88.交錯する思惑(下)【Side:H.S.】
薄闇はすっかり夜に変わり、古びた外灯と月の光だけが辺りを照らしている。
そんなぼんやりとした明かりに照らされた、普段ならば静寂に包まれているであろう空間には今、この場に似つかわしくない音が引っ切り無しに響いていた。
文字であらわすならバキッとかゴキッといった少し鈍さの入った音。
それは樫山と鬼崎先輩が互いの剣と槍をぶつけ合うことで出ている音だけれども、金属のような鋭く高い音ではないのは当然とも言える。二人が持っている得物は、どちらも金属で出来てはいないのだから。
不意に、鬼崎先輩が樫山と距離を詰める。
二人のリーチの差は歴然だ。その大きさに似合わず素早く突き出された矛先を樫山は右手の剣で咄嗟に防ぐけれど、攻撃に耐えられなかったのか氷の剣にはヒビが入り砕け散ってしまった。
「――ちいっ!」
樫山は舌打ちをすると、そのまま自分の胸元を狙って突き出された切っ先を左の剣で弾くことで軌道を逸らす。けれども完全には逸らすことが出来ず、矛先は彼の頬を掠めて薄い傷を作った。
「前世のようなキレがないな」
バックジャンプで相手から距離を取った樫山に鬼崎先輩は槍を構えながら冷たく言い放つ。
「……当たり前でしょ。さっきまで死にかけだったんだから。それに、戦闘に関してはおれとあんたじゃ才能も経験値の差もあり過ぎるっての」
そっけなく返しながら、樫山は剣を失った右手の甲で頬を流れ落ちる血を拭った。
彼の言葉にはっとする。
そう、樫山はほんの数時間前まで呪いの影響で常時ふらふらな状態だったのだ。呪いが解けたといっても、奪われた体力はすぐには戻らないはず。
改めて彼を見ると、暗くて分かりにくいが肩が上下に動いている。かなり体力を消耗しているのは一目瞭然だった。
「樫山、貴方無理は――」
「やっぱり分かんないんだよね」
わたくしの言葉を遮って樫山が続ける。
「そもそも、呪術の類って強力になればなるほどリスクもあるってのは周知の事実じゃない。あんたらが知らないはずないよね」
淡々とした彼の態度に、鬼崎先輩は訝し気な表情になった。
「それがどうした」
「今回のがここまでやばいものってのは知らなくても、強力な呪いをあれだけ重ね掛けしてれば鬼崎さんに副作用が起きる可能性は大きいって分かってたでしょ。現に紫藤は妹ちゃんたちが呪いを解いてしまうのを危惧して襲いかかったわけだし」
そう言って紫藤さんの方を見ると、紫藤さんの肩がぴくっと跳ねる。彼の顔は陰に隠れて良く見えない。
「鬼崎さんはあんたらに黙って勝手にやったのかもしれないけどさ――普通、親しい人が呪いなんか使おうとしてたら止めない?」
今の樫山がどんな表情をしているのかは分からない。それでも、周囲に白い冷気を漂わせ低い声で淡々と話す彼からは、思わず呼吸が止まってしまうような――『圧』のようなものが感じられた。
「分かってて、鬼崎さんを止めなかったのはあんたたちだ。あんたらが鬼崎さんの身の安全よりも、おれが苦しむのを見る方を優先した結果でしょ。
なのにいざ鬼崎さんに何か起きたら、取り乱してどうにかしろーって他人に当たって縋ってさ。ほんと笑える」
クックッ、と喉の奥から押し出されるように笑う彼に、息を飲む。
そこにかつての愚王を演じて国民から嘲笑われていた姿はどこにもなかった。
けれども今の二人が冷静さを失っている状態なのは明らかだ。
鬼崎さんは恐らく今病院で医者や第三軍隊だった人たちに容態を診てもらっているはずだけれど、きっと前世のことを知っている身内が傍にいないのは心細いだろう。
彼の言う通り、今は彼女の傍に付いてあげるべきだ。
少なくとも呪いについて詳しく知るわけがないわたくしたちに縋っている場合じゃない。
わたくしも同意するように小さく頷くと、鬼崎先輩はぽつりと口を開いた。
「……いつだってそうだ」
「ん?」
「いつだってお前が絡んでいる……前世も今世も、家族が酷い目に遭う時はいつも……」
絞り出すように出された彼の言葉に、樫山は呆れたように「はあ?」と声を上げた。
「まだそんなこと言ってんの。ジュリアスはあんたの家にやられたことをそのままやり返しただけ。やり返す時も自分の末路が碌なものにならないことくらい承知の上だった」
「……!」
「それに今回に至ってはそっちが勝手に手を出して勝手に自滅したんでしょ」
「貴様……!」
そう言い放つ樫山の態度は堂々としたものだ。
完全なる開き直りであるが、それでも、彼はそう振る舞うしかないのだ。
少なくとも前世の樫山――王様ことジュリアス・フェルデ・S・シェルシエールは自分のやったことに、その末路に、悔いなど一切無かったのだから。
樫山の態度が気に障ったのか、槍を握りしめる腕に力を込め、再びその矛先を向けて飛びかかろうとする。
しかし、その足が前に進むことはなかった。
先輩の槍を握る腕を、いつの間にか別の大きな手が掴んでいたからだ。
「――ちいと頭に血が上り過ぎじゃねえか、鬼崎の兄さんよ」
どぎつい赤紫色の髪をソフトモヒカンにした大男が、そう言ってにいと笑う。
その体躯通りの太い声。本人は普通に話しているつもりなのだろうけれど、かなり大きい。
「何のつもりだ、香坂」
自分の行動を半ば強制的に止められ、鬼崎先輩は心底迷惑そうに掴まれた手を振り払う。それを気にすることもなく、香坂先輩は腰に手を当ててわたくしたちを見回した。
「いやあ、お前ら全員に用があったんだが……同じ場所に居てくれてラッキーだったぜ。おかげで探す手間が省けた」
わたくしたち全員に用……?
