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コーラは好きじゃない

作者: X=X

「コーラ好き、飲む?」彼女のほうから僕に話しかけてきた。


 知らない街に引っ越した。それは大人の都合。子どもだった僕には大きな問題だった。


 七歳のとき。父の転勤。転勤の言葉の意味はよく理解していなかった。


 新しくできたばかりの友だちと別れる寂しさだけは覚えている。


 小学二年生の一学期が終わった半端な時期。夏休みになったばかりで、友だちのいない町、一人きり、一時間がとても長く感じて、どうするわけもなくただ公園にいた。


 七月のいつだったかまでは覚えていない。


 暑くてちょっと歩いただけで腕が汗でべたべたになって、不快になったことを覚えている。


 ベンチにぼーっと座って汗が乾くのを待っていたときだった。


 彼女が座った。


 そんなに大きなベンチではない。二人、三人が座ったらいっぱいのベンチに。迷わずやってきて僕のとなりに座ったようだった、のを憶えている。


 彼女は僕よりずっとおねえさんに見えた。当時、彼女は十七歳だったからおねえさんで間違いではない。


 彼女はとなりに座っている。僕は恥ずかしくて席を立ってどこかへ行きたかった。突然立ったら彼女がどう思うか、とかそのことでなにか言われたらもっといやだ、と考えていたら頭の奥が痛くなった。


「コーラ好き、飲む?」


 周りに人はいなかった。だからこれは僕への問いかけ、答えなければいけない。


 そのときは「コーラは好きか、嫌いか」という質問と同時に「コーラを飲むか、飲まないか」と訊かれたと考えてしまった。なにが正しい答えなのか、と幼いなりに演繹する。すればするほど答え方がわからなくなった。


 いまならウソでも笑顔をつくって「ありがとう」と言って受けとる。


 僕はコーラが好きじゃなかった。あれはいまよりずっと薬みたいな味に感じたし、シュワシュワする炭酸のアワが苦手だった。いまではビールのアワなら平気でいくらでも飲めるのだが。


 彼女はプシュと音を立てて缶を開けた。


 彼女が缶を僕の胸のまえまで差しだした。彼女の腕は夏なのに白くて、細くて、僕のほうへまっすぐに伸びていて、腕に見える血管の青さまで憶えている。


「好きか、嫌いか」、「飲むか、飲まないか」を伝えようとして僕は、

「いらない」とたぶん言った。


「いいから、ははは」


 彼女は笑いながら手に持った缶を僕に渡そうとした。


 夏の暑さ。公園に咲いていたヒマワリの黄色。彼女の笑顔は別の形に変換され、ある重みづけされたその概念は、すべて一緒にマッピングされた。


 いまも暑さを感じ、黄色を見ると彼女の笑顔が浮かぶ。


 受けとらなければ彼女はいまにも手を缶から放して、なかの液体がこぼれてしまうだろうと考えた。


 しかたなく渡されて受けとった缶は、とても冷たいのに表面は僕と一緒で、とても汗をかいていた。


 夏休みのあいだ僕は毎日、公園に行って同じベンチに座り彼女を待った。


 彼女は毎日ではないがやってきた。


 彼女がこないときは、僕がきているのにきていないなんてと裏切られたような気がした。


 きてくれたら嫌な感情は忘れて仲良く話をした。これはウソだ、きっとすねた顔をしていたに違いない。


 彼女が歳を訊いてきた。


「七歳だ」と僕が、

「わたしはたぶん十七歳」と彼女。


「夏が終わったら八歳になる、でもおねえさんのほうが年いっぱい」


「あと十年したらあなたも十七歳よ」


「僕が十七歳ならおねえさん二十七歳だね」


「計算間違い、そうはならない」


「ずっと歳をとったように見えない、それほどきれいだってこと」


「言うね、いまからそんなこと女の人に言えるなんて心配」


 僕たちは会うとどうでもいい会話をした。


 どうでもいいとは十七歳の彼女からしたらどうでもいいということだ。小さな子にしては十分意味のある会話だったが、十七歳から見たら必要程度のどうでもいい会話ということだ。


 僕は観ていたアニメの話をしたと思う。子どもが話せるのはその程度のことだ。


 彼女は映画の話とか、映画に出ていた女優が着ていたファッションの話とか、遠くの場所では何千年もまえの理由で戦争をしていてまだ終わる感じはしないし、終わるにはもっと百年も二百年もかかかりそうだとか、一晩寝たら忘れてしまいそうなことを話していたはず。


