82.因縁は連鎖する【♡】
張り詰めた空気の中、この空気に合わないのんびりとした声で糸杉千景は口を開いた。
「俺もさ、実はずっと違和感があったんだよねえ」
そう言って目を細めながら私を見つめる。
「初めて八千代を見た時さあ、俺の中で何かがビビッと来たんだよ。とにかく目が離せなっくてさあ、他の誰の目にも八千代を映させたくなくって……あーこれが恋なのかあって思ったんだ。だからもっと知りたくて積極的に話しかけたし、八千代からの心象を良くするために誰にも分け隔てなく接して、完璧な優等生みたいに振る舞ったんだ」
彼の言う通り、当時の彼は顔も良くて、スポーツも出来て、性格も明るくて、誰とも分け隔てなく接することが出来て……どこを探しても非の打ちどころがない人だった。告白されるまでは私だって、彼に対して嫌な感情は一度も感じたことはなかった。
「でも、八千代と話しているうちにこれがただの恋愛感情じゃないことはすぐに分かったよ。普通はさ、好きな人が笑ってたら嬉しいし、泣いてたら悲しいし……そうやって相手の反応一つ一つに一喜一憂するものでしょ?
俺はさ、八千代の笑った顔を見ても嫌がる顔を見ても、なーんにも感じないどころか邪魔だなあって思ってたんだよね」
彼の本性に気づく前、まだ普通に話していた頃を思い出す。
少なくとも、あの時は楽しかった。気兼ねなく話しかけてくれて、私の言葉一つ一つに楽しそうに向き合ってくれて……それを私だけでなく誰とでも出来る彼のことは人として好感を持っていた。
なのに、あの笑顔の裏でそんなことを思っていたなんて。最初から、全部偽りだったなんて。
思わず口元を押さえる。吐き気にも似たそれは、肺の辺りにぐるぐると溜まって、中の空気を酷く圧迫した。
「それでも俺はアタックし続けたよ……その気持ちの正体が何であれ『八千代が欲しい』って気持ちは紛れもなく本物だったからね。そして前世の記憶が戻って、やっとその正体が分かったんだ」
彼の爛々に輝いたアンバーの瞳が不気味で、ごくりと気持ち悪さと一緒に唾を飲み込む。けれども、その目を逸らすことだけはしたくなかった。
「俺はね、別に八千代と恋人になりたかったわけじゃなかったんだ。
八千代のその美しさを永遠のものにして、自分の目だけが届く場所で眺めていたかっただけなんだよ」
彼の言っていることが分かるようで、分からない。何よりさっきの夜久さんの問いの答えになっていない。ただ同じような台詞を繰り返しているだけだ。
同じことを思ったのか夜久さんも訝し気な顔で相手を見つめている。
「気がつけなくても当然だよねえ、永遠なんてもの、どこにもありはしないんだから」
そんな私たちが見えているのかいないのか、彼の自分語りは止まらない。
「まして今の八千代は人間だし、どんなに美しかろうが老いには絶対勝てない……でも、今の俺だったらそれくらいどうにでも出来ちゃうんだよね」
その言葉と共に向けられた、仄暗い笑みにぞわりと鳥肌が立った。
この場所に来てから聞いた彼や夜久さんの言葉が次々と浮かび上がってくる。
――三縁殿を『物』として見ていませんか?
――俺は八千代の笑った顔を見ても嫌がる顔を見ても、なーんにも感じないどころか邪魔だなあって思ってたんだ。
彼は私を物として見ていて、笑った顔や嫌がる顔――表情が、つまりは感情が、邪魔?
