84.暴走【♡】
胸倉を掴んで引きずり上げられた糸杉千景の身体が、もう一度玩具のように吹っ飛ぶ。床を二、三回跳ねてうつ伏せに倒れ、どこかを切ったのか彼の傍の床に赤いものが散らばった。
手から離れた拳銃は彼が取り直す前に夜久さんの足に踏み潰され、今度は胸倉ではなく首を掴まれ持ち上げられる。身長差のせいか床から浮いた足をバタバタと動かす彼に、夜久さんはもう片方の手で顔を掴み無理矢理自分の方を向かせた。
「サーシスの男ってのは」
「……ぁ」
「どいつもこいつもやることが同じだな、反吐が出る」
掴まれた襟首で喉を締め上げられて、糸杉千景の血の滲んだ唇からヒュウヒュウと空気が漏れている。彼が何か言おうと口を開きかけたところで、夜久さんの膝が突き上げるように鳩尾に入った。
「がっ……は……!」
体をくの字に曲げて咳き込んでいる相手を、夜久さんは無慈悲にもまた引きずり起こす。拳を振り上げたその時、
『ウオォォォン!!』
「――!」
影の鎖の拘束を解いた模造品が糸杉千景を助けようと夜久さんに飛びかかってきた。
しかし彼は慌てる素振りも見せずに糸杉千景の首に太い腕を回し盾にするように引き寄せる。模造品の動きがピタリと止まったのを見てククク、と喉で笑った。
「へェ、造り物にしちゃあちゃんと状況を理解出来てんじゃねえか。ここで攻撃したらご主人サマも一緒にズタズタになるものなァ?」
模造品は動かない……否、動けない。糸杉千景の身の安全を守るため危険を排除しないといけないのに、その行為は糸杉千景の身の安全を脅かしてしまうからだ。
「おい、何やってる、は、早く助け……うぐっ」
そんな模造品に助けを求める彼の声は、首に回された腕に力が込められることによって止められる。
「哀れだな、手駒にしていた造り物に縋ることしか出来ねえとは」
冷たくそう言い放つと、夜久さんは動かない模造品に手を向けた。
瞬間、足元の影から飛び出した水晶のような杭によって模造品の身体は粉々になる。再生する暇も与えず何度も何度も繰り返され、あっという間に模造品はただの欠片になってしまった。
「あ……あ……」
床に散らばった、たった今まで模造品だったものを凍り付いた顔で見つめる糸杉千景。けれどもすぐにまた首を掴まれ頭上に振り上げられ――まさか、と思った直後、その腕は勢いよく振り下ろされ、糸杉千景は床に叩き付けられた。
叩き付けられ砕け散った床がいかにその力がとてつもないものだったのかを示しており、私は撃たれた痛みと謎の腕輪で力の入らない身体で、ただ呆然とそれを見ていることしか出来なかった。
「ア……ガ……!」
その間にも、その身で床を割られ、声にならない悲鳴を上げて悶絶する彼の襟首を掴んで引きずり起こし、夜久さんは最初に叩き付けた壁の方へと向かって行く。
そして、もはや抵抗する元気もない糸杉千景の後頭部を鷲掴み、
ガン
「ぐああッ……!」
今度は顔面を壁に叩き付け始めた。
一回だけじゃなく、何度も、何度も、何度も……。始めは痛みに暴れていた糸杉千景も、回数が重ねられるごとに動きが弱くなっていく。
あまりにも慈悲のない、一方的な暴力。叩き付けられた壁は次第に赤く染まり、花のような模様が付き始めていた。
無言で糸杉千景の顔を壁にぶつけ続けている夜久さんの顔は、逆光で隠れてよく見えない。
「や、夜久、さん……」
一体どうしてしまったの。
思えば、出会ってからここに来るまでに彼とは色々な話をした。一緒に危機を乗り越えたりもした。
その過程で私が見た彼は穏やかで、年甲斐もなく落ち着いていて、年下の私にもとても丁寧で。でも内には激情を秘めていて、時折それが表に出る、そんな人だった。
