83.制限下の攻防【♡】
刹那見えたその光景は、まるで部屋一面に黒水晶が群生しているかのようだった。
足元から飛び出した無数の影の杭に貫かれ、三十体はいた魔晶族の模造品の全てが一瞬で砕け散る。杭は模造品が形を失い、影も失ったことですぐに消えてしまった。砕けた模造品の破片がシャンデリアの光を受け、キラキラと輝きながら舞い、床へと散らばる。
しかし、散らばった破片はすぐに動き出す。
まるで生き物のように集まっていき、あっという間に元の狼の姿に戻っていった。たださっきよりも、一体一体が大きくなった代わりに数は半分に減っている。
ふと、落とし穴の先の部屋でも四体の模造品が共食いをして一体の大きな個体になっていたのを思い出した。
「……さっきのと同じ能力持ちですか」
私の影の中でその光景を見ていた夜久さんも気がついたようだ。
私たちに威嚇する一回り大きくなった模造品を見つめ、ですが、と続ける。
「いくら再生しようが融合しようが、壊し続ければ済むことです」
その言葉と共に、再び足元から生えてきた黒い杭が模造品を粉々にした。
周りを舞う破片を見回しながら、糸杉千景は焦る様子もなく、面倒くさそうに目を細める。
「本っ当、相変わらず厄介な異能だよね」
「分かっているのであれば、せめて部屋を暗くしておくべきでしたね」
夜久さんはそう言いながら、再度融合し始める模造品を完全な狼の形になる前に破壊する。この調子でいけば、融合し続けて最後の一体になったとしても、簡単に倒されてしまうだろう。
仮に部屋を暗くして夜久さんの異能の力を弱くしたとしても、私の魔法で部屋を照らせば済む。こちらが圧倒的有利であることには変わりない。
しかし糸杉千景はニヤリと笑い、
「そんなの必要ないよ、だって――」
手に持っていたスイッチに付いているもう一つの青いボタンを押した。その瞬間、
バキッ
「え……?」
手元から鈍い音がする。
それは手に持っていた仮面からしたもので、思わず見ると仮面の真ん中に大きなヒビが入っていた。
「……?」
けれども、それだけだ。ボタンを押したからといって特に何も変わった様子はない。
訳が分からず仮面を見ていると、前方から声がかけられる。
「へえ……その仮面、何か細工がしてあったみたいだね」
「何ですって?」
糸杉千景の言葉に再び仮面に視線を向けると、仮面に入っていたヒビが枝分かれしていき粉々になってしまった。床にバラバラと落ちていく仮面を見て、考える。
確かに何か魔法がかけられているのは見て分かったけれど、単に監視カメラに映らないようにするための魔法じゃなかったの……? 侑里先輩は一体何の魔法を……、
「実は今のボタンは、この部屋にいる俺以外の人間に呪いがかかるようになっててさ」
続けられた言葉にぎょっとして顔を上げる。
「の、呪い!?」
「八千代はその仮面に肩代わりされちゃったけど……ま、そっちにかかれば十分か」
「……!?」
そっちって――
夜久さんの方を見ると、彼も何かされたことを察したのか自分の身体をまじまじと見つめて確認していた。慌てて声をかける。
「大丈夫ですか!? 何かおかしなことは」
「この感覚は……」
そう言いながら手を握ったり開いたりしながら少しの間自分自身を観察する。
そしてはっとしたような顔になったかと思うと、さっきと同じように手を前に出して苦々しい表情になった。
「なるほど、そういうことですか」
「一体何が」
「異能が使えなくなっています。恐らく魔法の方も駄目でしょうね」
「!?」
まさか、呪いというのは――
一瞬で浮かんだのは、昼間紫藤薫子に投げつけられた呪術が込められた球だ。
あれも短い間だったけれど、異能と魔法が使えなくなった。侑里先輩曰く、空気中の魔素を遮断するもの……だったはず。
