75.王の責務【♡】
明けましておめでとうございます。
新年最初の更新です。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
突如差し込んだ光に、反射的に目を細める。息を浅く吸うと、こもった空気ではなく冷たく新鮮な空気が肺に入り込んだ。
眩しいのをこらえどうにか目を凝らすと、そこには膝を付き焦燥した様子でこちらを覗き込んでいる夜久さんの顔があった。
その手に仮面が握られているのを見て、急に視界が明るくなったのは彼に仮面を取られたからだと気づく。
「大丈夫ですか!?」
我に返ったのが分かったのか容態を確認してきたので、私は小さく頷いた。
「ありがとうございます。もう、平気です」
「一体何が……」
「大丈夫です。もうこうなることはないですから、心配しないでください」
「しかし」
「大丈夫ですから」
全てを思い出した今、さっきのような頭痛が起きることはもうないだろう。
急に蹲った私を心配してくれているのか食い下がってくる彼に口元に笑みを作って何度も大丈夫だと伝えるけれど、それでも彼の表情は晴れてくれない。
すると、夜久さんは黒のウエストポーチから綺麗に折りたたまれたグレーのハンカチを取り出し、私にそっと差し出した。
「これは……」
「気づいていないのですか。……泣いていますよ」
そう言われて思わず頬に触れてみると、確かに濡れていた。自覚すると途端にぼやけていく視界に急いで目を擦るけれど、後から後から流れ出てくる涙を止めることが出来ない。
「あの、ええと、ごめんなさい、こんなつもりじゃ」
こんな顔を見られたくなくて、夜久さんから背を向ける。
止まれ。止まれ。何を泣いているの。散々酷いことをしておきながら都合よく忘れた自分に、泣く資格なんてありやしないのに。
手の甲で涙を拭っていると、私が向いている方向に回り込んで来た夜久さんに腕を掴まれ無理矢理ハンカチを持たされた。
「使ってください。あまり擦っては目が腫れてしまいます」
「……すみ、ません」
持たされてしまった以上返すわけにもいかなくて、ありがたく使わせてもらうことにした。
鼻を鳴らしながらしばらくハンカチで目を押さえていると、
「……今の会話の内容に何か関係が?」
私が少し落ち着いたのが分かったのか、恐る恐るそう訊ねてくる。けれども、その目は確信を持って私を見つめていた。
「私、全部忘れてなかったことにしていたみたいです。自分自身に異能を使って、仕舞いにはルカまで……」
「ああ――やはり、そうでしたか」
「……!?」
ルミベルナがルカ――そして自分自身の記憶を改竄したこと。それはクレイヴォルが死んだ後の出来事なのに、夜久さんは最初から分かっていたように頷いた。
「どうして……」
「最初の頃、蓮水先輩の言動が明らかにおかしかったので。考えられるのはその辺りだな、と勝手に予測を立てていただけですよ」
「そう、ですか。分かる人には最初からバレバレだったんですね」
「ただ、既にその誤解は解けているものだと思っていました。まさか異能にかかったままだったとは……」
あの日、保健室で蓮水先輩に謝られた時のことを思い出す。
学校ごと巻き込んで自爆しようとしていたのに、止めようとした兄さんと一緒に気絶して、目を覚ましたら完全に正気に戻っていた。兄さんからは、気絶している間蓮水先輩と一緒に前世で起きた出来事を見たと聞いていたけれど……内容までは上手くはぐらかされて教えてくれなかった。
――女王の姉上に憧れを抱いていたのは、嘘じゃない。僕は、自分の信念を貫くためにどんなことでも出来る姉上を素直に尊敬してた。……でも、本当は、そんな姉上が心から笑う顔を見たかった。いつか、魔晶族にとっての平穏が訪れた時に姉上と……皆で笑って幸せに生きてみたかったんだ……!
――それを忘れたまま、過去の姉上に固執して取り返しのつかないことをしてしまった。謝ったところで、どうにもならないことは分かってる……けどもし叶うのなら、もう一度最初からやり直させて欲しい……!