 実際、忘れている。


 単語だけはうっすらと覚えている。きっと何回も同じような話をしたから覚えているのだと思う。


 夏休みが終わると学校が始まる。学校が終わったら毎日、公園に行ってみたが、彼女はそれからは現れなかった。


 夏が終わるころ僕は八歳になった。誕生日にはケーキと鳥を揚げたのを食べたのを覚えている。


 これで変わった小学生の夏の思い出が終わり、となるはずだった。しかしこれが始まり。





 中学を卒業するころまでは学校からの帰り道で彼女と偶然逢った。あとになって訊いたら待っていたこともあったらしい。


 誕生日のプレゼントは毎年もらっている。それは誕生日ではなかった。彼女は僕の誕生日を間違えているのではなく、ちゃんと憶えていた。


 プレゼントをもらえるのは誕生日から何日か経ったあとだった。いまならしかたがないとは思う。当時は説明がなかったから釈然としなかったのを憶えている。


 プレゼントは、はやっていたかわいいキャラクターが描かれた封筒に入れて渡された。入っていたのはノートやキャンディなどありきたりのものだった。


 それでも嬉しかった。いまはもちろんほとんど残っていない。


 もらったもののなかで残したのは唯一ノート。僕はこのノートに彼女と逢ったらなにかしたら書くことにした。


 町で偶然、彼女を見かけたことが三度ある。僕が知っている限り三度。


 ノートを開き、ページをめくる。


 一度目は、彼女は彼女よりもずっと年上の男と一緒に歩いていた。


 二度目は、腕を組んで歩いていた。


 三度目は、こんどは若い男。そのときは手をつないでいた。


 毎回、同じ男だったのかはわからない。彼女の父親かもと考えたが、二人の雰囲気がそのようには見えなかった。


 逢ったわけではなかったが、ノートに逢った日としてそのときの日付を書いていた。その男は父親ではないといまではわかる。彼女の父親の容姿は知っている。


 彼女はいつ逢っても僕が七歳のときに出会った当時のまま、きれいな姿だった。


 彼女は「いくつになった?」訊く。僕は応える。


 ときに「八歳」、ときに「九歳」、ときに「十歳」、ときに「十一歳」、ときに「十二歳」、ときに「十三歳」、ときに「十四歳」、ときに「十五歳」。彼女は決まって「わたしはまだ十七歳」と応えていた。


 高校一年のころ。一緒に学校から帰る友だちがいた。<となりの席の友だち>だった。


 同じクラスでとなりの席だったから話しやすかった。そのくらいの理由。どちらから話しかけたのだろう、覚えていない。


 どこに住んでいるのか、住んでいる町はどんな町か、程度の話から始まったはず。


 それが、漫画のことが詳しくてよくオススメを貸してくれるまでになった。


 専攻してご教授頂いたおかげで、<となりの席の友だち>がスカートではなくジャージ姿をよくしていたのは、ある漫画のコスプレのようなものだとわかるくらいには漫画に詳しくなった。


 代わりに<となりの席の友だち>が授業でわからなかったことに応えた。教えたことより相手のほうが理解しているように感じた。


 公園のベンチに座って<となりの席の友だち>と話をしていたときに、彼女が公園にきてくれたことがあった。


 いつもなら遠くから歩いてきても気がつくのに、そのときは話に夢中だったからか、伏せて下を見て話ていたからなのか、地面につけた影でやっと彼女に気がついた。


「こんにちは」


「ども」


「これ、プレゼント、あげる」


「ありがと……僕、十七歳になったよ」


「おめでとう、わたしはたぶん、十八歳になった」


 彼女ともっと話をしたかった。その日の会話はそれで終わり。


 彼女が背を向ける。


 まだ話し足りない、話しかけたい。一歩二歩と進むと彼女は振り向いて胸のまえで開いた手を軽くかわいく振ったのを憶えている。


「知りあい? お姉さん?」<となりの席の友だち>が訊いた。


「姉ではないよ、とてもよく知ってる人」


「ご近所?」


「知らない、聞いたことない」


 説明になったのかわからないが、それ以上は訊かれなかった。そのあと<となりの席の友だち>とは、なにを話したのか覚えていない。


 僕は高校になるとアルバイトをはじめた。数時間だけ、学校から帰ると近所のそこそこ大きなスーパーマーケットで働いた。


 そこに彼女が買い物にきたとき、僕が働いているのを見つけて声をかけてくれた。


 仕事が終わる時間を教えたら、なぜか待っていてくれた。仕事が終わると近くの二十四時間営業のファミレスに行って深夜遅くまで話をした。そのせいで遅い帰りが母を怒らせた。