「――っ!?」
その瞬間私の頭の中に一人の人物が浮かび、ひゅっと喉が鳴った。
とても、とても嫌な予感がする。
「何を、するつもり……!?」
震える声で言い返すけれど、既に私は彼が何をしようとしているのか分かってしまっていた。
「八千代もさ、その美しい姿が老いて朽ちていくのは嫌だろ? 俺なら永遠にその姿のままにしてあげられる。八千代の美しさに邪魔なものだって、全部無くしてあげられるよ!」
「絶っ対、嫌……!」
震える腕を無理矢理押さえつけて首を強く横に振る。
まるで私がそうなることを望んでいるかのような態度に、恐怖心がぶわりと湧き上がるのを感じた。
「どうせ私にも同じことをするんでしょ!? さっき言ったみたいに脳を機械にでもするの!? それともマリー・カレンデュラみたいに、感情を奪うの!?」
もし、彼の望み通りにされてしまったら――あんな淀んだ目をした、人形みたいな姿になってしまう。
あんな姿になるのだけは、絶対に嫌だ。
「!? 何……!?」
すると夜久さんが大きく目を見開いて私を見る。そしてすぐに糸杉千景の方に視線を移すと、一瞬の間を置いて口を開いた。
「まさか、カレンをああしたのは……」
「ああ、俺だけど?」
脳を機械化した時点で彼がそういった技術を持っていることは分かっていた。薄々はそんな予感はしていたけれど、今のではっきりした。
サーシス王国と魔晶族の間に戦争が起きるきっかけを作っただけじゃない。マリー・カレンデュラから感情を奪ったのも、前世のこの人だったんだ。
「なるほど」
あっさり肯定しつつも他人事のような態度の彼に、夜久さんの表情が一変した。
「そうですか、貴方でしたか」
夜久さんの怒っている顔は、道中にも何度か見た。
でも今の彼の顔はこれまでの比じゃない。
顔は赤を通り越して青くなり、瞳孔は見開かれ、そこには『憎悪』と呼ぶに相応しい炎が燃え上がっていた。
「おいおい、そんな怖い顔しなくてもいいだろ? 俺にキレるのはお門違いってやつだよ。マリー・カレンデュラは国の命令に背いて前世のお前を殺そうとしてたんだからああなっても仕方ないじゃないか」
対して糸杉千景は悠然と構えているように見えるけれど、その顔は引きつり冷や汗が流れ落ちている。
それはそうだろう。今の彼の顔は、この施設に入ってから見てきたやくざの数倍は怖い。
「それにさあ、俺は今言われたどっちもするつもりはないよ。二人とも脳を弄ったけどさ、八千代の脳なんて、標本にするときに綺麗に取っちゃうし」
「ひょう、ほん……?」
思わず言葉を繰り返す。人形だとか、それ以上に信じられない言葉が飛び出して、一瞬頭が真っ白になった。
そして今の言葉の意味を頭の中で一巡させ理解した瞬間、喉を絞められたような感覚に陥った。
標本と聞いて思い浮かぶのは、博物館などで見る観賞用の昆虫標本だ。
彼に捕まったら最後、私はあれみたいに体中をピンで刺されてガラス張りの箱の中にしまわれて、そして……、
「言っただろ『永遠にする』って。感情どころか脳すら要らないよ……臓器は全部抜き取って防腐加工、うーんホルマリン漬けにするかミイラにするか」
私に向かってにこにこと笑いかけながら続けられた言葉は頭の中に入って来ない。
もし標本になれば彼の言う通り『永遠』にはなれるだろう。
でもそれは『三縁八千代の人生の終焉』であることに他ならない。
声が出ない。息が苦しい。
怖い。立ち向かわなくちゃ。逃げないと。逃げちゃ駄目だ。
相反する感情がぶつかって、結局私は震えたままつっ立っているだけだった。
そんな私を舐め回すように見て、彼は口元の笑みを深くする。
「ああでも今標本にするのはちょっと早いかなあ。髪も伸ばして、後ちょっとだけ発育してからじゃな――」
彼の言葉は最後まで紡がれることなく、バゴン! とすぐ傍で何かが砕けるような音にかき消された。
思わず音がした方を見る。夜久さんの足元の大理石の床が粉々に砕け散り、小さな穴が空いていた。
「もう、結構です」
夜久さんの地を這うような声が響く。
「俺たちは先を急いでいるのです。早くそこを退きなさい」
見ているこっちが震え上がりそうな表情でそう続けた彼に、糸杉千景は勇敢なのか虚勢を張っているのか、余裕を無くした顔をしつつも「はっ」と鼻で笑った。
「お前なんかさっさとどっか行けよ。千寿先輩がいない時点であいつの計画は破綻してるし、俺もこれ以上付き合う義理もないからね……あっ、八千代はここに置いてってね」
「あんなこと言われて残る人なんているわけないでしょ!?」
夜久さんが足で床を砕く音でいくらか正気に戻れていた私は、はっきりと否定する。
この人に標本にされるくらいなら、ルミベルナに恨みを持つ六天の転生者たちに殺された方がずっとマシだ。
「三縁殿、あの者の話など聞く必要はありません」
行きましょう、と言って私の腕を掴むと夜久さんは歩き出そうとする。そんな彼の行動に糸杉千景が黙っているはずがなかった。
「おい! 馴れ馴れしく八千代に触るなよ! 八千代はそこに置いてけって言っただろ!?」
今までの余裕のない顔はどこへやら、その眸をくわっと見開いて、私の腕を掴んでいた夜久さんの手を振り解こうとする。
そんな彼の手をもう片方の手で叩き落とし、夜久さんは冷たい目で見下ろした。
「俺には貴方の命令に従う義務も、彼女の意思に反した処遇を決める権利もない。それにもう、誰かの心が殺されるのを見るのは御免です」
