59.マリー・カレンデュラ【♡】
初めて見た時、彼女は本当に人間なのかと疑った。
肌は黄緑色。腕を中心とした一部は爬虫類の鱗のようなもので覆われ、体のあちこちには何かを繋ぎ合わせたような縫い跡がいくつもあった。
ただ背中にだけは、そのグロテスクな見た目とは不釣り合いな純白の美しい翼。
そして何よりも――彼女は人間離れした、魔晶族と同等以上の恐るべき身体能力を持っていた。
その姿と強さが他の種族や動物の因子を取り込み、部位を繋ぎ合わせ適応させて得たものだと知ったのは、初めて彼女の強さを目の当たりにした少し後だ。
だが彼女の強さはそれだけに起因しない。
どんなに荒れ果てた大地でも彼女が進んだ道からは新たな命が目を覚まし、生まれた命は大自然の怒りとなって私たちに襲いかかった。
彼女にどんなに傷を与えようと、生み出した命が彼女の傷を癒し、様々な力を与える――前世で見てきた中でも間違いなくトップクラスの異能の持ち主。
そしてその後もサーシス王国の技術者たちによって身体を弄られ続けたのか、見る度にその姿は変わっていった。
身体の至る所に目が付いた。
腕が四本になった。
背中から翼だけではなく、何本もの触手が生えた。
その他細かな変化を挙げればきりがない。
繰り返される改造の中、変わらなかったものは髪と瞳の色だけ。
頻繁に新しい姿に変わるのに、その身体のポテンシャルをいかんなく発揮して戦っていて。
そうやって私たちの前に毅然と立ちはだかる彼女はきらきらと輝いていて。
彼女に、そしてその姿になってまで戦おうとする意志に――戦争が始まって初めて前世の私は恐怖した。
彼女の勢いに釣られてサーシス王国軍全体の士気も上がっている。
このままでは勢いに押されるままにやられてしまう。
とにかくまずは彼女をどうにかしなければ。彼女を抑えるには――
ふと、一体の魔晶族の姿が頭に浮かぶ。
魔晶族の中で彼女と同等に戦える者は、彼女の光を打ち消せる闇を持つ者はもはや彼しかいない。
雑魚を蹴散らしても何も面白くないと戦争には見向きもしなかったけれど、ここ数十年は碌な戦い相手もいなくて退屈していたはずだし、彼女のことを話せばきっと興味を持ってくれるはず。
その考え自体は正しかった。
でも、その考えを実行したのはきっと間違いだった。
「何だこのザマは」
――散々魔晶族を苦しめた彼女が、地に伏せている。
そんな彼女の前には一体の魔晶族が立ち尽くし、怒りに体を震わせていた。
何度も殺し合いを繰り返し、その度に引き分けで終わっていた二人。
やっと決着がついたのに、勝てたのに、彼女を見下ろす彼の顔に嬉しさや晴れやかな感情は一切ない。
彼は怒りに突き動かされるままに彼女――マリー・カレンデュラの胸倉をその黒い棘だらけの腕で掴んで引き寄せた。
「ふざけんじゃねェぞ!! テメェの言ってた本気の姿がそれか!? 違うだろうがァ!!」
彼はきっと全力の彼女に勝ちたかったのだろう。
今回の彼女はいつもの輝きが全くなくて、ルミベルナやアイリーンにでもどうにか出来そうなほどに弱かったから。
しかし激しく激昂する彼を、当のマリー・カレンデュラは感情の消え失せた顔でただじっと見ているだけだった。その瞳からは以前はあった強い光が消え失せ、濁り淀んだものに変わってしまっている。
それを見た彼はギリ、と悔し気に歯を食いしばり彼女を地へと放り投げた。
抵抗もせず放り投げられた彼女はすぐに何事もなかったかのように立ち上がる。
表情筋はピクリとも動かず、まるで人形のようだ。
「……おい」
たった今簡単に倒されたばかりなのに、再び彼と戦おうと機械的な動きで構えを取る彼女に、彼は声をかける。
彼女からは何の反応も返って来ない。
「おい、何か言えよ」
再び声をかける。
しかし、その声に彼女が答えることはない。
「無視すんじゃねェ答えろよ……なあ……!」
それでも声をかけ続ける彼の言葉は、どこか縋るようなものに変わり始める。
いつもふてぶてしい態度しか取らない彼からは考えられない姿だった。
けれどもそんな姿を晒そうと、彼の言葉が彼女に響くことはもう二度とないだろう。
今の彼女とって、彼は全力でぶつかり合い続けた好敵手ではなく、捕らえれば国の危機を救える『エネルギー資源』でしかないのだから。
「倒ス」
無機質な声でそれだけ発すると、かつて彼に繰り出していたものとは比べ物にならないほどに弱々しい拳とスピードで殴りかかって来る。
「カレン……」
そんな彼女を見た彼の――クレイヴォルの絶望に満ちた顔が、生まれ変わった今も鮮明に焼き付いて離れない。
◆
立ち込める土煙のおかげで庭が見えない。
庭に続く開き窓を閉めていて良かった。もし開けていたら今頃部屋の中は土が入り込んで大変なことになっていただろう。
何かが落ちて来るような音。結界が破られる音。そして衝撃音が庭から聞こえてきたことから、今回の襲撃者はどうやら空から結界を破って庭に着地したようだ。
強引過ぎる手段を使うのも、それが出来る身体能力も相変わらずらしい。
分かり切っていたとはいえそのぶっ飛んだ行動に、私は茶色しか見えない外を窓越しに硬直して見つめることしか出来なかった。