 十八歳になったとき彼女も十八歳だった。


 僕に同じ年のガールフレンドができた。一緒にファミレスに行ったと、ノートに書いてある。


「このまえ公園で女の子と一緒にしたね」


「二年生のときまでは同じクラスで<となりの席の友だち>、三年生になったら違うクラスになった」


「いまも一緒に帰っているの?」


「帰っているよ」


「へえ、そうなの、ガールフレンド?」


「女だけど友だち」


「じゃあ、わたしは?」


「ガールフレンド」


 女の友だちとガールフレンドの言葉の違いはなかったけれど、違いを伝えたかった。


 彼女は飲んでいるドリンクのストローでテーブルにおいた僕の手の甲をツンツンしながら話を聞いてくれた。


 その態度は口を開けずに笑っていたので意味はよくわからなかった。


 回答として「ガールフレンド」は適切ではなかったのかもしれない。だが、その言葉を口にしてドキドキしたことと、否定はされなかったことも、悪くないこととして記憶した。


 ノートを開き、ページをめくる。これは高校最後の正月。


 彼女と近所の神社に初詣に出かけた。もう冬休みは終わり学校は始まっていた。学校からの帰り道、彼女と逢った。


 あてもなく歩いた。「初詣に行こう」彼女が言ったはずだ。


 帰るまえまでには話そうと考えていたことがあった。この町を離れる。逢ったら話そうとしていたことだった。


「遠い町の大学を受けるので、いままでみたいに逢えなくなる」


「いままでもそれほど会っていたわけではないでしょ」


 彼女は簡単に言う。寂しくなったのを憶えている。


 大学が決まり引っ越しの準備をした。僕は引っ越すギリギリまでバイトをしていた。それが彼女と会う方法だったから。


 ノートを見るとバイト先にきてくれたのがわかる。引っ越し先を教えたら、彼女はこう応えている。


「気が向いたら行く」とだけ言った。


 引っ越しの当日は、早めに新しい部屋に入った。送った荷物を受け取らなければならない。


 玄関のチャイムが鳴ったので引っ越しの業者だろうとドアを開けた。玄関には引っ越しの業者と荷物ではなく、代わりに彼女とスーツケースがあった。


 彼女はスーツケースを部屋に入れ「はあー、おなかがすいた」とダルそうに言った。


 部屋にはまだなにもないことを理解した彼女はスーツケースを置いて出かけていった。


 入れ替わりに引っ越し業者がやってきて、段ボールをすごい勢いで置いていった。入れ替わりに家電屋が冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを置いていった。


 段ボールから必要なものを出した。お皿を一枚、コップを一個、ナイフ・フォークを一組、箸を一膳、キッチンに置いた。


 彼女が買い物から戻ってきた。大きな袋を持っていた。


 彼女はキッチンに立つと、袋から食材やお皿なんかを出していた。スーツケースから自分のコップやナイフ・フォークを出してキッチンの僕がカトラリーを置いていた横に並べた。


「鍋はある?」


「メスティンがある」


「それキャンプ用じゃない、やっぱりね、買ってきたわ、ヤカンは?」


「あるよコーヒーをれるからね、ヤカンは買わなかったんだ」


「お湯は鍋で沸かせるでしょ、でコーヒーはあるの?」


「実家の持ってきた、ほら」


「豆? インスタントじゃないのね、どうするの、これ?」


「ミル持ってきた、キャンプにも使えてかさばらないんだ」


「ふーん、変なとこにこだわるのね、パスタ買ってきたの」


「作れるの?」


「もちろん」


 鍋に水を入れている音のあと、カチカチとコンロに火をつける音がした。


「包丁は?」


「ない、ナイフならある」


「それもキャンプ用? ははは、もちろんまな板もないのよね?」


「包丁がないのにまな板がある家は、洗うものがないのに洗濯機がある家で、野菜や炭酸水がないのに冷蔵庫がある家みたいなものだと思う」


「あなたが相当なバカなのは知っていたけど、すこし黙っていて」


 彼女は沸騰した鍋に気持ちよくドサッと塩を入れた。適当にパスタを鷲づかみにすると鍋に投入し、同じ動作をもう一度繰り返した。パスタを丁寧に優しく湯のなかで揺らす。キャベツを適当にちぎって放りこむ。一本取りだしピンクでツヤのある口先でむと鍋のフタを使って器用にお湯を捨て、オリーブオイルを絡める。二つの柄違いのお皿に均等に盛りつけ、最後に粉チーズを振りかけた。


