1 ブランチ
起きなくてはならない。そう知覚した女は自らの体に覚醒を促す。柔らかい掛け布団を吹き飛ばし、マットレスをきしませ上体を起こす。
知らない部屋だ。いつも生活する女の部屋は今いる部屋よりもはるかに汚く、モノが多い。それに何かいいにおいがする。
少しひりひりする瞼に触れすぐに離す。今現在彼女がいるのは夢の世界でもなければ、死後の世界でもないらしい。女は少しがっかりした。
香ばしい香りが女の鼻腔を刺激する。その匂いを目でたどるとその発生源と目が合った。
「起きたね。おはよう。お米派?パン派?」
脳裏に焼き付いて離れない声が、脳裏に焼き付いて離れない唇から発せられる。
「えっと」
「朝、いや昼かな。えっと欧米風にいうとブ、ブランチ?の主食はお米がいいかパンがいいかってこと。どっちがいい?お米は冷凍のだけど。」
「あっとあのその」
女は困惑の声しか出すことができない。訳が分からなかった。
そんな彼女に米とパンの二択を迫ってくる女は笑う。
「色々困惑してると思うけどとりあえず何か食べたほうがいいと思うよ君。見たところ数日は何も食べてなさそうだし、そんな状態で今の君自身の状態を理解するのは少し難しいんじゃないかな。」
二択を迫られている女は自分の腹が滅茶苦茶にすいていることを自覚すると素直にアドバイスに従うことにし、リクエストを
「じゃあバンで。」
うまく言えなかった。喉が砂漠のように乾ききっていた。
「うがいしてきなよ。洗面所そこ。コップはこれ使ってくれていいから。」
コップを差し出されたガラガラ声の女はそれを両手で受け取る。
「あとパンね。任せて。」
二択を迫った女は答えを得て台所に戻る。
台所の後ろにある洗面所に行くためには、台所に立つ人間とすれ違わなければならない。少しそれがおっくうに感じてしまったが台所で働く女はそれに気が付いて「どうぞ」と道を開けてくれる。
「ありがとう、ございます。」
ガラガラ声で応えて洗面所の鏡に向き合う。ずいぶんとやせ細った顔が、ガラガラ女を見つめる。クマが濃く刻まれ唇は渇ききっている。
渡された洗浄液で喉を洗う。すべての洗浄液を使い切って顔をあげた。
「ひどい顔。」
「ほんとにね。ほら、できたから食べよう?ブランチ。」
そう言った女は食パンと目玉焼きを持ってローテーブルに置く。
「ほら食べるよ。」
久しぶりに食べたまっとうなご飯はお腹に異様にたまっていく。そんな感覚に苛まれた自殺未遂者は遅々として進まない自らの箸を見つめることしかできなくなっていた。
「仕方ない仕方ない。久しぶりに食べるんだもんね。」
「ご、ごめんなさい。」
「気にしなくていいから。」
向かい合う部屋の主はそう言って笑う。
「今更だけど自己紹介しようと思うんだ。」
部屋の主は箸を置き、足を組み換え姿勢を正す。
「私の名前は、南ルリ。学園の大学部3年。あなたは?」
ルリは優しく笑いかける。後ろにまとめられた彼女の髪の毛の束が揺れる。
「あっとえっとそのあ・・・」
「お水飲む?」
ルリはコップを勧める。
水を飲みほした自殺未遂者は一息つくと遠慮がちに口を開き始めた。
「私は麻中リサ、です。あの、昨晩は助けていただいて、あ、ありがとうございました。本当にk、かんさ違う、感謝しています。」
「そんなに慌てなくていいのに、リサ。ああ、リサって呼んでいい?事後報告になっちゃってるけれど。」
「あっ大丈夫です。えっと」
「ルリでいいよ。呼びたかったらルリちゃんとか、ルリたんとかなんでもいいんだけれど。」
「じゃあルリさん、で。」
リサはルリを下から上へと見つめる。こんな人学校にいたかなと自らの記憶をたどってみるが無駄なことであった。
彼女にとって学校は人の顔を覚えるほど余裕のある場所ではなかった。
「あの、ごめんなさい。自分も学園の大学部3年なんですけどルリさんのこと知らなくって。」
謝られるとは思っていなかったのか少し意外そうな顔をしてルリは返す。
「ああ、謝らなくていいのに。この学園広いし、日本全国から人間がたくさん集まってきてるから同じ学年でも知らない人がいるのは仕方がないことじゃないかな。」
ルリは気にしないでと言う。だが、リサとしては自分自殺を止めた人物が今更になって何かを要求してくるのではないかと疑心暗鬼になっていた。
「時に、リサ。」
「はい。」
「私のほうこそ謝らなくてはいけないことがあるんだ。」
「えっなんでしょうか。」
これまで接点のなかった自分に謝ることなんてあるのだろうかとリサは激しく困惑する。
