こる出来事ではない。
トラウマは私たちの内面で起こる何かだ。
それは内面の感情に焼き印を押すものだ。
それは私の中にある…
ただ私の中にある…
だから、私はできる。
自然や他人、人生の出来事をコントロールすることはできない…
でも、自分自身に働きかけることはできる。
私は学ぶことができる。
私は学びたい。
脳内に自分の好きな写真をフレームに入れて、消してしまうためにそれらを埃まみれにしないようにしたい。
それらを見て、じっくりと見渡し…それらを、もしかしたら賞賛しさえして、
怒らないで、悲しまないで、
受け入れたい。そして木のように成長したい。
嵐を乗り越え、波を眺める時間を持ちたい。
私は被害者にも、生存者にもならない。旅行者になる。