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「私、幸せよ、安心してね」
目を閉じ横たわるミケーレの手を取り、耳元で言った。傍には彼女の夫がおり、肩を抱いている。薄く目を開けて、手を握っているディアナに向けて笑顔を見せた。目尻は濡れ、頬がこけている。かつて自分を追いかけ抱き上げてくれていた手足は骨張って弱々しい。
それでも声を絞り、ディアナに言った。
「お嬢様、これからもっと、幸せに、いつも、あなたの味方……」
アンソニー・バロワが家督を継ぐ以前よりバロワ伯爵家に仕えてきたミケーレ。代替わりがあり、娘が生まれ、そして伯爵家は消滅した。行き場の無いその家の娘を養女として引き取って四年後、養女ディアナとその夫マルコに見守られながら息を引き取った。享年七〇歳。
* * *
四年前――――。
ミケーレは久しぶりにフォイエ家を訪れた。あんな事があって、近づくのすら憚られていた屋敷。通された応接室にはフォイエ公爵とプリドール公爵がいた。
「ミケーレ! 久しぶりだ、今どこで何をしている?」
「旦那様方におかれましては」
「何か相談事があるんだろう?」
――相変わらず好奇心に満ちた元気なお顔つきだ。
そう思いながら一礼して二人の目の前のソファに腰を下ろした。
「お二人には聞きたくない名前かもしれませんが……カレン様の身元引受人になりたいと思っております」
言い淀みながらも、二人の顔を見て言った。驚いた二人は目を見開き、顔を見合わせた。
「それは、また思い切ったな」
「両親の実家も名乗りを上げていないと聞いたぞ」
夜会に行けば、あの家はどうなった、などと噂話が飛び交っており、いやでも耳に入ってくる。その令嬢は6年になり、そろそろ、という頃なのに実家からは何の意思表示も無いのだと。
「さようでございます……お嬢様を赦せない方はおいでになるでしょうが、それでも私はお嬢様を見捨てる事などできません。血縁者の皆様方が動かれないのであれば、私がお側にいてお支えしたいと思うのです。現在は修道院のある街で雑貨店を営んでおりますが、身元引受人の申請をしましたところ貴族ではない者は推薦人が必要だと言われまして」
犯罪を犯した精神状態が揺らぎやすい者を、身元のわからない輩に預けるわけにはいかないためで、平民なら居住地の町長や領主、あるいは勤務先の上長にお願いをするが、今のミケーレには頼れる者が居ない。考えあぐねて、被害者の一人の親であり、事件発覚のきっかけになった二人の公爵に頼った。
「ご迷惑なのは重々承知しております、けれど、どうかお力添えをいただけませんでしょうか」
深々と頭を下げる。
「頭を上げなさい。かの令嬢がした事は確かに赦せない。だが時々、気にはなっていたのだ」
「モーリス、あいつなんかいいんじゃないか? 旧バロワ家とは何の関係も無いし、辺境にいるし、何より口が硬い」
二人の知り合いの、口の硬い貴族を紹介してくれた。事件当時もだが、相変わらず懐が深い様子にミケーレは泣きそうになるのを堪えた。
「それで釈放後はどこで暮らすつもりなんだ? 屋敷を借りるのか?」
「私の雑貨店の二階に部屋が空いておりますから、そこで」
「カレン嬢は王都で育った。耐えられるだろうか」
「それは大丈夫かと存じます。だいぶ穏やかになられたのですよ。半年ほど前に面会へ行きました時は、落ち着きが出てきたと感じましたし、何よりお顔つきが柔和になられました。もう、他人の声を聞かないカレン様ではないと思いましたゆえ、身元引受を」
「そうか。ずっと見てきたミケーレが言うのだ、間違いないのだな」
ミケーレはこの6年の間、何度も面会に行った。二回目に行った時はもう来るなと怒鳴られたものの、回を重ねるごとにカレンは穏やかになり、ミケーレが来ると笑顔を見せるようになっていた。その様子と、修道院側の評価があって、今回の決意に至った。
「我々は表立っての支援は難しい、それは理解してもらいたい。だが推薦状を頼む者は信頼できる男だ、これからもこういう時は頼るといい。私が手紙を送っておくから、推薦状がそちらに届き次第、修道院へ再度申請したらいい」
「ありがとうございます、感謝申し上げます」
帰り際、隣家から賑やかな声が聞こえてきた。門扉を出る間際にそちらのほうへ目をやれば幼い子供が庭を駆け回る姿が見えた。その近くには子供を見守る若い夫婦がおり、仲睦まじく寄り添いあっているその姿を見て、ミケーレは木の陰から静かに頭を下げた。
――カレン様もいつかは……。
* * *
街へ戻ってきて十日ほどして、届いた推薦状を持って再申請をし、無事に身元引受人の許可が下りた。カレンにはこれから三年間、この街から出る事が許されない。生涯、観察の目が付くことは避けられないが、三年が経てば、それまでの素行次第で旅行や結婚、転居が認められる。とはいえ当面はどこへもいく予定がないし、何もない田舎街はリハビリには持ってこいだろう。
「ミケーレ、私が養女だなんて……よかったの?」
連れて来られた、麓の街の、雑貨店。ローブを脱ぎながら言った。釈放は嬉しい。身元引受人がミケーレに決まったと言われ、喜んだ。だが、戸惑う気持ちは消えなかった。
「あなたは今から私の養女『ディアナ』。そして不本意でしょうが、外では私のことを、父、とお呼びください。バロワ家再興を企む輩、あなたに救いの手を差し伸べてくれなかった両伯爵家の方々につけ込ませない為です。あなたはもう償いをした。以前とは違うし、彼らとももう無関係だ。修道院では釈放後の行方について他言する事はありませんから、慎ましく暮らしていれば大丈夫です。今日からは新しく生き直すのですから、カレンという名も、伯爵令嬢だった過去も、全てを諦めてきた自分も今日を限りに解放して、これからは自分のために生きる練習をいたしましょう」
そう言ってテーブルにたくさんの書類を広げて見せた。身元引受人の書類、改名に関する書類、釈放後の決まり事、何かった場合の連絡先一覧などが細かく書かれている。
「この推薦人、というのは? お父様のお知り合い?」
「いいえ全く関係がございません。私の知り合いの公爵様にご紹介いただきました」
「そう……色々とありがとう、ミケー、お父様……」
「ふむ、私はお父様という柄でもないですから、父さんでいいでしょうか」
ミケーレは笑った。懐かしい笑いに、カレンは泣いてうなずいた。
「わかったわ、父さん」
ミケーレがお父様だったらよかったのに。そう思った事は何度もあった。こういう形でそうなるとは想像もしていなかったが……。
カレンはディアナと名を変えた。長かった髪を顎のラインでバッサリ切った。化粧をせず、街で手に入る普通のワンピースを着て、明日から新しい人生がはじまる。事件を起こした自分を恥じてもいるし、ジゼルに謝りたい気持ちもある。だが、自分の気を楽にしたいがために謝罪をしてもジゼルの為にならない。傷を拡げてしまうだけだ。一方的な謝罪ほど悪意に満ちたものはなく、生涯赦されない事を胸に、歩き出す。
六年かかった。