93.前世越しの謝罪【♡】
それなりの身長のある人間二人を乗せられるほどの大きさの蜘蛛は、二人が地面に下りた瞬間にどろんと紅い煙を出して消えてしまった。
「姉さんッ! 三縁ッ!」
まだ全身の筋肉痛が抜けていないのか、よろつきながら血の気の引いた顔で私たちに駆け寄って来る蓮水先輩。
「なんで、どうしてまたこんな目に」
目の前で崩れ落ち、震える手で私に手を伸ばしてくる。今にも泣き出しそうなその顔と、前世の自分が彼にしでかした所業を思い出して胸の奥がじくじくと痛んだ。
「……先輩」
かつての私は貴方の想いを切り捨てて、踏みにじって、全く別のものにすり替えて。心を捻じ曲げて激しく後悔するようなことをさせる原因を作ってしまったのに。なのにどうして、ここまでひたむきに心配してくれるんだろう。
「先輩、私、」
「綾斗!」
謝らないと。
そう思い言いかけた言葉は、侑里先輩の蓮水先輩を強く呼ぶ声によって止められてしまった。
「今は狼狽えてる場合じゃないでしょ! 早く治療!」
「! あ、ああ!」
その言葉に我に返った蓮水先輩は私と兄さんを見比べて、苦し気に顔を歪める。
上半身が血塗れの私と、出血はないが体は潰れ手足があらぬ方向に曲がった兄さん。
どちらも重傷だけれど、兄さんの方が危ない。無暗に動かすのも危険な状態だったのに、火事から逃げるために半ば無理矢理ここまで運んで来てしまった。もしかしたら傷が悪化しているかもしれない。呼吸をするのも辛そうだし、もしかしたら肺に骨が刺さっているかも。私だって一見出血過多で命の危険もありそうな状態だけれど、前世の力が戻った影響なのか意識ははっきりしている。
先輩はすぐに私と兄さんの間に移動すると、私たちの身体に手をかざし回復魔法を使い始めた。
撃たれた肩がじわりと熱を持ち、わずかに感じていた痛みが少しずつ引いていく。怪我らしい怪我はこれだけだったし、大した時間もかからずものの二十秒ほどで手は離れた。相変わらず身体は動かないけれど、もう何ともない。
兄さんの方もすぐに潰れた体は盛り上がり、曲がった手足はあっという間に元に戻っていった。さすがは蓮水先輩だ。これならきっと後遺症だって残らないだろう。
少しずつ穏やかになっていく兄さんの顔にほっとしていると、私たちの容態が改善されたのを見た蓮水先輩の視線が横にずれる。
今この場所に寝かせられているのは私と兄さんだけじゃない。視線が移るのは当然だった。
「こいつ、確か……」
顔の腫れ上がった少年を見た先輩の眉が上がる。
「夜久さんの弟です」
「やっぱりそうか。しばらく見ない間に随分大きくなったな」
知り合いだったんだ。しばらくってことは昔会ったことがあったのかな。
私は朔彰くんも兄さんと同じように捕まって暴行を受けていたことを話し、彼も治して欲しいと頼むと、先輩は「最初からそのつもりだ」と笑った。
すると私たちのやり取りを聞いた侑里先輩ははっとしたようにきょろきょろと辺りを見回す。
「そういえばあいつはどこ?」
「千寿さんと話してますよ」
当然そんな反応になるだろう。私が口を開く前に樫山さんが返答すると、侑里先輩はあー、と少しだけ気まずそうな声を上げた後、すぐに腕組みをした。
「でも信じらんない。あいつが八千代に手を貸すなんて」
「夜久ならまず間違いなくそうするだろうさ。あいつがクレイヴォルとはかけ離れたやつなのはお前だって分かってるだろ」
「そうだけどさー」
似た部分が全く無いわけではないけれど、夜久さんとクレイヴォルの性格や根本的な考え方が全く異なっていることは廃製鉄所で十分に理解出来た。違い過ぎるからこそ問題が生じてしまっていることも。
侑里先輩とそんなやり取りをしながら蓮水先輩は朔彰くんの腫れた頬もほんの数秒で元に戻してしまう。綺麗になった頬をそっと撫でて、先輩は私たちに視線を戻した。
「だが……あいつがいて姉さんはここまで酷い怪我を負ったのか」
それは夜久さんとクレイヴォルの両方の実力を信用しているが故に出た言葉なのだとすぐに分かり、私は口を開いていた。
「逆です」
「え?」
「夜久さんがいてくれたからこの程度の傷で済んでるんです。もしいなかったら、私も兄さんも助かってません」
何も知らない人が入ればあっという間に死んでしまう場所。あの廃製鉄所は陽菜さんの言っていた通りの場所だった。大量に仕掛けられた殺意の高い罠に再生能力を持つ魔晶族の模造品。初見殺しとも言える仕掛けがあまりにも多過ぎた。