もし今回の呪いも、あれと同じ類のものだったとしたら――ああ、だから仮面に呪いを無効化する細工が出来たんだ。先輩は奪った球を見てあの呪術の仕組みを何となく理解出来ているみたいだったから。
「あはは、八千代一人でこの数を相手に戦える? そいつを庇いながらさあ」
そう言って笑う糸杉千景の周りには、夜久さんに破壊されて数は減っているけれど、その分大きく強くなった模造品が……十体。さっき戦ったのと同じなら、これらを破壊しても多分最後の一体になるまで融合を続けるだろうし、最後の一体は限界まで再生し続ける能力持ちだ。厄介過ぎる。
一気に窮地に追い込まれ、歯を食いしばる。
私も魔法は使えて後五、六発程度だ。道中で消耗しているしとても倒せるようなコンディションじゃない。
でも、一旦引いて体勢を整えるにも相手にそんな隙はないし、来た道もいつの間にかシャッターが下りていて引き返せなくなっている。
落ち着いて。今回の一番の目的は、兄さんと夜久さんの弟を助け出すことだ。
なら――
「……夜久さん」
意を決して口を開く。
かなり無謀に近いけれど、これが一番最善のはず。
「模造品の相手は私がします。夜久さんは――」
「いいえ」
しかし、私が何を言おうとしているのか最初から分かっていたかのように、彼は私が言い終わる前に首を横に振った。
「俺がここに残って彼らの足止めをします。貴方が先にお兄さんの所へ行ってください」
「えっ」
ぎょっとして目の前の相手を見上げる。相手の顔は真剣そのものだ。
「だ、駄目ですよ、そんなの」
魔法を何発も当てないと倒せない相手を十体も一人で相手するなんて、私が残る以上に無謀だ。
「貴方もあれら全てを倒せるほどの魔法は出せないでしょう。弱い魔法でも使えて後五発程度では」
「っ……それは」
慌てて反論しようとするけれど、すぐに相手に言い返されて言葉に詰まる。
私の限界を完全に見透かされている。
彼の……正確には前世の彼の強さはよく知っている。それでもその強さを制限された状態で一人この場所に置いていくのは憚られた。
「無駄だよ」
すると、そんな私たちを面白そうに見ていた糸杉千景が口を開く。さっきの怒った夜久さんに冷や汗を流していたのが嘘だったように、その顔には完全に余裕が戻っていた。
「この部屋全体に抗魔法をかけてるからね、魔法じゃ出口どころか壁も床も天井も破壊出来ないし、出口には鍵もかかってる。お前たちはこの部屋に閉じ込められたんだよ」
「……っ」
言っていた通り、彼は私たちに備えて本当に周到に準備していたみたいだ。先に兄さんたちを救出するという手段が取れない……どうあっても二人で彼らを相手しなければいけないんだ。
相手は持っていたスイッチをポケットにしまい、別のものを取り出す。
「もしこの部屋から出たければ――俺からこの鍵を奪ってごらん」
そう言って見せてきたのは小さな銀色の鍵だった。
それをしばらくぷらぷらと揺らした後、またポケットへとしまう。
それをじっと見ながら、夜久さんは私の名前を呼んだ。
「本当にここから出られないのであれば、俺が模造品を引き付けている間にどうにかこの状況を打破していただきたいのですが……出来ますか」
「大丈夫なんですか。丸腰であれ全部を相手するなんて」
「魔法や異能など無くとも戦えます……それに、」
そこで一度話すのを止めると太い眉を八の字に下げ、
「貴方に異能や魔法に頼り過ぎだと説教しておきながら、俺が何も出来ない姿を見せるわけにはいかないでしょう?」
少しバツが悪そうに笑いながら、そう言った。
――いいですか、そもそも貴方は前世から魔法と異能に頼り過ぎなのです! もしどちらも通じない相手に出会ったらどうするつもりなのですか!?