 彼女が作ってくれた食事は美味しかった。それが本当に美味しかったからなのか、彼女がはじめて作ってくれたからなのかは、いまではわからない。


 その夜ささやかなパーティをしようということになって町を探索した。


 駅前にはにぎやかな通りがあって、小さな商店が多くはないが並んで建っていた。


 彼女の手をとって歩こうとしたら、彼女は猫が抱きつくように僕の腕をとった。


 ケーキが美味しそうと彼女が言うのでケーキを買い、コロッケが美味しそうだったのでコロッケも買った。大きめのコーラのボトルとグレープフルーツジュースを買って家に戻った。


 お皿に買ってきたケーキとコロッケを盛りつける。


 彼女はティーカップとコーヒーカップにコーラを注いだ。僕はひとくち飲んだ。


「いらない」


「もったいない」


 彼女は僕のコーヒーカップに注いだコーラを飲んだ。飲みほして彼女はコーヒーカップを洗う。洗い終わると僕のまえに置いてグループフルーツジュースを注いでくれた。


「コロッケにはこれだよ」


「グレープフルーツって酸っぱ苦いから嫌い」


 お互いの意見が合わない、これは大した相違ではない。ほんのささいなこと。


 だけど今後もっと大きな意見の対立が起きたときにはどうなるのか、と考えたら不安になってしまったのを憶えている。


 お皿は二枚。


 布団は僕の分しか用意していない。彼女は気にしないといって布団にもぐる。


 掛け布団の横から服をポイポイと投げ脱ぎ散らかした。僕も服を脱いで布団に入った。僕はそのあとのことまで憶えている。


 翌朝起きたら彼女はいなかった。よく憶えている。


 翌日、彼女のスーツケースだけがあった。


 翌々日、大学から帰ってきたら普通に彼女がいた。まな板と包丁を買いにいったらしい。


「もうどこにも行かないでくれ」


「買い物でも?」


 その夜、彼女は自分のことを話してくれた。


「あなたたちは急いでいるように見えるの」


「焦っているってこと」


「違うの、物理的? に、あなたとはじめて会ったのは」


「僕が七歳」


「わたしは十七歳、わたしはまだ一年しか経っていないの」


「ああ、気がついている」


「なにを?」


「君がアンチエイジングな体質」


「違う、ハズレ、正解は時の進みです、あなたの一年は、わたしの一か月ぐらい、でした」


「どうして、そんなことに?」


「知らない、そういう家系だもの」


「家系的なものならしょうがない」


「説明になった?」


「理解しようとは努力はするけど、すべてを理解したと思いあがらないようにしている」


 僕は引っ越しの段ボールのなかからノートを取りページを開く。


「君と会った日付をここに書いてある」


「マメね、そのノートかわいい」


「君がくれたやつだよ」


「覚えてる」


「今年になって一日、二日、三、四……二十日は会っている、一年で逢えるのが三十日なら

 今年はもう終わり?」


「今年は特別なの、あなたの暦ではたぶん十二年ごとにね」


「今年は多く逢えるってこと?」


「そう、そして大胆になる」


 そのあと彼女は大胆だった。よく憶えている。


 嬉しかったから新しいノートに書きたくなった。彼女にもらったノートは表面がこすれて角もぼろぼろになってかなり荒れていた。


 ノートを買いに出かけた。丈夫そうな硬い表紙をゴムバンドで留められて、長く使えそうなものを選んだ。金額は見ずにレジに持っていったから、値段が高くてびっくりしたのは覚えている。