夜久さんがいなければ間違いなく兄さんを見つける前に私は死んでいた。それは間違いない。でも、夜久さんだけでもきっとただでは済まなかったはずだ。陽菜さんがいれば問題なかったんだろうけれど、いなかったから。
蓮水先輩は難しい顔で私を見ている。やっぱり黙って行動してしまったことを怒っているんだ。
先輩には、謝らなくちゃいけないことが沢山ある。この場には侑里先輩も樫山さんもいるけれど、謝るのは早ければ早いほどいい。
そう言うにはあまりにも長い時間が経ってしまったけれど。
「勝手に兄さんを助けに行ってしまってごめんなさい。でも、後悔はしてないんです。兄さんを助けられたことだけじゃない……忘れていた、大切な記憶も思い出せたから」
先輩の目が大きく見開かれ、わずかに顔が強張る。
その表情は先輩も既に全て思い出していることを裏付けるには十分だった。
「ね、姉さん、まさか」
「思い出したんです、全部。私がそうだと信じ切っていた前世の自分は全部嘘だったんだって。初めて出会った頃の先輩がああなってしまっていたのも、全部私が原因だったんだって」
かつて最後の最後で自分を真に見てくれていた弟から逃げてしまったこと。
女王になる前、一緒に過ごした温かな思い出を強制的に別のものにすり替えてしまったこと。
そして何よりも、すり替えた歪んだ記憶を真実だと信じ込んだ先輩に沢山酷いことをさせてしまったこと。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい……!」
ああ、やっぱり体が動くようになってから謝ればよかった。蓮水先輩は自分も被害者だったにも関わらず土下座して謝ったのに、元凶の自分が口だけで頭も下げないんじゃあまりにも不公平だ。
こらえていたけれど耐え切れず溢れた涙で視界が歪む。どうして加害者が泣いているの。蓮水先輩はあの時泣かなかったのに、泣き落としをしているみたいであまりにも卑怯だ。
無理矢理体を起こそうと身体を捻ると、先輩に慌てて「無理はするな」と身体を押さえ付けられた。そのまま少しの間があいた後、
「思い出した時は……なんて馬鹿なことをしたんだって思ったさ」
ぽつりとそう呟く。陰になって表情は見えなかったけれど、すぐにこちらを向いたその顔はとても穏やかに笑っていた。
「でも、いいんだ、もう。こうやってまた会えて、今度は友人として一緒にいられる。それだけで十分だ」
罵倒は無いとしても一つや二つの小言くらいは覚悟していたのに、さらりとそんなことを言われて拍子抜けしてしまう。
「そんな、あっさり許すんですか? もっと責めたっていいんですよ。私のせいで先輩は停学になったんですから」
「例え偽りの記憶を植え付けられていたとしても、最初の頃の姉さんへの態度は僕が自分の意思でやったことだ。あれはどう考えたって僕が悪い」
先輩は私の手首にそっと手を添えると、いまいち納得の出来ていない私に続けて話し始めた。
「姉上がああしたのは、女王の責任を果たそうとしたからなんだろう? あの時の僕はああ言って説得しようとしたけど……僕の知っている姉上なら、一度自分で始めたことを途中で投げ出すわけがないんだ」
「……そうでしょうか」
「実際そうだっただろう。一つ言うのなら……せめて、相談くらいはしてくれ。止められると思って言わなかったんだろうが、侵入するにももっといい方法があったかもしれないだろ」
「……ごめんなさい。次からは、そうします」
「頼むぞ。血塗れの姉さんを見た時は寿命が縮まるかと思った」
青白い顔でそう続けられ、思わずごくりと唾を飲み込む。
本気で心配させてしまったことが申し訳なくて。最後にもう一度だけ小さく「ごめんなさい」と頷いた。
◆
「で、りっくん。その傷は?」
「げっ」
「あたし、戦闘は禁止って言わなかったっけ?」
私と兄さんの着替えを済ませ(着替える前の服は侑里先輩が証拠隠滅のために灰にしてしまった)、廃製鉄所でのことや樫山さんたちと合流した経緯等を大まかに話し終えると、侑里先輩は話題を切り替えるように樫山さんの頬に付いている大きな傷を指差した。
侑里先輩の顔がにっこりと笑顔なのが、逆に怖い。樫山さんは顔を引きつらせながら「大した説教もなく終わるかと思ったのに……」と呟いている。
樫山さんだって今の自分の身体で戦っていい状況と悪い状況を弁えているはずだ。
私も強く止めなかったし……フォローしてと彼に頼まれていたことを思い出して、助け船を出すことにした。
「紫藤薫子に邪魔された時に止むを得ず戦ったみたいで……その時に出来た傷みたいです」
「違うでしょ」
「え?」
しかし、すぐに返された言葉は想像していなかったもので私は思わず目を丸くする。