でも、今の彼は。今日出会ったばかりの私にでも分かる。
どう見ても……おかしい。
なのに、おかしいのに、強烈な既視感がある。今の彼を私はよく知っている。
早く、止めなきゃ。
私の予想が当たっていてもそうでなくても、こんなリンチとも言える惨い所業、あまりにもやり過ぎだ。このままでは彼が人殺しになってしまう。
とにかくこの力を奪う腕輪を外そうと思い手首に手を伸ばすけれど、鍵がかかっているようでびくともしない。どうしよう、と周りを見回すと、叩き付けられ砕けた床の傍に銀色に光るものがあった。
這って行き見てみると、糸杉千景が私たちに見せたこの部屋の出口のものとは違う小さな鍵が落ちている。一か八かその鍵を鍵穴に差し込んでみると、カチと音を立てて腕輪が外れた。
「取れた……!」
外れた瞬間、今まで動かせなかった体が嘘のように軽くなる。撃たれた肩を押さえながらよろめくように立ち上がり、二人の元へと駆け寄った。
「夜久さんもう止め――ッ!?」
ようやく見ることが出来たその横顔に声を失う。
一見無表情だけれども、蒼白になった顔と浮き上がった青筋。彼の怒っている顔はこれまでにも何度か見た。でも今の彼の顔を支配している感情は、怒りではなく――殺意だ。
似ているようで全く違う。前世の記憶が戻る前の私だったら、きっと分からなかっただろう。
そして一際私の目を引いたのは、彼の瞳の色だった。
夜のように真っ黒だった彼の瞳は今、その半分以上が別の色に侵食されている。
その色と同じ仄暗く鈍い光を放つ彼の目は、狂人のそれと同じと言っても過言ではなかった。
その目を見て確信する。
今糸杉千景を痛め付けているのは、決して彼自身だけの意思ではないのだと。
「夜久さんもういい、もういいですから、止めてください!!」
糸杉千景を掴んでいた腕にしがみつく。ちらりと見えた糸杉千景の顔は真っ赤に染まり潰れていて思わず目を背けてしまった。
「これ以上は死んでしまいます……!」
「死んでもいいじゃねえか、こんな奴」
「……!」
憎々し気な視線がこちらを貫く。その黒と銀が入り混じった瞳に心臓が縮み上がりそうになるけれど、怯んでなるものかとしがみつく腕に力を込める。
「私だって憎いですよ。この人のせいで、前世でも、今世でも……酷い目に」
この人が魔晶族から魔素を抽出する技術さえ開発しなければ、きっと戦争なんて起きなかった。同族を無理矢理戦わせることなんてしなくて済んだ。自分の理想の王で在り続けられた。
なのに生まれ変わっても、魔晶族の尊厳を踏みにじり続けている。私を標本にするなんて馬鹿げた理由で兄さんが巻き込まれて、酷い目にあっている。
憎いと思う。許せないとも思う。死んじゃえばいいのに、と思わないと言えば嘘になる。でも――
「でも、いくら憎くても……殺すのだけは、駄目です。本当にやむを得ない状況以外で、もう、その手を血に染める必要なんてない」
「……この手を放せ」
「ッ……貴方が、放しなさい……!」
撃たれた痛みで荒くなる息を飲みこんでそう返した刹那――私の視界は天井を向いていた。頭上には冷たい目をした夜久さんが、こちらを見下ろしている。
「いつから俺様に偉そうに命令出来るようになった?」
「うああッ……!?」
撃たれた部分をぐりぐりと踏み付けられ、あまりの痛みに体が勝手に暴れる。それでもどうにかこちらを見下ろす相手に意識を向けると、
「夜久さんはっ、本当に、人殺しがしたいんですか……!?」