 年が終わるころにはいつものようにたまにしか逢えなくなった。ノートに書いた日付を見れば明らか。


 大学二年目。いつ逢えるかわからなかったから先の予定は立てられなかった。


 彼女がいてくれると、そのときの気分で深夜もやっている映画館や昼で明るければ美術館に行っている。


 なにより帰ってきたら食事があることを喜んでいる。


 彼女は料理をするたびに同じ調味料を買ってくるので、自分は使い方もわからない調味料が増え続けて困る。


 さらに使いかけの同じものが二個も三個もでてきて、それもほとんど期限切れのものばかりで、イラッとして、すべてを捨てたのを覚えている。


 ノートを開き、ページをめくる。これは大学の四年目になったころ。


 彼女は姿を見せなくなった。理由はわからない。


 それが三か月、半年と経っておかしいと思いはじめた。事故か何かがあったのではないかと考えたのは最初のうちで、きっと愛想をつかされたんだと考えるようになった。


 逢えないのを待つよりはと、気晴らしに大学の友だちとよく出かけていた。


 遊びに出かけると、大学の友だちが<恋人>を連れてきた。


 それからしばらくすると、こんどは<恋人>が<恋人の友だち>と一緒にくるようになった。


 僕たちは四人でよく行動していた。


 誰かが映画を観にいくと言う。誰かが海に行きたいと言い、山に行きたいと言った。


 みんなで小さな旅行をした。アートが見られるのを売りにしたホテルにも泊まった。友だちは<恋人>とべったりだったので、<恋人の友だち>が僕の相手をしてくれた。


 その後、<恋人の友だち>とは食事や映画に行ったこともあった。


 そういえば映画の趣味は四人で映画を観にいったときから話が合っていた気がする。


 あるとき調子にのってロシア映画のそれもB級コメディがあの国独特のくだらなさと面白さがあってすばらしい、とつい熱くなって語った。


 <恋人の友だち>が無理に笑顔をしたことで、やってしまったことを自覚し、恥ずかしかったことは覚えている。


 家に遊びにきたこともあった。テレビがないのに驚いていた。言われてみればそうかなぐらいのことだった。


 いまはテレビを娘が観たがるから買ってしまったが、いまでも自分からつけて観ることはしない。


 ラジオをつけることが多いから当時から気にしていなかった。ラジオも音を流しているだけでそれほど真剣には聴いていない。いまではラジオはラジコになったが聴き方は変わっていない。


 キッチンのお皿やコップの数に<恋人の友だち>が気がついた。


「彼女の?」


「まあ、そんなところ」


「よくくるの?」


「ぜんぜん、もう半年も見ていない」


「連絡してみたら、きっと待ってるよ」


「連絡先知らない」


「……」


 会話が続かず変な空気になったので、

「なにか食べにいこう」と外へ連れだした。まえから行きたかったお店があったのでそこに行くことにした。


 その店は古ビルの二階にあった。こんなところに、という場所にあった。


 店の玄関にはフランスの国旗がかざってあって二人掛けのテーブルが手前に四組、奥は四組だった気がする。


 内装はボルドー色で統一されていて、壁にはロートレックとツールのポスターが貼ってあった。たぶん店のオーナーは自転車が好きなんだろう。ぜったい読めないフランス語のレシピが書かれた本も窓際に置かれていた。