蓮水先輩のあの言葉、当時はルカの前世越しの本音を聞けたのだと思っていた。
でもよくよく考えてみるとちょっと変だ。気絶する前はあれだけ三縁八千代を殺そうとしていたのに、すぐにあそこまで反省するのだろうか。
そうなるだけのこと……兄さんと一緒に見た前世の出来事というのは、先輩の『忘れていた』というのは――
思わず、引きつった笑い声が漏れてしまった。
「先輩との一件で前世の自分と少なからず向き合えたと思っていたんですけど……私は肝心なことを忘れたまま、先輩と和解してしまったんですね」
先輩も兄さんも、ルミベルナがルカにやったことを知ってしまったんだろう。そして先輩は改竄された記憶が完全に元に戻ってしまった。
だからあんなに必死になって謝ってたんだ。ルミベルナが改竄さえしなければ、あんな姿を晒すこともなかったというのに。あの時に無理矢理思い出させて、どうしてあんなことしたんだと責めたって良かったのに。
「先輩……分かっていたはずなのに、どうして言ってくれなかったんでしょうか」
「言いたくても言えなかったのでしょう。姉の意思を尊重していたのなら」
「尊重、ですか……」
普通なら激怒して失望してもおかしくないのに、ルカも、蓮水先輩も……本当に優しい人だ。なのにかつての私は、その優しさを踏みにじってしまった。
蓮水先輩だけじゃない。魔晶族全員に、ルミベルナは本当に酷いことを――
「……皆に、謝らないと」
意識もせず自然と、その言葉が口を出た。
「先ほど俺に『前世のことで申し訳ないと思っているのなら止めて欲しい』と言っていたのに、貴方は気にするのですか」
「……クレイヴォルとは訳が違いますよ。謝ったところでどうにもならないことは、分かってますけど……でも、このまま何もしないのは」
『理想の王』になるために自分を殺して、個より全を選んで、どんな酷いことだって魔晶族のためだと信じて行ってきた。
後悔は――あった。罪悪感もあった。でも自分が選んだ道なのだから全て背負おうと決めた。
そう決めたからこそ、もし自分の行いを全て覚えたまま死んで生まれ変わっていれば……後悔ごと受け入れられたのかもしれない。
でもそうじゃなかった。
「守らなくちゃいけなかったのに無理矢理戦場に出して使い捨てて、本当の自分を想ってくれていた存在すら切り捨てて、」
「……」
「それどころか、その罪悪感に耐えられなくて、罪悪感を本望であるとすり替えて、逃げ出して、」
「……三縁殿」
胸が張り裂けそうだった。
こんなことを言ったって夜久さんを困らせるだけだと分かっているのに、口が止まってくれない。
「分かってはいたけど……本当に王に向いてなかったんですね」
「……ッ」
話しながら目線を下に向けてしまっていたから夜久さんの顔は分からなかったけれど、彼の太ももの上に置かれた拳が強く強く握られたのが分かった。強く握り過ぎて、皮膚の色が白く変わってしまっている。
「本当に、」
思い返せば、ルミベルナに好きにしろと言ったクレイヴォルがあんな邪悪な笑みをしていたのは、きっと無理だと分かっていたからだろう。
そう思うと、自分になら出来ると、『理想の王』を演じられればルカと一緒に皆も守れると本気で思っていた自分が――
「本当、恥ずかしい」
「三縁殿、もう」
「私なんか王にならなければ良か――っ!?」
突然肩を掴まれ、無理矢理体の方向を変えられる。
肩を掴む手のあまりの強さに、言いかけた言葉は引っ込んでしまった。
「もう止めてください!!」
直後響いた強い声に、急速に頭が冷えていった。
まただ。また私は感情的になって、一方的にまくし立ててしまった。
さっきのことがあったのにすぐこのザマだ。今度こそ、失望させてしまった。
当然だ。あんなに意気揚々と王を代わりにやると言っておきながら、結局皆死なせてしまって、それを後悔して懺悔しているのだから。
ああ、彼の顔を見るのがとても怖い。
「ご、ごめんなさ」
とにかく早く切り替えないと。こんな所で後悔してても何も変わらないし、時間を無駄にするだけだ。
切り替えろ、切り替えろ、仮面がなくたって取り繕えるくらいの経験値はあるはずだ。