夜久さんの目はまだ完全に前世のものにはなっていない。ならまだどこかに彼の意識があるはずだ。力じゃどうやったって私は彼には敵わない。ならもう後自分に出来るのは、言葉で訴え続けることだけだ。
「物騒なことはしないんじゃなかったんですか!? 思い出してくださ……あああッ!?」
再び傷口を踏み付けられ、痛みで私の口からは悲鳴が漏れる。もはや息を吸うのもままならず、生理的な涙が流れた。
「黙れ……すっかりアイツに絆されやがって……」
「……?」
ドスの利いた低い声。そこにわずかな震えが混じっているのに気がついて思わず彼の顔を見上げる。
そこには苦々しく大きく表情を歪ませ、耐えるように息を詰めた夜久さん――クレイヴォルが私を睨みつけていた。
「アイツの考えがそっくり俺様の考えであるなどと思うなよ……」
「え……?」
私が言葉を発する前に、クレイヴォルは糸杉千景を持っていない手を振り上げる。きっと私に攻撃でもするつもりなんだろう。
クレイヴォルのことだ、きっと自分の機嫌を損ねた私の息の根を止めるか、二度と抵抗出来ないように痛め付けてくるに違いない。相手が私でも遠慮をしてくるような相手じゃない。
だから、逃げるべきなのに。魔法でも何でも撃って抵抗すべきなのに。彼の今の言葉が胸の中でぐるぐると渦巻いて、体が動かない。
ただギュッと目を閉じて、手が振り下ろされるのを待つしか出来なかった。
そしてドスッと何かが突き刺さる音がする。
「……?」
なのに私の身体には何の衝撃も感じない。
不思議に思った瞬間、私の頬に落ちてくる生温かい水滴。思わず頬に手を伸ばすと、ぬるりとしたものが手に付着した。
そこでようやく目を開く。最初に見えた自分の手は、指先が赤く染まっている。それが血であることはすぐに分かったけれど、右肩以外どこも怪我していないのに一体どうして――
「ぐ……ッ」
頭上からした呻き声にハッと我に返る。
そこでようやく私は、たった今まで自分を痛め付けていた相手を見上げた。
「あ――」
私に振り下ろそうとした手にはいつの間にか黒いナイフが握られており、ナイフには見にくいけれども液体が付着している。そしてもう片方の糸杉千景を掴んでいた腕は――真っ赤に染まりボタボタと血が滴り落ちていた。その血の一部が私の方に来ていたみたいだ。
「なっ……!?」
思わず声を上げた瞬間、彼の両手から力が抜け、ナイフと糸杉千景の身体が床に落ちた。ナイフは落ちたと同時に消滅し、糸杉千景の方は呼吸はあるから生きてはいるのだろうけれど、気絶しているのか起き上がる様子はない。
そのまま目をぎゅっと閉じたままよろよろと後ろに下がった彼は、真っ赤に染まった――恐らくは自分で付けたであろう腕の傷を押さえて膝を付いた。
「ぐうッ……はあっ、はあっ、はあっ」
全身から冷や汗を流しながら肩を上下させて何度も荒い呼吸を繰り返す。しばらくして落ち着いたのか閉じていた瞼を開いて立ち上がった。
彼の瞳は、元の黒に戻っていた。
「あ……」
彼は床に倒れている私たちを、そして砕けた床や壁、血痕の付いた壁を見て、さあっと顔を青くする。
「み、三縁、殿……」
すぐに覚束ない足取りで私の所まで来ると、踏み付けられる前よりも血の滲みの広がった私の肩に触れようとして――ハッとしたように手を引っ込めた。そのまま尻餅を着くように後ずさって、無茶苦茶に頭を掻き毟る。
「……ッ申し訳ありません……申し訳ありません……!!」
傷付いた、今にも泣き出しそうに苦悶するその表情はとても見ていられるものではない。
慌てて大丈夫だと伝えるけれど、彼は壊れたラジオのように何度も何度も謝罪の言葉を繰り返すだけだった。