「この店よくくるの?」


「ランチで一度だけ、もちろん一人で」


「ふふふ、気にしてないわよ」


「そんなに高くなかったんだ、ランチはね」


 牛の煮込みを頼んだと思う。


 僕はグラスワインを、<恋人の友だち>もなにか頼んでいた。覚えていない。楽しそうに笑っていたし、美味しそうに食事していたからこの店を選んだのはいい選択だった。


 <恋人の友だち>の顔を見て、本当は最初に彼女ときたかったと思ったのを憶えている。


 翌年に僕は社会人になった。会社に勤めるようになったということだ。


 このときノートを見返した。新しい記述はスパイスからカレーを作る、とだけ書いてあった。もう彼女とは一年以上逢っていない。


 永らく会っていなかった<恋人の友だち>から連絡があった。


「元気してた?」


「元気、病院は小学生のころから行ったことがない」


「ふふふ……久しぶりに食事でもどう?」


「いつでもいいよ空いてるから、いまからでも」


「ふふふ、わたしが無理、お休みは?」


「週末なら」


 <恋人の友だち>といいと聞いた店に行くことにした。焼き肉が食べたいと言ったのを聞いて、ガッツリしたもの食べるんだなあと思ったことを覚えている。


 駅で待ち合わせした。線路沿いの坂を上ったところに、コンクリート打ちっ放しの四、五階建てのビルが建っていた。


 その一階に店舗があった。上の階には美容室が入っていて、えっと思ったが、目的の焼き肉のお店は匂いなどは外からはまったくしなかった。


 店のロゴはシルバーで読みにくい。これがオシャレなのかと思ったのは覚えている。


 なにを食べたのかは覚えていない。


 <恋人の友だち>とはそれからまた連絡をとりあうようになった。多いときは週末に二人で遊びに出かけていたはずだ。詳しくは覚えていない。


 ノートを開き、ページをめくる。これは社会人三年目、二十五歳、某日。


 仕事から帰ってきたら、いた。彼女だった。


 彼女は、部屋の鍵を持っているからもちろんなかに入れる。それはわかっているが、急に現れたことに驚いたのは憶えている。


「太った?」


「いきなりか、すこしね」


 僕は認知能力が人より低い、劣っていると自覚しているから劣等感まである。しかし、そのときはなんとなく理解できた。


 彼女のおなかは膨らんでいた。


「おなか……」


「なんだかやる気しないなあって、で六か月」


「六か月!」


「診てもらったのら三か月目、毎日、気持ち悪くって……ずっと実家で寝てました」


「それで、いまは?」


「もう平気」


「連絡しろよ」


「ははは、三か月ぐらいならいいかって」


「こっちは三年だぞ!」


「バカ、こっちだってつらかったんだから!」


「ごめん」


 なんで僕が謝らなければならないのか、納得いかないことを憶えている。


 <恋人の友だち>と駅前に新しくできた焼き鳥のお店にいった。


「子どもが生まれるかもしれない」


「誰の?」


「僕の」


「えーっ、予定日はいつ?」


「あと四年後かなあ」


「おめでとう……」


 こんな風に嬉しくなって子どものことを伝えた。


 同年、見知らぬ和服姿の男の人が家に訪ねてきた。自分は彼女の父親だと言ったが、とても若く見えた。


「なにもしてやれなかったけど、元気に育ったから迷惑はかけないだろう」と言われた。


 最後に「よろしく頼みます」のようなことを言われ、こちらも急にこられて恐縮してしまい、なにを受けて答えたのかまったく覚えていない。


 数日後、いや一週間ぐらい経っていたかもしれない。見知らぬ和服姿の女の人が家にやってきた。若くてとてもきれいな人だった。察しはついた。


「よろしくお願いします」、僕が先に言う。


「ご迷惑をおかけしていませんか」とか、

「お食事はちゃんと作っていますか」とか、

「家ではなにもやらない娘で、ふふふ」と女の人は笑いながら、

「ご不便はございませんか、私でよろしければお手伝いしましょうか、ふふふ」といろいろ訊かれご提案までされた。


「料理、とても美味しいですよ」と世辞を言ってなんとかうまくやろうとした。その人はすっかり見透かしていたらしく笑っていた。よく笑って話をする人だったと覚えている。


 ノートを開き、ページをめくる。この年は二十八歳。


 彼女のおなかは目立って大きくなった。体は快調といってなんでも食べて飛び跳ねていた。飛び跳ねるのを本気で止めさせた。


 このころから彼女に変化がでてきた。変化は体型もあるが、それ以外のことがおきた。


 それまでは二週間に一度ぐらいしか逢えなかった。それが一週間に一度になり、それからは日ごとに早くなった気がした。


 どちらかといえば、週に逢えない日のほうが少なくなり、ほぼ毎日、彼女はそばにいるようになった。


 出産はまだ二年先だと予定していたのに早まりそうで心が躍る。


「出産の前後は体調が変わるらしいの、知らないけど」


「なら、これからも子どもを産み続けたらずっと一緒にいられるということだね」


「ええ、あなたが()()()()をやってくれたらね」


 同年、娘ができた。


 娘は一年ごとに一歳年を取った。当たり前のことを当たり前にしてくれたいい娘だった。


 朝起きる。食べる。トイレに行く。駆け回る。寝る。起きる。食べる。昼寝する。起きる。食べて寝る。