睨み合う二人の間に火花が散っている。
少しの間を置いて、糸杉千景は私たちから二、三歩後ろに下がると、
「あーあ、やっぱ力ずくで手に入れるしかないかあ」
口元に歪な笑みを浮かべた。
「本当にやるのですか。数も力もこちらの方が上だと思いますが」
夜久さんの言う通り、力ずくになったところで彼が私たちに勝てるビジョンが浮かばない。
彼は前世では科学者だったのだ。戦場に出た経験はまずないし、魔力や魔法技術だって軍に所属していた人と比べれば落ちるはず。
懸念すべきは、彼の前世の技術をどう利用してくるかくらいだ。
夜久さんの言葉に、糸杉千景はニヤリと不敵に笑う。
「思い上がるなよ、本来の計画ならここでお前と千寿先輩を同時に相手にするはずだったんだ。前世でとはいえ両陣営の最強が揃い踏み……俺が何の対策も取ってないはずがないだろ?」
そう言って制服のポケットからいかにもといったようなスイッチを取り出す。それには大きな赤と青のボタンが付いていて、彼は赤い方のボタンを押した。
瞬間天井が開き、ドサドサと音を立てて――複数の影が落ちてくる。
「な……!?」
「……!」
それには見覚えがあった。
つい一時間近く前に、見たばかりだからだ。
息を飲んだ私たちに、相手はニヤリと笑った。
「ここに来るまでに一度見ているはずだよね?」
透き通った水色の身体の、角の生えた狼。
紛れもなく大広間から落とし穴に落ちた先で戦った、謎の魔晶族だった。
「まさか……これも貴方が?」
「そうだよ。どうだい? 魔晶族そっくりだろ?」
数えるだけでも三十はいるそれは、私たちをじっと見つめている。まるで、命令が下るのを待っているかのようだ。
あの時戦った後も、ずっと気になってはいたのだ。
魔晶族がこの世界に存在していたことも。
魔晶族には同一個体は存在しないはずなのに、大きさ、形、色、全てが同じ魔晶族がクローンのように複数体いたことも。
倒しても消滅せずに欠片となって残っていたことも。
そっか、あれは、魔晶族なんかじゃなかったんだ。
彼によって作られた、しかも生きた――どう考えても戦わせるための模造品だったんだ。
「前世の世界じゃ貴重な資源も、この世界じゃ潤沢にある。おかげで研究もはかどってここまで完成させられたよ」
彼の言葉を聞きながら、荒々しい風のようなものが私の中に満ちていくのを感じていた。それが意味をなさない声となって、口からこぼれ出る。
「……貴方は」
ようやく出せた声は、怒りに震えるのを抑え切れていなかった。
「魔晶族をエネルギー扱いするわ、兵器にするわ……どれだけ魔晶族を馬鹿にすれば気が済むの!?」
頭の中で平静を装おうとすればするほど、声色は荒くなってしまう。
ここまで腹が立ったのは初めてだった。
「怒るのは構わないけど顔に皺を付けないでよ」
こんな状況でも相手は私を標本にすることしか考えていないらしい。
「そう言われてもさあ、あの時は自分たち以外の都合とか考えられるような状況じゃなかったんだよねえ。生き残るために他種族の人権なんて考えるの無理だって」
「それは建前で、結局目的はルミベルナだったんでしょ!? ルミベルナも標本にしようとしてたの!?」
「そうだけど」
「――ッ!」
どこまでも他人事な彼にカッとなる。
さっきまであれだけ話が通じず頭のおかしいことしか言わない彼に恐怖しかなかったのに。今私の中にあるのは前世で、そして今世でも、私と私の周囲の人生を滅茶苦茶にした彼への憎しみだけだ。
どうやらトラウマというものは激しい怒りで克服出来るらしい。
思わず足が前に出そうになったけれど、
「三縁殿」
私の名前を呼ぶ声と一緒に掴まれたままだった腕をぐいっと引っ張られた。
「落ち着きなさい、無暗に近づくのは危険です」
「……っ、すみません」
握る手に力を込められて、少しだけ冷静になる。
そうだここで感情的になって取り返しのつかないことになったら目も当てられない。小さく謝ると、まだ治まりきらない怒りを歯を食いしばることで抑え、相手を見る。
「この魔晶族を作る研究は、元々自分たちで魔素を吸収する物質を作ろうとした延長なんだよね。まずは魔晶族の身体を構成している鉱物を調べて……」
彼は生まれ変わって完成させた自分の研究の経緯を伝えたいのか、ぐだぐだと語り続けている。
彼の話なんて本当は無視してさっさと先に進んでしまいたい。
けれどそれを一旦ぐっと抑える。
そうしたのは、彼の周囲に控えている大量の魔晶族の模造品が隙を与えてくれないのと、後は――彼の話すことを一応聞いておいた方がいいんじゃないか、という考えからだった。
私たちは今回の転生騒動の真実を明らかにしなくちゃいけないのだ。アイリーンの件といい今回の件といい横やりが入り過ぎているけれど、その横やりを解決する過程で分かって来たこともあるし、今だってそうだろう。
とにかく今の私たちには圧倒的に情報が足りない。
前世の情報――特にサーシス王国側の一部しか知らないようなものは知っておいて損はない、はず。
ただ気になるのは――
「結局エネルギー資源に出来るほどのものは出来なくってさあ……なら兵器に転用できないかって。人体改造にも限界があったんだよ。あれはマリー・カレンデュラ以外に耐えられるやつもいなかったし、彼女が死んだ以上研究を進めても彼女以上のものは出来ないしね」
この人はわざと私たちを怒らせようとしているのだろうか?