樫山だけじゃなく、鬼崎先輩や紫藤さんまで不審そうに眉を寄せている。
「……何の用ですか」
きっと水を差されたからだろう。能天気にガハハと笑う香坂先輩に紫藤さんが冷めた態度で訊ねると、彼は質問した紫藤さんと鬼崎先輩の方に向き直った。
「まずそこの二人、鬼崎妹の件だが」
「……! 何か分かったのか!?」
「ああ分かったぜ。一つだけな」
「本当ですか!?」
鬼崎さんの名前が出たことで、二人の顔色が変わる。
そういえば彼はわたくしから呪いのことを聞いた後、鬼崎さんの容体を見に行っていたのでしたわ。しかも何か分かったこともあるみたいですし、さすがですわね。
香坂先輩の言葉に、二人は希望の色を覗かせる。
「悪いがありゃオレの力じゃどうしようも出来ねえ」
「え……」
しかし、香坂先輩から返ってきた言葉は、とても残酷なものだった。
二人は硬直していた。何を言われたのか分からないようだった。もしくは、それを脳が受け入れるのを拒んでいるようだった。
それでも理解せざるをえなかったのか、段々と二人の顔から血の気が引いていく。
「冗談は、止めろ」
ようやく鬼崎先輩から出た声は、とても固い。
「貴様が、何も出来ないはずが……」
「そ、そうですよ。先輩、かつてはサーシス軍の誇る魔法学の権威やったでしょう」
紫藤さんも引きつった顔で先輩に続く。
そんな二人に、香坂先輩は表情一つ変えずにきっぱりと言い切った。
「ああそうだぜ、オレはサーシスの中ではこういう類に一番詳しい自信がある。だから、こうやってハッキリと無理だっつってるんだ。つーかあんなマジでヤベェ代物、鬼崎妹はなんで無知のまま何度も使ったんだ」
黙り込んだ二人に、はあとため息を吐く。
「通常通り解呪されたんならまだやりようはあったんだろうが……正規の方法じゃねえやり方で力づくで解かれたせいで、本来よりもずっと歪な形になっちまってる」
正規の方法……そういえば、八千代さんたちはどうやって樫山の呪いを解いたのかしら。
ちらりと樫山を見ると、顎に手を当てて何とも形容し難い表情で何やら考え込んでいた。
「ではもう一生あのままだというのか……!?」
はっとして視線を戻すと、鬼崎先輩が香坂先輩に詰め寄っているところだった。
「ずっとあのような、陽の光を見れぬ身体のままだというのか……!?」
ギリギリと音を立てそうなくらいに強く拳を握りしめながら、鬼崎先輩は声を荒げる。
今の彼は迷子になった子どものような途方に暮れた顔をしていて、そんな彼を紫藤さんもどこか戸惑いがちに見ていた。
今まで紫藤さんと比べて冷静そうに見えていたけれど、もしかすると彼の方が余程今の状況に焦っていたのかもしれない。
「そうカッカすんなよ、別に万策尽きたわけじゃねえ」
「本当か!」
「ま、そんなこと今はどうでもいいんだ」
香坂先輩はそう言って今度はこちらの方へ向かって来る。
彼の背後で二人が「何だと……!?」とか「どうでもいいやて!?」と声を荒げている。当然だ。
他人とはいえ同じ学校の生徒が大変な状況になっていて、しかもそれについて何か考えがあるみたいなのに、彼にとってはどうでもいいらしい。せめてその考えを話してからでもいいのでは。
「よお、さっきぶりだな! お前らに頼みがあるんだ!」
わたくしと樫山のところに来た香坂先輩は、二カッと今のこの空気の中でするにはあまりにも明るい笑顔を向けた。
「た、頼み……?」
わたくしたちへの用ってもしかしてそれかしら。でも頼まれるようなことに心当たりなんてない。
樫山も同じなのか、何も言わず警戒した目で先輩を見ていた。
そんなわたくしたちも全く気にならないのか、先輩は笑顔のまま警戒心MAXな樫山を指差す。
「こいつにかかってたその『ノエル・ラクール式呪術』ってのについて――」
ノエル・ラクール式呪術? わたくしに話せることは全て話したはずですけれど。これ以上何を?
