第八十話 偽りと真実
知ったところで、文輝に出来ることなどない。白帝の寵を受けた二人は既に自らの意志で判断を下した。これ以上、訳知り顔で何を言えるだろう。文輝の言葉など大仙たちには届くまい。わかっている。仲裁の言葉を口にしようとして、唇が空を噛む。
「瑞丹、もういい。お前の言う通りだ。もうこれ以上、偽りを続けたくない」
俺にとっても、お前にとっても、何の利もない。
戦務長が静かに言う。右将軍はそれを聞いて、首を横に振った。
「我が申したのはそういう意味ではございませぬ」
「同じことだ。二つで一揃いのものを片方しか持たぬ。俺には端から国主たる資格などなかったのだ」
「それでは、あなたは何の為に我を見出されたのだ! 我があるじはあなたお一人しかおらぬ! あなたはそれをご存知の筈だ!」
「右将軍は二つあるじに仕えぬ。知っているさ。知っているから俺は言っている。お前はもう自由だ」
景祥と戦務長が国主である資格を奉還すれば、右将軍はただの人に戻る。そうなれば、残った人としての生を姫瑞丹として、思うように過ごせばいい。
もうそうすることでしか、戦務長は右将軍に報いてやることが出来ない。
わかっている。戦務長も右将軍もそれを承知している。
それでも、右将軍は首を横に振った。
子どものように、一心に首を横に振る右将軍の姿を正面で見ている、大仙もまた悲痛な叫びをあげる。
「主上! 『偽王』が目を還せば残るは主上お一人。今まで通り主上がこの国を統べるのに何の問題がございましょうか」
「大仙、そなたは良くも悪くも愚かであるな。道を誤った国主は責を負わねばならぬ。余は道を踏み外したのだ。それはそなたも承知しておろう」
「わかりませぬ! 小戴ごとき小童の理想論に付き合い、主上がその位を失わねばならぬ道理などどこにもございませぬ!」
殆ど泣き声に近い怒号に、景祥が束の間苦しそうな顔をする。
「余は、取り戻せることと、取り戻せぬことの区別もつかぬ愚王にはなりとうない。せめて終わりぐらい余に選ばせてくれぬか」
「あなたの治世が終わるのはあなたが見罷れたときだけだ! ご健勝であられるのに、なにゆえ己れたちを棄てようとなさるのか!」
「棄てるのではない。身の丈に合わぬものを手放すだけのこと。余は右将軍も見出せぬ、半端な国主であった」
その事実から二十五年も逃げ回ってきた。その罪の清算ぐらいは自ら引き受けたい。
淡々としているからこそ、その痛切な思いは文輝たちに伝播する。景祥の裏の顔も表の顔もよく知っている大仙にも勿論、景祥の思いは伝わっただろう。
それでも。
大仙は腰から短剣を抜いた。その鈍い輝きが真っ直ぐに駆け出す。想定される軌道上にいるのが誰かなど確かめるまでもない。大仙は戦務長を力づくで排除しようとしている。戦務長さえいなくなれば今まで通り。それを疑わない狂気を感じて、束の間臆したが、結局は文輝も直刀を拾って駆け出す。隣にいた筈の晶矢の姿が既にないと気付いたとき、右将軍の雄叫びが聞こえた。
「させぬ!」
右将軍が大仙目がけて長槍を振りかぶる。その間合いに先に飛び込んだのは晶矢だ。大仙と右将軍の間で大仙を庇うように体を張った。右将軍が晶矢に気付いたが、振りかぶった長槍の勢いが止まるわけではない。大仙を殺めてでも戦務長を守るつもりだった穂先は右将軍の咄嗟の判断で僅かに軌道を変える。
それでも。
完全には晶矢を避けきれなかった。晶矢の小さな呻き声と前後して彼女の左腕が宙を舞う。それを網膜に焼き付けた瞬間、文輝の動きが全て停止しそうになる。守るべきものの順序など構わずに、晶矢に駆け寄りたいという衝動が湧いた。
それを見越したように、晶矢の声が津に響く。
「首夏! 迷うな! 行け!」
迷わない道理がない。迷わないほど文輝は強くない。それでも、今、ぐずぐずと感傷に浸ることが許されていないことだけはわかる。文輝は全ての感情に蓋をして津の石畳を蹴った。一瞬でいい。大仙より一瞬でも早く戦務長のもとへ辿り着いて、守らなければならない。戦務長は勿論、大仙が王弟殺しの罪に問われることも、その結果、再びこの国が行く先を見失うことからも、守らなければならない。
それだけの大役が文輝に務まるわけがないのは、文輝自身が一番よく知っている。正攻法では無理だ。わかっている。
だから。
幾ら文輝が近接戦闘を得意だと言っても、暗殺に長けた大仙の瞬発力を上回ることは出来ない。何の犠牲もなく何かを守ることは不可能だと知っている。
この瞬間、文輝が懸けられるものは一つしかない。
晶矢が懸けたものと同じ、文輝の命一つしか自由に使えない。
己の不甲斐なさを悔いながら、文輝は戦務長と大仙の間に飛び込む。人体の構造なら初科で嫌というほど教わった。どういう角度で、刃に飛び込めば人が死ぬかも知っている。
遠くで次兄が絶望を音にした。玉英の悲鳴が聞こえる。
その刹那、文輝の胸に大仙の短剣が突き立つ。大きな衝撃が文輝の身体を襲う。死なない角度を選んだつもりだったが、計算が少し狂っていたらしい。大仙が慌てて身を引こうとする。今、短剣を引き抜かれれば文輝は間違いなく死に至るだろう。わかっていたから、残された力の全てを使って大仙の手を短剣から引き剥がした。
「大仙殿、主上を、お守り出来なかったとき、報いを受けるのは、俺、だった、筈です」
切れ切れに呟く。大仙の顔色が変わる。そういう意味ではない。彼は全身で文輝の言葉を否定した。背中の向こうから焦った戦務長の声が聞こえる。
「喋っている場合か! 小戴!」
「問題、ありません、戦務長。人が、死なない、程度、です」
「もういい! もういいから、これ以上無理をするな!」
黄将軍、何をしている。戦務長の叱責の声が響いた。玉英が狼狽している。彼女は優秀な軍医だが、親族が自ら瀕死の重傷を負いにいくような経験をしたことは一度もない。彼女が今、成すべきことはわかっているだろうが、身内の保護の為にここへ飛び込んで来てもいいのかどうかで迷っている。文輝は確かに瀕死だが、晶矢もまた左腕を失う重傷だ。
次兄が玉英より先に正気を取り戻し、宰相に許可を求める。どちらを先に救えばいい。選べるのは一人だけだ。
その、やり取りを遠くに聞きながら、文輝は背中を支えてくれた戦務長に語りかける。
「戦務長、あなたは、ご存じではない」
「何をだ」
「どんな、思想も、理想も、行動を伴わなければ、ただの言葉でしかない」
「知っている。知っているから、俺はここにいる」
「いえ、やはり、あなたは、ご存じでは、ない」
「だから、もう喋るな! 本当に息絶えたいのか!」
「俺は、あなたを、信じると、言ったのです」
ですから、こうして命を賭してあなたを守ることが出来たのなら、俺の言葉は真実に変わったということではありませんか?
言い終わるより早くに文輝の視界が暗転する。最後に見えたのは文輝の血で汚れた手を呆然と見つめている大仙の姿だ。
この一日のことで、文輝が覚えているのはそこまでだった。