さっきから私や夜久さんの神経を逆撫でする発言しかしていない気がするのだけれど。これで天然じゃないと言い切れないのが逆に怖い。
「……!」
彼の発言に今度は夜久さんの眉がぴくりと動いた。
「本当、何しても抵抗せず従うし、どんな滅茶苦茶な改造しても死なないし最高の実験体だったんだけどねえ……まさか感情取って意思を強制しただけであんなに弱くなるなんて」
実験体……か。彼女のあの姿や扱いは、同じ人間……しかも軍功を上げてくれる相手にする仕打ちとは思えなかった。この人はきっとマリー・カレンデュラのことも、物として見ていたんだろうな。
「当たり前でしょう」
すると、彼のぼやきに対して夜久さんが言い返す。
「あいつがどうしてあそこまで強かったのか、分かりますか」
「えっ? そりゃあ抜群の戦闘センスと、なんたってあの異能でしょ?
いくら体傷つけて他種族の因子取り込ませても、大地から養分吸い取ってあっという間に治して適応させちゃうんだから」
「貴方と同じ考えというのが癪ですが、かつての俺もそう思っていましたよ……あの時までは」
短い睫毛で縁取られた瞼をそっと閉じ、すぐに開く。
当時を思い出しているのか、彼の顔は少し苦し気に歪んでいた。
「目から光の消えたあいつと戦って、嫌でも分かりました。あいつの強さは、戦いへの覚悟と意思から……心から生まれるものだったのだと。なのにそれを奪ってしまえば、弱くなるのは当然なのですよ。
貴方はあの姿を知っておきながら、三縁殿にも同じことをしようというのですか」
「あほくさ。俺とお前とは感性が根本的に違うんだよ」
説得してくれるのは嬉しいけれど、この人にそんな説得は通用しない。夜久さんとこの人とは美しさの基準が全く違うのだから。
案の定糸杉千景は面倒くさそうにそのたった四文字の言葉で切り捨てる。
「ルミベルナや八千代の顔は大好きだけど、八千代の心だなんて……暗いし肝心なことはいつもおにーさん任せだし見ていて苛々するだけなんだよね」
「……っ」
彼の言葉に、胸にぐさりと何かが突き刺さったような感覚に陥った。
この人の言うことは気にするだけ負けだと分かってはいるけれど、それでもはっきりとそう言われると気持ちが沈んでしまう。暗い、肝心なことはいつも兄さん任せ……きっと、自覚があるからだ。
でも、今は。
気持ちを奮い立たせて、顔を上げる。
今度は私が兄さんを助けるって、そして彼を克服してこの因縁にケリをつけるって決めたんだ。
「分かってる。だから私はここに来たの。貴方の知っている私から変わるために」
「……だそうですよ」
ストーカーされていた時とはすっかり色が変わってしまった彼の目を強く見つめ返して、きっぱりそう答える。
そんな私に夜久さんは薄く笑って、掴んでいた手をそっと放した。
「ですが貴方がそのような考えであるのなら、これ以上言うことはありません。俺たちは先に行かせてもらいます」
そして糸杉千景の周りに置物のように座っている魔晶族の模造品に視線を移し、手を前に出す。
「同族に似せて動揺を誘おうとしているのかは知りませんが……貴方の研究成果の結晶、全て破壊させてもらいますよ」
瞬間、視界一面が黒に染め上げられた。