 彼女は乳をあげていたころは毎日、面倒を見てくれた。


 離乳食を食べるころになると、彼女と会いづらい日常が戻ってきた。僕は一人で娘の世話をする時間が多くなった。


「毎日、見てる」と彼女。


 僕からはそう見えない、と言うと大変なことになるから黙っている。


「都合が悪いと、すぐ黙る」と彼女。こわい。


 話をそらす。


「君は小さいころ、イヤにならなかった?」


「そういう子どもたちのコミュニティがあるの」


 と教えてくれた。そういうわけで心配はいらなかったらしい。


 僕たちは話し合って二人で育てていくことに決めた。仕事のスタイルを変えてリモート中心になったのはこのごろだった。


 この年、彼女が二十歳になった。娘は三歳で、僕が三十一歳のときだ。


 彼女が成人式をしたいと言った。


 駅前にあるフォトスタジオで写真を撮ってもらうことにした。


 娘はとてもかわいくてとっても似合うアニメの王女様のコスプレをした。僕は似合わないスーツを着せられたのを憶えている。


 大学に入ったあの年から十二年目だった。計算が合っていれば彼女は十二年目の年。憶測でしかなかったがノートに赤い文字で印をつけている。


 この年は娘が保育園に通いだした。このころはとくにかわいかった。


 話し方がだんだん彼女に似てきた。僕のほうがより多く接しているはずなのになんでだろう。納得がいかない。


 娘が熱を出したときがあった。どうしたらよいのかわからず、とにかく救急病院へ連れていこうとした。ノートに当時の不安な気持ちが書き込んである。


 夜中に開いている、なるべく近くの救急病院を調べた。


 急いで娘を病院へ連れていく。


 病院の付近まではさして問題なく行けたのに正面玄関は閉まっている。入り口がわからない。勝手がわからずあわてていた。


 ここでいいと裏口から病院に入った。受付の人に伝えようと気ばかり焦り、娘を抱えたまま「熱が、熱が」とだけしか言えなかった。


 看護師らしき人が何人かでてきたのだが、また同じように「熱が、熱が」としか言えなかったのを覚えている。


 そこに女医がきてくれた。こちらはあわてた表情をしていたはずだ。医者は無表情でゆっくりと「どうされましたか」と僕に訊いてきた。


 診察室へ通された。医者は優しく娘の額や首もとに手をあてた。おなかあたりを軽く押して痛いところはないか尋ねた。


 娘は訊かれるたびに首を横に振っていた。


「体はダルいよね、力が入らないかしら」と医者が話しかけた。娘は頷いていた。検査をしてもらう。結果は翌日、聞かせてもらうことに。


 薬をもらい帰宅した。


 娘は薬を飲むのをいやがった。「よくならないよ」といって飲ませる。


 飲み終わると目尻に涙の跡をつけて眠った。


 濡らしたタオルを絞って目尻からほほにかけて拭いてあげる。もう一度タオルをよく水で濡らして額の上にのせてあげた。


 ノートにはこう書いてあった「つらい 彼女はどこだ」。


 ノートを開き、ページをめくる。翌年は雨が多い年だった。毎日雨が降っている気がする。


 朝晴れていても夜になると雨が降る。朝になったら止んでいる。


 今月は静か。娘も彼女もいない。だからかもしれないが雨音が大きく感じる。


 彼女は小学生になるころ最初の成長が始まると言った。


 娘は二日に一度、三日に一回しか現れないようになってきた。学校を休みがちになる。それでも学校に通うといって聞かなかった。


 学校に事情を説明する。学校は僕よりその辺の事情に詳しく、別の学校を紹介してくれた。娘は友だちと別れたくないと言い、がんばって同じ学校に通い続けたのを憶えている。


 娘の周りの友だちが中学生になるころ、まだ娘は小学生のように幼かった。娘はそれでもがんばって中学に通っていた。


 ノートを開き、ページをめくる。この年は四十三歳。


 前年はどうだったか、そのまえはなにをしていたか覚えていない。ノートには十二年目の印をつけていた。


 例年より一緒にいられる日が多くなるはず、と家族で旅行にいこうと予定を立てた。誰かが一日消えても大丈夫なようにした。なるべく一か所のホテルから移動することにした。


 ホテルの最上階には温泉風呂があって朝から入浴ができた。朝から山の景色を観ながら風呂に入る。エアコンの入っている部屋に戻ると最高の気分になった。


 気持ちがゆるんだので、

「娘はまだ十歳だけど、ほんとなら高校に入学している年齢なんだよなあ」と悪気はなかったが言ってしまった。


 娘はそのとき一人でお風呂に入っていた。彼女にだけ聞かれたのはまだよかった。彼女はすごく怒った。こんなに怒られたのははじめてだったのでとても憶えている。


 娘は中学三年生の三学期に学校へ行くのをいやがった。進学は希望しなかった。部屋にこもりがちになる。


 なぜかかわいそうとは思わなかった。そうしたければそうすればいい。もし困っていたら、話しかけてきたら、そのときは話を聞いてあげようと思った。


 ノートを開き、ページをめくる。このごろの数年間はノートに書いていない。


 なにをしていたのだろう、覚えていない。


 娘の姿を一週間見ていないと書いてある。


 彼女は「二度目の成長ね、女の子は難しいの、きっと大丈夫、わたしがちゃんと見ているから」と問題なんてなにもないように言った。僕はなにもできないと感じたのを覚えている。