出会ったばかりの頃に言われた言葉を思い出す。
今思えば、あれはこの状況への盛大な前振りだったのかもしれない。
分かってはいるのだ。彼が、魔法や異能なしでも十分に戦えるだろうということは。
ただ前世と今世ではあまりにも身体の作りが違い過ぎるから、今の身体で上手く動けるのかとか、体への負担とか……その辺りが心配なだけなのだ。
でも、今はそんなことを考えられる状況じゃなかった。
私が心配していたようなことは彼も最初から承知の上なんだろう。私が最初無謀にも一人ここに残ろうとしていたように。
この部屋に閉じ込められてしまったのなら、彼の力を信じるのなら、彼の提案で行くのが一番良い。
覚悟を決め、夜久さんを見上げて小さく頷いた。
「気をつけてくださいね」
「貴方も。自ら鍵を見せた上にあの余裕顔……恐らくまだ手の内を全て見せていないはずです」
「……はい」
言葉通り余裕綽々とこちらを見ている糸杉千景をちらりと見て、そう囁く。
それは私も感じていたことだ。
魔法が使えなくとも私たちが脅威であることは変わらないはず。なのに全く焦っている感じがなくて、多分まだ何か隠し玉があるんだろう。言いようもない不安感が胸の中を渦巻いているけれど、どの道兄さんたちの所に行くには彼をどうにかするしかない。
「鍵を奪うなり無力化するなり、どうするのかは貴方にお任せします。……では、俺は行きます」
その言葉を最後に、瞬きする間もなくその場から夜久さんが消えた。
同時に響く、破壊音。
見ると、夜久さんが模造品の一体に上段回し蹴りをお見舞いしているところだった。傍には上半身と下半身が分断された別の模造品が転がっており、今の破壊音はこれだと理解する。
完璧なフォームで繰り出された蹴りは模造品の頭に直撃し、そのまま胴体から吹き飛んでいった頭部は、壁に叩き付けられて粉々になった。
「はああああああッ!!」
すぐに融合し始める模造品には目もくれず三体目の模造品に飛びかかる。声を上げながら突き出された手刀は、いとも簡単に相手の胸を貫いた。
「チッ……遠慮なんかして勝てる相手だと思うなよ! 全力でやれ!」
その声に模造品の動きが一気に統制の取れたものになる。どうやら彼の命令には素直に従うようだ。吠え声を上げながら飛びかかる模造品を、夜久さんは顔色一つ変えずにあしらっていく。
その動きには一切の無駄がなくて鮮やかだ。今の身体だと上手く動けないかもしれないなんて、私の心配は杞憂だったみたいだ。
さあ、私も行動しなくちゃ。
夜久さんに気を取られている隙を見て、糸杉千景に光弾を放つ。しかし、
「……え!?」
なんと、光弾は突然軌道上に割り込んできた模造品の一体に当たってしまった。
どうして、たった今まで夜久さんの方にいたはずなのに。
今の攻撃でこちらに気づいた糸杉千景がニヤリと笑う。
「こいつらが最も優先するのは俺の身の安全。たとえ別の命令が下されてても、俺の身に危険が迫った瞬間にその危険の排除に動く」
今の光弾は、糸杉千景を気絶させる程度の弱い威力のものだった。人間の意識を奪うことは出来ても模造品には全く聞いておらず、当たった胴体がわずかに焦げている程度でぴんぴんしている。
一発、無駄撃ちしちゃったな、と思う間もなく糸杉千景を守った模造品はそのまま獣と変わらないスピードで私に飛びかかって来る。
「おい、八千代に傷は付けるなよ」
次々に来る模造品の攻撃をかわしていると、そんな言葉が耳に入ってくる。途端に、魔晶族の攻撃が止み、あくまでも私を妨害するような動きに変わった。
ああ、むかむかする。
目の前の狼がこの人に作られた模造品であることは分かっているのに、まるで魔晶族が彼に良いように扱われているように見えて、とても気分が悪い。
それを無理矢理飲み込んで、考える。
異能を使う方法もある。魔法を使わずとも頭に触れられさえすればこっちのものだ。ただ……何となくだけれど、今の彼に触れてはいけないような気がするのだ。理由は私にも分からない。ただの直感だった。
光弾は放ったところで今みたいに模造品に防がれてしまうだろうし、魔法を撃てる回数も限られている中無暗に撃ちたくはない……けれど、この目の前の模造品を引き離すには、魔法無しでは難しい。仕方がない、ひとまずは破壊して時間稼ぎを――
手を前に出した瞬間だった。
突如視界の外から現れる、別の影。
はっとしたのも束の間、融合を繰り返したのか目の前の模造品よりも一回り大きいそれは、今私が破壊しようとしていた模造品を巻き込んで飛んで行った。
壊れたテーブルにもたれるように倒れた二体を呆然と見ていると、パン、パン、と手を叩く音がする。
「余所見はいけませんね、貴方の相手はこちらでしょう?」
少し離れた場所で目を細めて二体を見ている夜久さんに、ひくりと口元が引きつった。
もしかして、あの模造品を投げ飛ばしたの? あの巨体を?