無理矢理口の端を吊り上げて、何もなかったように笑みを作る。
「すみません、取り乱してしまって。今のは忘れてください。早く先に行き……」
「違う……!」
肩を掴んでいる手の力が緩む。声にさっきのような鋭さが無くて恐る恐る顔を上げると、苦し気な顔をした夜久さんが首を横に振っていた。
「違います、そうでは……そうではないのです」
目が合った私に彼は少し丁寧に言い直す。
分からない。
どうして、私よりもこの人の方が辛そうな顔をしているんだろう。
夜久さんは少し躊躇うように目線を泳がせた後、意を決したように私を見つめ話し出した。
「ルミベルナが王に向いていないなんてことは……決してありませんでした」
「っ……そんな、こと」
「認められた王でないのにも関わらず、理性のない獣がほとんどの魔晶族をあそこまでコントロール出来ていました。一族の中には彼女自身を見て王だと認めた者もいました。
もしかつての俺にやる気があったとしても、彼女のように上手くはいかなかったと思います。きっと何もしないよりも、酷いことになっていたでしょう」
そっと目を逸らし「意図的に内紛でも起こしてたのではないですかね」と苦々しく続ける。
その言葉に「戦闘力の底上げ」とか言いながらクレイヴォルが同族を争わせている姿が容易に想像出来て、思わず顔を引きつらせてしまった。
私の考えていることが分かったのか夜久さん自嘲気味に笑って、再び口を開く。
「彼女のやり方が正しかったのかは俺にも分かりません。ただその行動が、一族を想っていたが故であることは、分かります」
「一族を想っていたのは嘘じゃないですけど……本当に守りたかったのはルカだったんです。一族のために行動すればルカも一緒に守れるって、身の程も考えずに自分なら出来るって、そう信じていただけで」
「ではなぜ追い詰められた時に弟と一緒に逃げなかったのですか」
飛んで来た問いに、喉がひゅっと音を立てる。肩を掴んでいた手に再び力が入った。
「王になったことを後悔していたのなら、自分が王であった事実をなかったことにしても良かったはず。異能でそうすることも出来たのに、弟と逃げずに一族全員で自爆したのはなぜなのですか」
「そ、れは……自分のせいで沢山死なせてしまったから」
気がついた時にはもう引き返せなくなっていて、それでも自分なりに皆を助ける方法を……人間の燃料にされない方法を探そうとした。でも、結局ああする以外のやり方なんて思いつかなかった。
これで良かったんだという気持ちと、もっと他にやりようはなかったのかという気持ちが、ずっと胸の中で渦巻いている。
「どんなやり方であれ、一族のことを考えてしたのでしょう。最期まで王の責務から逃げずにやり遂げた……それで十分ではありませんか」
「……」
悲しそうにそう言う彼に、色んな感情が混ざり合って、何と返せばいいのか分からなかった。
一つ一つ話を聞いて、分からない所はちゃんと訊ねてくれて、その上でかつての自分を肯定してくれた、嬉しさ。
こんな私にここまで気を遣わせてしまった、申し訳なさ。
女王の自分を馬鹿にしていた前世の貴方は一体どこに行ってしまったのという、困惑。
お互い何も言わないまま、少しの時間が流れる。
真顔でじっと私を見ていた夜久さんは、どうやら私の顔から最後の感情を読み取ったようだった。
肩を掴んでいた手を放し、落ち着かないのか握ったり開いたりしながら「ええ、その」と視線を彷徨わせている。
何かを迷っているようだったけれど、心を決めたのか動かしていた手を握り締めて再び私に向き直った。
「かつての貴方が仮面で顔を隠し無理矢理王として振る舞っていたのは分かっていました。
当時の自分はそんな貴方を愚かだと……くだらない、馬鹿らしいと、そう思っていました」
緊張した面持ちで、そう言われる。
その表情につられてこっちまで緊張してしまうけれど、内容については前世の彼と接していれば嫌でも分かることだったから驚きはない。小さく頷くと、彼は続ける。
「理想の王で在ろうとした貴方を嘲笑っていた自分に、このように言う資格などないのは分かっているのですが」