「それ、糸目女にやられた傷じゃないでしょ?」
どういうことだろう。私は紫藤薫子に妨害されていた陽菜さんの助太刀に入ったことしか聞いていない。
というか、どうして傷を見ただけでそうだと分かるのか。樫山さんも同じことを思ったみたいで傷口に触れながらじっと侑里先輩を見ていた。
突き刺さる視線の中、侑里先輩は頬の傷を見ながらすぅと目を細める。
「『巖禽』にやられた傷でしょ、それ。傷口にちょっとだけ付いてるその魔力、忘れもしないよ」
巖禽。また懐かしい二つ名を。
確かに意識を凝らせば樫山さんの傷にわずかに魔力が付いているのが分かる。でも、それだけだ。それが誰のものかなんて、到底分かる量じゃない。
目を見開いた樫山さんからそれが正解であることを察して侑里先輩の魔力感知センスに内心舌を巻いていると、なぜか侑里先輩はほっとしたように表情が緩んだ。
「そっかあ。あいつ、ちゃんと死んでくれたんだ」
念には念を入れたけど、もしかしたら生き残るかもって不安だったんだ。
そう続けてあはは、と安堵が大半を占めた顔で力なく笑い出す。
「……どういうことだ?」
その様子に違和感を感じたのか蓮水先輩が訝し気に侑里先輩に訊ねると、
「いやいや、全然大したことじゃないんだよー?」
と、顔の前で手をぶんぶんと振ってみせた。
「前世のあたしは最期に自爆する覚悟を決めた時、真っ先に考えたのはどうすればあいつを確実に殺せるかってことだったんだー。あいつの頑丈さは異常だからね。
だから奇襲をかけた時真っ直ぐにあいつの所に行ってー、変身される前に爆発する糸で縛って動けなくしてー、で、あいつの背中の上で自爆したの」
前世の最期、魔晶族全員でサーシス王国の重要人を巻き込んで自爆した時。全員が固まって敵の本陣を攻めたのではなくルミベルナ、ルカ、アイリーンの三手に分かれて挟み撃ちするように攻めたのだ。故にルカやアイリーンがどうやって自爆したのかは見ていない。
……なるほど。
巖禽の作り出す鎧は本当に硬かった。アイリーンは他の人間たちを仲間の魔晶族に任せて、自分は確実にあの人を殺すために動いたんだ。
侑里先輩は当時を思い返しているのかげんなりとした顔で落ち着かないようにゆらゆらと体を揺らしている。
「はーあ。王様といい、マリー・カレンデュラといい、巖禽といい……皆タイプは違ってたけど人間のくせしてタフなやつ多過ぎだっての」
「魔晶族と渡り合うのに人間離れしたタフさはほぼ必須だったから、その評価は妥当だと思いますよ」
「ねえりっくん、タフさの理由に異能が一切関わってなかった前世の君が一番やばかったの自覚してる?」
樫山さんと侑里先輩のやり取りを聞きながら、サーシス王も大概すごかったのを思い出した。
いくら攻撃しても何度も立ち上がって来る。逆に傷が増えれば増えるほど力もスピードも上がっていって、ズタボロの姿で無表情で斬りかかって来る姿は狂戦士と呼んでも過言ではなかった。まず、王様とは到底呼べる風貌じゃなかった。状況にもよるけれど、今あれを見たら怖くて逃げ出しているかもしれない。
「正直りっくんのことはすっごく叱りたいけど、あたしもちょっと考えが甘かったわ。脅しはしたけどそれでも手を出すやつはいるよね。巖禽みたいなのに絡まれたら戦いは避けられないのはあたしにだって分かるし」
「紫藤はおれの成績に逆恨みして手を出したみたいだけど、前世のおれに本気で恨みを持ってるやつも当然いるからね」
侑里先輩は樫山さんを叱るのをいったん考え直すことにしたらしい。目に見えてほっとした素振りを見せた樫山さんはそう付け加える。
「それにりっくんに呪いをかけたのって聖女様だったんでしょ? ならあいつが襲って来るのも納得なんだよ、巖禽と聖女様は前世じゃいつも一緒にいたもの」
そうか、紫藤薫子が陽菜さんの妨害をしていたのははね返った呪いの解呪方法を聞くため。なら、巖禽の転生者が紫藤薫子と一緒にいても不思議じゃない。
巖禽……確か本名はレオナード・フェスマン、だったっけ。軍隊長の一人だったけど、他の軍隊長とは少し雰囲気が違っていた。戦場ではいつも聖女エレナと一緒にいて、いつだってお互いを守るように戦っていた。そこに二人だけの特別な絆があったのは間違いなくて、抜群のコンビネーションで散々苦しめられたのを覚えている。
今世の二人は一体どんな人たちになっているのだろう……。
その時だった。
「お待たせいたしました……って、あら! もう到着していましたのね!」
茂みを踏む音を鳴らしながら、陽菜さんと夜久さんが戻って来た。