確かに前世の力を得た影響で腕力は上がっている。それでも鉱物でできたあの大きくて重そうな体をあんなに軽々と投げつけるなんて。
傍には今吹き飛ばされた二体よりもさらに大きな模造品が二体。私が小さな一体に手こずっている間に、彼はここまで数を減らしてしまったらしい。
おかげで今糸杉千景の周りに邪魔者はいない。夜久さんが他の模造品を相手してくれている間に、二体が起き上がって来る前に、私はもう一度糸杉千景に向かって光弾を放った。
「チイッ……!」
飛んで来る光弾に向かって相手も舌打ちしつつも手を前に出す。
「厄落とす拒絶の砲!」
手から飛び出した空気の塊は、光弾とぶつかり相殺された。
その間に私は走り出す。予想通り起き上がった模造品が立ちはだかったが、それを無視して部屋を駆け回った。
そうしたのは、今の魔法である疑問と仮説が芽生えたからだ。
この部屋全体に施されているという抗魔法。確か樫山さんにかかっていた呪いの中にもあったはずだ。さすがにノエル・ラクール式呪術とは別物だろうけれど、高度なものであるのは間違いない。しかも空気中の魔素を遮断する呪いとの重ね掛けだ。相当な魔法・呪術の腕がなければ出来ないはず。
でも今の魔法を見る限り、彼にそこまで優れた魔法や呪術の腕があるようには思えない。
今放った魔法も名前だけカッコいいけれど、中身はただの空気の塊だ。一般人相手であれば相当なダメージを与えられるだろうけれど、ルカ……蓮水先輩のものと比べてあまりにも弱すぎる。
なら、どうやってこの環境を作り上げたのか?
次に浮かんだのは、彼が今日明迅学園で起きたことを誰からも知らされてなかったということだ。首謀者が、今回の本来のターゲットである陽菜さんが私たちと接触したことすら彼に連絡していないのは明らかにおかしい。
首謀者は糸杉家の当主の孫らしいけれど、多分明迅学園の生徒だろうし昼間の一件を知らないとは思えない。それに彼とのやり取りを思い返しても、首謀者は計画の流れの説明と必要最低限の指示だけして後は全部彼に任せているように見えた。
もしかして――
首謀者は彼に敢えて何も言わなかった……?
そんな馬鹿なとは思う。でも一度そう思い至るとそうとしか考えられないのだ。
首謀者が何を考えてこんな計画を立てたのかさっぱり分からないけれど、もし今回の首謀者の目的に糸杉千景を陥れることも入っていたとしたら。この呪術の施された部屋を作ったのがその首謀者だったとしたら。
……多分、魔素遮断も抗魔法も、解除する方法がある。首謀者はわざと解除出来るようにしている。
部屋を駆け回りながら、怪しいところがないか探す。
呪いのかけられた樫山さんの身体にも、紫藤薫子が持っていた呪いの球も、どちらも魔法陣や不思議な模様が付いていた。それらに似たものがこの部屋にもないだろうか。
「アハハハ、何してんの? 走り回ったってどうにもなんないよ? おい、お前! 八千代を捕まえろ!」
楽しそうに糸杉千景が叫ぶ。
見ると模造品は二体にまで減っていた。けれども、その大きさは私が落とし穴の先の部屋で戦ったものと同じ再生能力を有する形態になっている。その一体を夜久さんが相手にしており、壊しても壊しても再生する相手にやはり手こずっているようだった。
糸杉千景の命令で、もう一体が私を捕らえようとこちらへ猛スピードで向かって来る。
今の形態はさっきと違って強さも上がっているのか、夜久さんはもう一体まで相手に出来る余裕はないみたいだ。
形態が変わって二足歩行になったことで両腕を使えるようになった模造品は、私に覆い被さろうと両手を広げて飛びかかる。それを飛び退くようにかわすと、模造品は並べられていた机の一つに飛び込み机が宙を舞った。
「――あ」
倒れた机の裏側にあったのは、チョークで描かれた魔法陣。
確証のない賭けのような予想だったけれど、正しかったみたいだ。すぐに机の所まで行くと、マントで擦って魔法陣を消し、飛びかかってきた模造品をかわしながら叫んだ。
「夜久さん! 魔法は使えますか!?」
「――!」
私の声に反応した彼は、手を前に出す。するとソフトボールほどの黒い球体が現れ、相手にしていた模造品の腕を吹き飛ばした。それを見た彼はこくりと頷く。