「リサの自殺を止めてしまったこと。君が決意をもってとったであろう行動を踏みにじってしまった。すまなかった。」
彼女は続いたルリの言葉にまたもや困惑することになった。
「いっいえいえいえいえ、謝らないでください。あの時の私どうかしてましたから。」
これはリサの本心であった。今となってはなぜ自分があんなことをしたのかが全く理解できない。
「ほんとうに?」
ルリは目じりを下げてリサに問う。
「ほ、ほんとうです。あなたに止められる前までは死にたい死にたいって思っていたんですけれどあなたに止められてからは、あっルリさんの顔を見てからは何というかそんな気もなくなってしまってその時に気が付いたんです。」
リサはゆっくりと言葉を刻んでいく。
「私がとても怖がっていたことに。死にたいっていう気持ちで怖いって気持ちに麻酔を打っていたんです。それに気付けたのはr、ルリさんのこ、声とお、お、お顔のおかげなのでその・・・あっ謝らないでください。」
リサの言葉を聞いたルリは一瞬目を見開いて、すぐに目線を下げて俯く。
「ごめんなさい。」
リサに聞こえないように、ルリは蚊の鳴くような声で呟く。
サクッとトーストが咀嚼される音が静まり返った部屋に響く。
ルリははっと顔をあげると
「無理して食べなくていいんだよ?」
と声をかける。
「大丈夫です。おいしく食べられる範疇で食べますから。だから、まだおいしいです。」
「ならいいんだけれど。」
一息ついてルリは自分の味噌汁椀に手を伸ばし、啜る。
ルリとリサはお互いの食事に集中することにした。リサが最後の椀をテーブルに置いたのを見てルリが口を開く。
「リサ、家には帰れそう?」
「いひ、家ですか?」
「いや、帰れって言ってるわけじゃないんだ。その昨晩のこともあるし、家に帰りにくいのかなっていうのは何となく察しが付くからその確認というつもりだったんだ。別に出てけって言ってるわけじゃない。」
「で、でも悪いですよ。命を助けてくれたんですからこれ以上迷惑かけられません・・・」
リサは立ち上がると玄関へと小走りに移動する。
「リサ!ちょっと待って。」
「ありがとうございました。あとは自力で何とかします。このご恩は一生、一生忘れませんから・・・」
涙声になりながらリサは靴を履き扉に手をかける。鍵を開けようと手を伸ばしたその瞬間、
「待ちなさい。」
リサの鼓膜を震わせたのはあの美声。あの時の美声だ。だがあの時とは何かが違った。まるでリサの行動を拘束するような不思議な力が込められているように感じた。
動けない。体が言うことを聞かない。恐怖を感じそうになったその時に
「待って。お願い。」
リサは後ろから抱きしめられた。
ルリの声がリサの耳元から脳に直で入ってくる。
「大丈夫だから。家、帰りたくないんでしょう?私の部屋にいていいから。」
「でも、」
「あなたが何に悩んでいて、何に怯えていて、なんで死のうとしたかなんて私は知らない。でも、私はあなたを助けたい。」
「どうしてですか。どうしてあなたは私を助けたいだなんて」
リサはルリの拘束から逃れようとするがうまく力が入らない。
「それが私の贖罪なんだ。すまない。今はここまでしか言えない。でもこの贖罪のためなら私は何だってする。だからお願い。私に助けられてくれないか?」
ルリは懇願するようにささやく。
リサは心の中で独り言ちる。
これ以上彼女のような美しい人に迷惑をかけるわけにはいかない。でも、どうせ捨てようと思っていた人生。彼女に助けられたのなら、彼女がここまで言うのなら、彼女はきっと私の人生を拾って最後まで大事にしてくれる。あいつとは違って。
思考の転換が行われた。
不思議な感覚であった。ルリのことを無条件で信じられる気がしてきたのだ。
リサ自身、この状況の都合のよさに恐怖すら感じる。だがそれもひっくるめて全部彼女に預けていい気がしてきた。
そこまで考えてリサはわずかに続けていた抵抗をやめた。
「どうすればいいですか。ルリさん。私、行くところないです。やれることもないです。あなたに助けてほしいです。でも、あなたに全部言う気にはまだなれません。そんな私でもあなたは助けてくれるんですか?」
「もちろんだよ、リサ。少しずつでいいから私は待つよ。細かいことが言えないのはお互い様だし。色々話せるようになるまではさ、そうだな」
ルリは体を左右に揺らして悩むそぶりを見せる。
「なるまでは?」
リサは悩むルリに問いかける。
そんなリサにルリはあの美声で応えた。
「私のヒモになってよ。養うからさ。」