そう思った――その時だった。
耳がおかしくなってしまうそうなほどの爆音が響き、薄暗かったこの場所にオレンジ色の光が差し込んだ。
「……え?」
突然のことに、わたくしたち全員目を丸くする。
「!? な、何や今の爆発はァ!?」
紫藤さんがいつもは閉じた目をカッと見開いている。……中々レアなものが見れましたわ。彼女の目って緑色でしたのね。
と、こんなことを考えている場合じゃありませんわ。一体どうして爆発なんか……、
辺りを見回して『それ』を見た瞬間、ひゅっと自分の喉が鳴る音が聞こえた。
少し離れた場所で、オレンジ色の炎がめらめらと燃え上がっている。ここから見るだけでも相当な範囲だ。
燃えているのは――
わたくしの目的地。
三縁くんが捕まっている、南天鐘製鉄所だった。
「っ……」
樫山も気がついたのか、血の気の引いた顔で呆然と燃え上がる製鉄所を見つめている。
「おいおい、一体どうなってんだ!?」
「かなり大きいぞ……!」
周りで騒ぐ声は、わたくしの頭の中に入って来なかった。
何が爆発したかなんて分からないけれど、製鉄所全体に影響するほどの爆発と炎。三縁くんがあの中にいるとしたら――
恐怖が稲妻のように走る。助けに行かなきゃ。でも、あの炎の中をどうやって。いくらわたくしの異能でもあの炎を消すことなんて……。
いいえ、迷っていては駄目ですわよ千寿陽菜!
とにかくまずは製鉄所まで行ってみなければ。時は一刻を争いますわ、今急いで行けばまだ助けられるかもしれません……!
「あっ、ちょお待ちいや!」
駆け出したわたくしの前に再び無数の蛇が立ち塞がる。
「この期に及んでまだ邪魔をしますの!?」
こんなことになってしまった以上もう遠慮なんて出来ない。
わたくしは紫藤さんたちを茨の中に飲み込むつもりで手を前に出す。
「更生の……」
しかし、わたくしが異能を出す前にわたくしと紫藤さんたちの間に一つの影が降り立った。
わたくしたちと同じ明迅学園の制服。
樫山の白銀とは違う――雪のように真っ白なセミロングの髪がはらりと重力に従って落ちる。
この人は――!
「よくも……」
彼女の声は、震えていた。
いいえ、声だけじゃない。身体も分かりやすくぶるぶると震えている。
そして、少し幼さの残るその顔は真っ赤に染まり、表情は歪んで吊り上がり、まるで般若のよう。
そう、彼女は――誰がどう見ても怒っていた。
そしてその殺意にも近い怒りのこもった目は、わたくしではなく紫藤さんと鬼崎先輩に向けられている。
当の二人は彼女がいきなり現れたこともありぽかんと呆けた顔をしていたが、その突然の怒りを向けられたことでぎょっと顔を強張らせた。
「な、あんた、どうしたん急に」
口元をぴくぴくと引きつらせながらそう言った紫藤さんの態度が彼女の火に油を注ぐ結果となったらしい。彼女の見開かれ血走った目が、さらに大きくなる。
「よくも台無しにしてくれたな!!」
「な、ちょ」
全身をわななかせそう叫んだかと思えば、彼女は紫藤さんたちに飛びかかる。紫藤さんたちも何の心当たりもないのか混乱の色を隠せていない。
でもどうして急に彼女が出てきたのかしら?
訳が分からないまま放心状態で彼女たちを見ていると、不意に腕をぐいっと引かれる。
「何ぼーっとしてんの、あいつは紫藤たちに用があるんだからおれたちはさっさと退散する!」
「……! ええ!」
そうですわ。今は呆けている暇なんてない。
製鉄所の方向に向かって駆け出した樫山を追う形で、わたくしも走り出す。
「まさか自ら出て来てくれるなんてね……横やりを入れられて相当お怒りのようだ」
走りながら樫山はそう言って苦笑いをした。
もしかして樫山はどうして彼女が急に出て来たのか知っているのかしら。
「樫山、一体どういうことですの!? さっぱり訳が分かりませんわ!!」
まず三縁くんを助けに行くわたくしを紫藤さんと鬼崎先輩が妨害していたという構図から、樫山が増え香坂先輩が増え……状況が目まぐるしく変わり過ぎなのだ。
彼女が出てきた時点で本当に何も分からなくなってしまったし、結局香坂先輩が何を頼もうとしていたのかも分からなかった。
「おれも完全に理解したわけじゃないけど、それよりまずはノゾムたちでしょ。今の爆発で木端微塵になってないといいんだけど……」
「そういう縁起でもないこと言うんじゃねェですわ!」
もしこれで三縁くんが死んでしまったらなんて、考えたくもない。
お願い。どうか無事でいて……!!
心の中で何度も祈りながら、わたくしたちは目の前に広がる炎に向かってただ走り続けた。