 ノートを開き、ページをめくる。四十代はなにをしていたのだろう。


 仕事が忙しかったのは覚えている。あとは覚えていない。


 ノートを開き、ページをめくる。この年は彼女の十二年目の年。印がある。


 だからといってどこかへ旅行にいくわけではなかった。たまに二人で食事に出かけている。


 昔は洋食の店が多かったが、最近は和食を選びがちになっている。


 気をつかって彼女に「もっとガッツリしたものが食べたいのでは」と訊いたら、

「わたしももう年だから、最近はさっぱりしたものがいい」と応えた。


 彼女はまだ二十二歳。そんなはずがない。


 彼女、娘、僕の三人が揃うことが少なくなった。揃うことがあったのだろうか、覚えていない。


 ノートを開き、ページをめくる。この年はなにをしていたのだろう、覚えていない。まったく思いだせない。


 ノートを開き、ページをめくる。この年は娘の十二年目の年。ノートに印がある。


 娘を多く見かけてもそれだけ。会話の数は彼女より少ない。仕事が忙しいから覚えていない。


 とてもよろしくない、と反省し、彼女や娘のことをノートに残すことにした。ただし、あくまでも努力義務。


 ノートを開き、ページをめくる。この日は日差しが強く、夏がきたという感じ。エアコンがないとつらい日だった。


 外に出て帰ってくると部屋が涼しい。エアコンをつけっぱなしで出かけた覚えはない。すぐにテレビの音で察した。


 娘がポテチをパリッパリッと音をさせながらテレビを観ていた。


 僕に気がつくと、

「おなかすいた」と一言。


「たまにはなにか作ってくれよ」とお願いしたら、

「はあ?」と返された。


 娘に駅前の安いイタリアンレストランへ行くことを提案した。表情が変わる。嬉しそうなのが、すぐに出かける用意をはじめたことでわかる。こういうときの行動は早い。


 僕はいまの格好のまま出かけるから、これといってすることはない。財布だけ手に取る。先に靴を履き終わると娘がくる。


「ママと違って化粧をしないのは早くて結構」と言うと、

「これでもしてる」と怒られた。


 違いがわからない。これは口にしない。


 ノートを開き、ページをめくる。この日は娘と彼女が一緒にいた。


 彼女が娘に小言を言っている。めんどくさそうに、聞いている娘。こういうときにはなるべく関わらない。めんどくさそうな顔をした娘の記憶はもっと昔のことだったかもしれない。


 ノートを開き、ページをめくる。この日は甘いものが食べたくて娘と駅前にケーキを買いにいった。


 僕はたいてい栗のケーキで、娘は緑色のピスタチオとかいうしゃれたものを選んでいた。


 ケーキは娘が持って家に帰る。ちらりと空を見上げた。


「きょうは雲がない」と言うと、

「パパはいつもそれ言うね」と笑われた。これは彼女にもよく指摘されること。


 家に戻ると皿を二枚、テーブルに置いた。ケーキをそれぞれの皿にのせた。娘はグラスを二個置いてコーラを注いだ。


 娘はピスタチオのケーキをひとくち食べるごとに手足をぱたぱたさせて喜んでいる。


 僕は冷蔵庫のなかのクラフトビールを取りテーブルに戻る。娘は僕の食べるまえの栗のケーキを味見といってフォークでカットして食べていた。


「お母さんと最近会った?」


「毎日あってる」


「そうなんだ」


「パパがいないときにね、ははは」


「なんだよその笑い、ならいい」


 ベランダを眺めた。


 ベランダの窓枠や窓ガラスは、額縁の枠やそれにはめてあるガラスのように見えて、部屋の外はラピスラズリだけで描かれた絵画のような空で、奥行きを感じさせない青で、ずっと青だけが奥へ奥へ永遠に遠くへと続くように見えた。


 娘のほうへ視線を戻すと娘はもういなかった。


 ケーキはすべてきれいに食べ終わり、皿にはピスタチオクリームの緑の跡がかすかに残っているだけだった。コーラの注がれたグラスは空になっていた。


 テレビを消した。静かになったリビングで僕は娘が注いでくれたコーラを飲んだ。すでにぬるくなっていた。


 やはりコーラは好きじゃない。


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