少し遠慮がちにそう前置きすると、私を見る目が強くなった。
「確かに、かつての貴方は弟を守れなかったのかもしれません。望むような王には、なれなかったのかもしれません。
それでも、貴方は本当に、よくやりましたよ」
「……は、」
震える喉が、引き攣れるように鳴った。
すぐに「嘘だ」と口に出そうとしたけれど、相手はそれが分かっていたように首を横に振った。
今は何も言うな、とその表情が告げていた。
「大勢の上に立って導くなど、誰でも出来ることではありません……魔晶族なら猶更です。それを自ら引き受けた上、望まぬまま手を汚し続けたのに、最後まで投げ出したりしなかった」
告げられたのはさっきと同じような言葉だ。
筋肉の付いた太いがっしりとした腕が伸ばされ、今度は両方の腕で肩を掴まれる。力強く掴まれた肩は、でも決して痛くはなかった。
「とても、立派でした。もしそれで皆が貴方のことを非難しても、かつての自分が貴方を馬鹿にしたとしても……俺は、夜久朔彦は、一族のために最期まで戦い抜いた貴方を誇りに思います」
心臓がどっ、どっとうるさく音を立てている。
何か反応しなきゃと思うのに。
私を見つめる真っ直ぐな目に、体の、そして心の自由が利いてくれない。
「そう、思っています。ですから、どうか」
念を押すように同じ言葉を繰り返す彼の黒い双眸には、強い光が宿っている。
嘘や偽りを持った人には、決してできない目だ。
この目には見覚えがある。
ああ、この人もなんだ。
この人も、兄さんや陽菜さんと同じ目を持っているんだ。
「どうか、胸を張ってください。王であったことを、恥じないで欲しいのです」
切実さを帯びた声でそう言って、真っ直ぐな目はそのままに緊張で強張っていた顔が悲し気に歪んでいく。
そのまま肩から手を放し、一歩後ろに下がると、小さく頭を下げた。
「偉そうなことを言って、申し訳ありません。ですが、これは俺の……かつての俺ではない、今ここにいる俺自身の本音です」
手を放されたことで、段々と思考をする余裕が戻って来ていた。
彼に言われた言葉を何度も何度も反芻する。
ルミベルナは立派だった。
胸を張って、王であったことを恥じないで欲しい。
ああまさか、そんな言葉をよりにもよって、かつてはクレイヴォルだった相手に言われるなんて。
「ふふ……何なんですか、もう」
思わず漏れた笑みと一緒にやっと出せた声は、完全に潤んでいた。
霞んでいく視界の向こうで、相手が息を飲むのが見える。
「貴方に、そんなことを言われたら、泣いちゃいますよ」
たん、たんとコンクリートの床に涙の雨が打ちつける音に気づいて、目をぎゅっと瞑る。涙で濡れた頬をハンカチで押さえて拭き取った。
「すみません、弱くて、迷惑ばかりかけて。すぐに止めますから」
目に力を入れてどうにか止めようとするけれど、止まらない。これはきっと、今の涙が悲しみだけで流れているものじゃないからだ。
「……うっ、く」
泣き止みたいのに嗚咽まで出そうになっている。
歯を食いしばり下を向いて涙を拭っていると、夜久さんが口を開いた。
「涙を止める一番の方法は沢山泣くことだ、と昔母に聞いたことがあります」
「え……?」
「ですから、我慢はしない方がいい。思い切り泣いてしまいなさい」
躊躇いがちに私の背中に手を置いてそう言った彼の声は低く落ち着いた、とても優しい声だった。
「……うっ、うえ、えぐっ」
その言葉が、スイッチになった。
あれだけ涙が出ていたのに、まるで決壊したダムみたいに溢れて止まらない。
それでも我慢するなと言われても子どもみたいに声を上げて泣きじゃくるのは何だか嫌だった。でも我慢は出来なくて、私の口からは潰れた汚い声ばかりが漏れていた。
「涙が枯れるまで泣いたら――進みましょう。前を向いて、歩けますか」
背中をトン、トンと一定のリズムで叩きながらゆっくりと語りかけるように言われた言葉に、こくこくと何度も頷く。
私たち以外誰もいない地下水道で、水が流れる音と一緒に私のしゃくり上げる声だけが響いていた。