「まだ制限はされていますが……行けます!」
本調子ではないが使えるようにはなったらしい。どうやら魔法陣は一つだけじゃないみたいだ。
彼が完全に魔法や異能が使えるようになれば、この部屋にいる魔晶族を倒すのは苦労しないだろう。私にはこの模造品を倒せるほどのエネルギーは残っていないし……、
……ならば私を捕らえようとする模造品から逃げつつ、糸杉千景を攻撃する隙と夜久さんの力を制限している魔法陣を探せばいい。
方針が決まれば後は早い。部屋中にあるあらゆる家具をひっくり返す。
カーペットの下の床。
壁にかけられていた絵画の裏。
飾られていた大きな壺の底。
案の定あらゆる場所に同じ魔法陣が描かれており、それを消したり壊したりして消していく。
途中何度か糸杉千景を狙ってみたけれど、やはり糸杉千景の身の安全が最優先なのは本当なのか、手を向けた瞬間に間に割り込まれて上手くいかなかった。
けれども、私が魔法陣を消すごとに夜久さんの力は解放されていく。
それに伴って糸杉千景の顔に少しづつ焦りが生まれてきていた。
そして遂に、カーテンに隠れたステンドグラスにマジックで描かれていた五つ目の魔法陣を椅子で窓を割ることで消す。
同時にもはや夜久さんのサンドバックと化していた模造品の足元から黒い杭が飛び出した。
その影の杭によって夜久さんが相手をしていた模造品は完全に破壊され、破片となって床に散らばった。
見る限り夜久さんの力は完全に戻っている。これで後は糸杉千景を守っている模造品だけ。ここまで来れば――
この時の私は、夜久さんが破壊した模造品に完全に気が逸れていたのと、魔素遮断の呪いを解いたことで安心してすっかり油断してしまっていた。
だから、模造品以外に私を狙う影が迫っていることに気がつくのに、ワンテンポ遅れてしまったのだ。
「ああもう、仕方ないな」
どこか投げやりな声にパァン鳴り響く銃声。
同時に右肩がカッと熱くなる。
「え……?」
夜久さんが焦ったように私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
熱を持った右肩を見ると、真っ赤な血がだらだらと流れ落ちていた。それを呆然と見つめ、顔を元に戻すと、糸杉千景がぎらついた目でこちらに銃口を向けていた。
「このまま逃げられるくらいなら、」
「う……くっ」
少し遅れて来た激痛に、思わず肩を押さえて膝を付く。
痛い。痛い。銃で撃たれるってこんなに痛いんだ。
でも、苦しむ顔をこの人に見せたくない。痛みで息が荒くなりながらも、負けるものかと精一杯相手を睨みつける。
「三縁殿!」
「邪魔をするなよ!」
こちらに来ようとする夜久さんの前に、最後の模造品が立ちはだかる。彼はすぐに影の鎖で拘束するけれど、その間に糸杉千景は私の目の前まで来ていた。
逃げようとする私の腕を掴み、抵抗する間もなく鮮やかな手つきで手首に腕輪のようなものを取り付けられた。
「な、にを……ッ!?」
ごつい金属の手錠に似た腕輪。それを付けられても本能からか体を捻らせて抵抗していたけれど、突如全身を強烈な脱力感が襲う。
体に力が入らない。痺れ……とは少し違うけれど、体の感覚が鈍くなっている。彼は一体私に何を。
「それ以上動いたら、八千代がどうなっても知らないよ」
そう言って糸杉千景は私のこめかみに銃口を突きつける。その言葉に彼を拘束しようと手を向けようとしていた夜久さんの動きが止まった。苦々しく顔を歪めて糸杉千景を睨んでいる。
こうなったのは命令以外に何もしてこない糸杉千景に油断した私の落ち度だ。ああ、また足を引っ張っちゃてるや。
「わ、たしのことは、きにしないで。このひとを、とめて、あ、がっ」
もう魔法陣は全部消した。今の夜久さんなら彼をどうにでも出来るはず。
けれども私の声は、最後まで言い切る前に許さないと言わんばかりに喉仏に指を差しこまれることで止められた。
息が出来ない。
糸杉千景の指一本で気管が塞がれている。苦しくて腕を掴んで暴れようとしても、体に力が入らずびくともしない。無様な姿がおかしいのだろう。糸杉千景の瞳がゆっくりと細められる。
「本当は傷なんか付けたくなかったけど」
