0 池
学校の池は生徒の憩いの場である。気分転換のためだったり、男女の逢瀬のためだったりとポジティブな使われ方をすることが多い。
深夜、そんな場所に似つかわしくない深刻な表情をした女が一人、水面に映る彼女の顔を覗き込んでいる。膝を抱え込んで彼女の背後にある森から拾ってきたのであろう木の枝で池の水をかき混ぜる。
かき混ぜられた池の水は映した彼女の顔をぐちゃぐちゃにする。
「そうだよねぇ。こんな女ぐちゃぐちゃになってしまうのがいいよねぇ」
彼女はスッと立つとすこしふらついた後、意を決したように「ヨシ!」と呟き、靴を脱ぎきれいにそろえる。
「入水自殺でもこうするのが多分、作法?だよね。」
彼女はそう呟くと池と陸の境目までの今生最後の一歩半を深呼吸しながら歩く。
「ぐちゃぐちゃにはなれないけど、顔だけはきっと無様だからそれで許してほしいな。」
彼女は震える唇で独り言ちる。
とうとう境目に到達した彼女はホームセンターで買ったひもを使って自らの腕を拘束する。口を使って器用にそれを成し遂げた彼女は薄く笑うと
「これで溺れられる。」
フッと目を閉じて一呼吸。そのまま目を開けずに顔から水面に向かって直立を保ったままメトロノームの針のように倒れた。
メトロノームが最初で最後の一度きりのテンポを刻むのを今か今かと待っていた彼女はいつまで待ってもその時が訪れないことに気が付いた。
これが走馬灯ってやつかと彼女は思った。それか死の前の生存本能による過集中というやつだろうか。今頃そんなかっこいい能力に目覚めてもなと彼女は思った。
そんなことを考えても一向にその時は来ない。ついに自分は空中浮遊の能力でも手に入れたのだろうかとしょうもないことを思う。死の間際に能力が開花してもな。誰か見てたらバズるかな。バズったらあれだな米軍か露軍に拉致されて解剖されるかな映画みたいに。そんな死に方もいいな。でも誰もいないからこの時間を選んだわけだしそんなことないない。人なんているわk
「何してるのお嬢さん。」
後ろから響いた脳震わす美声が彼女の思考をさえぎった。自分が今まで何を考えていたのかを即座に忘れさせる魔性の女声。その声は彼女に冷静さを取り戻させ、次の瞬間、今の彼女の体が感じている感覚を正常に知覚させ始める。
後ろから襟が引っ張られている。のどが少し締まっていて苦しい。ああ、これでもいいやと思った次の瞬間彼女は美声の主に強く引っ張られる。声の主にされるがままに視界が回転する。
顔が見える。先ほどの美声の出どころである唇が。美声の主の長い黒髪がカーテンとなり自殺未遂者の視界を覆い、整いすぎている顔に視線を拘束する。
お姫様抱っこのようなものをされていることに気が付いた自殺未遂者は顔を赤くし、急激に上がっていく体の熱を感じるとともに激しく震える自分の体に気が付いた。
「震えてるね。大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ。」
美声の主は自殺未遂者を抱きしめる。
こんなに他人のぬくもりを感じたのはいつぶりだろうか。そう思うと同時に大粒の涙が自殺未遂者にの視界をゆがませあふれる。
美声の主は泣く彼女を抱きしめ、同じようにその視界をゆるめる。
美声の主の目からも大粒の涙がこぼれた。
「今度は止められたっ!今度はっ!」
自殺未遂者の耳には入らないような小声で、しかし喜びと悲しみが混じった感情をしっかりと乗せてつぶやく。
夜中の池に響く二人の女の泣き声。
これは一人の女の贖罪の物語。
これは一人の女の再起の物語。
これは一人の女の挫折の物語。
この物語の開演のブザーはとある二人の女の泣き声である。