酸素を求めて開いた口から涎が垂れる。その涎をもう一本の指がすくい、口の中に入ってくる。
気持ち悪い。抵抗したいのに、体に力が入らない。
「でも俺が付けた傷って思えば案外悪くないかもなあ」
そう続けて糸杉千景は右肩から流れ続ける血をうっとりと眺めた。
ずるりと侵入してきた彼の指。歯列をなぞってくる指を押し返そうとすれば、舌を潰された。そのまま弄ばれぐちぐちと気色悪い音が耳に響く。
「ん、う……っ」
私は、この人を克服するために来たはずだ。彼の亡霊を振り払って、彼の知る私から変わるために。なのに、何で私はこの人に辱めを受けているの。
「止めなさい……」
私たちを見る夜久さんの声が震えている。
そんな苦しそうな彼を、糸杉千景はにやにやしながら見ていた。
「う……んっ、あ、あ、んぐ」
指は相変わらず私の口内を動き回り、時折指で舌を挟んで無遠慮に引っ張られる。
気持ち悪い。
彼の指も、自分の意思じゃない鼻につく声も、何もかもが気持ち悪くて目頭が熱くなる。なのに口は酸素を求めて開いてしまうのだから、容易く彼の指を受け入れてしまう。瞳に溜まった涙が溢れて頬を伝っていく。噛もうにも力が入らず抵抗も出来ずに涙を流すことしか出来ないのが、悔しくて、悔しくて、たまらない。
しばらくして、指はそのままに無理矢理顔を上げさせられる。
「へえ、まだそんな目をする気力が残ってたんだ」
だってここで心を折るわけにはいかないもの。
ここで諦めたら、兄さんだって助けられない。蓮水先輩に謝ることだって出来ない。何より私のために手を貸してくれた侑里先輩や樫山さん……ここまで一緒に来てくれた夜久さんの厚意を裏切ってしまう。
突如指が口から引き抜かれる。解放された舌はビリビリと痺れ、勢いよく入ってきた酸素にむせてしまった。
「――そうだ」
苦しさに顔を歪める私を見て、妙案を思いついたような顔をする。
「どうせ標本にするんだからさ、今ここでやっちゃってもいいよね?」
「え……っ?」
「……!?」
や、やっちゃってもいい……? それって、まさか。
思い当たるのは一つしかない。
でもどうして。彼が私に抱いているのは物としての独占欲で、そういった欲は一切なかったんじゃ。
「自分が付けた傷なら悪くないことが分かったからさあ、なら花を散らしてもいいかなって」
「や、やめて……いやだ」
「すぐに何も感じなくなるんだよ? なら最後くらい……」
そう言いながら彼の手が私の胸を掴んでくる。その触れ方のあまりの無遠慮さに嫌悪感で体を捩るけれど、抵抗する体を無理矢理押さえつけてきた。
嫌だ。ただでさえ辱めを受けているのに、これ以上されるなんて。嫌だ。気持ち悪い。
暴れるけれども抵抗虚しく、糸杉千景の手はマントの下をくぐりジャージのジッパーに手をかけようとした、その時。
突如、息が出来なくなる。
周囲の空気から酸素だけが消えてしまったかのような、そんな錯覚に陥った。
「おい」
地を這うような声が聞こえたと思ったら、ざっと疾風が駆け抜けて、糸杉千景をさらう。一拍後に響いたのは、酷い破壊音だった。
私を掴んでいた腕が離れ重力のまま床に落ちた私は、力の入らない身体を無理矢理動かして目の前を飛んでいった男がいる方に体を向けた。
壁が凹み、ひび割れている。
この部屋は魔法で破壊出来ないようにはされていたようだけれど、物理ではそうでもなかったらしい。その壁の凹みの真下に、壁に叩き付けられた糸杉千景がずるずると床に倒れていくのが見えた。
そんな彼の前に、私に背を向けて夜久さんが立っている。その身にとてつもない殺気を纏って。
「や、どめ……さん……?」
私の声は、きっと今の彼には届いていない。
小さく呻き声を上げながら身を起こした糸杉千景の前には、既に彼の大きな手が迫っていた。
「ッ……アッ!?」
そのまま胸倉を掴んで引きずり上げられ、間近で彼の顔を見た糸杉千景の顔が恐怖に染まった。パクパクと水を求める魚のように口が動いている。
そして、夜久さんの口から飛び出したのは――
「あまり調子に乗ってんじゃねえぞ、この下種野郎が」
初めて聞く――でもあまりにも聞き覚えのある声色と言葉遣いだった。