破られた結界は侑里先輩がすかさず新しい結界に張り直していた。張り直した瞬間にソファに倒れ込んでしまい、やはりかなり限界に近かったのだと悟る。
土煙を見つめていると開き窓越しに影が映った。あっ、そういえば開き窓の鍵をかけてなかった――と思った瞬間、勢いよく窓が開き灰と砂埃を被った一人の女子生徒が逃げ込むように部屋へ入って来た。
「げほっ、げほげほげほ……」
「……」
入ったと同時に窓をピシャリと閉めて、涙目になりながら体を丸めて激しく咳き込む。
……どうやら、自分が発生させた土煙と庭に積もった灰を吸い込んでしまったらしい。
あんな入り方をすればこうなることは分かるだろうに、何の対策もしていなかったのかと全員がぽかーんとした表情になっていた。
「えほっえほっ……ううっ、少し派手にやり過ぎましたわ……」
しばらくして何とか話せるまでになった明迅学園の制服を着た女子生徒は、ようやく顔を上げる。
かつてとは違い翼も触手もなく、腕も目も二つだけ。
けれども陽光を思わせる黄金の瞳と濃いオレンジ色の髪――前世と同じその色だけで、彼女がマリー・カレンデュラの生まれ変わりであることはすぐに分かった。
ドリルのようにきつく巻かれた髪を揺らしながら、室内を見回す。
そして自分を能面のような顔で見つめていた樫山さんを見た瞬間、彼女は彼をキッと睨みつけた。
「樫山ァ! どうしてわたくしの連絡を無視しやがるんですの!」
そう言って向けてきたスマホの画面には何個も連続して送信されたメッセージが並んでいる。
それを見て気づく。さっきから樫山さんにメッセージを送り続けていたのはこの人だったのだと。
けれども樫山さんは何も言わずに彼女を見ているだけだった。そのこめかみに青筋を浮かべて。
どう見ても、怒っている。
彼女はそれに気づいていないようで、黙り込む樫山さんにムッとした顔つきになった。
「ちょっと何か言いなさ」
「王下す氷結の短剣」
彼女が言い終える前に、低い声で呟いた樫山さんの手に現れた氷の短剣。
それをあろうことか彼は彼女に向かって投げつけた。
「なっ……!」
彼女は咄嗟に飛んで来た短剣の柄を掴む。
しかしその瞬間短剣が砕け散り、掴んだ場所から浸食するように彼女の腕を凍らせた。
凍った腕をじっと見て、そして戸惑ったように、魔法を使ったせいなのかさっきよりも顔色が悪い樫山さんを見つめる。
「帰れ」
サーシス王が国に復讐した時のことを話していた時のような冷たい、鋭い声。そのたった三文字の言葉に相手に対する強い憎悪がこもっている。
「よくもまあ平然と来れたもんだね」
「か、樫山……?」
戸惑いながら名前を呼ぶ相手に、樫山さんは怒りで引きつった笑みを浮かべた。
「あんたがノゾム目当てに糸杉に妹ちゃんを売ったことは知ってるんだ」
一瞬思考が止まった。
一体どういうことだろう。
今回の件はあの人が私を目的に始めたことのはずだ。
私を、売った? 表現はちょっとおかしいけれど、それだったら売られたのは兄さんの方じゃ……?
「ノゾムにさえ会えれば、ノゾムの家族なんかどうでもいいって? ……正直失望したよ、あんたがノゾムに本気なのは分かってたから応援してたのに」
話を聞く限り、どうやら彼女も今回の件の関係者らしい。
色々と突っ込みたい内容だけれど、冷気を身に纏い怒りに身を震わせる樫山さんがあまりにも怖くて声が出せない。
「……何を、言ってますの」
そんな樫山さんの言葉を聞いた女子生徒は信じられないといったように目を大きく見開いた。
「誤解ですわ! 確かにわたくしの家が関わっているのは事実ですけれど……知っていれば事前に止めさせたに決まっているでしょう!?」
「散々六天高校に手を出しといて、今更そんなの信じられるか」
胸に手を当てて訴えかける相手に、樫山さんの顔は冷めきったままだ。
その必死な形相から嘘を言っているようには見えないけれど……。
「王下す……」
「いい加減にしろ!」
樫山さんが追加の魔法を放とうとしたところで、遂に我慢が出来なくなったのか蓮水先輩が二人の間に割り込んだ。
体調も万全でないのに魔法を使った樫山さんの身体を心配したのと、後は既に庭も灰地にされているのに、これ以上魔法を使って家の中まで荒らされてはたまらないと思ったのだろう。
「一体どういうことだ!? 説明してくれ!」
片手で樫山さんの魔法を放とうとした腕を掴み、もう片方の手で女子生徒を制止する形を取る。
二人の顔を見ながら声を荒げる蓮水先輩に、女子生徒の方が先に我に返ったようだった。
「勝手にお邪魔した挙句、騒がせてしまいましたわ。ごめんなさい」
申し訳なさそうに眉を下げて謝罪する。
頭を下げた際に、髪に付いていた砂埃がパラパラと床に落ちた。
そして制服のスカートの裾を摘まむと、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げる――所謂カーテシーと呼ばれるお辞儀をした。
「申し遅れましたわ。わたくし、明迅学園二年の千寿陽菜と申します」
名乗った本人と樫山さんを除く全員の目が丸くなった。
その名字は、ついさっきまで話していた会社の名前と同じだったから。
「千寿……?」
「そうだよ」
思わずごくりと唾を飲み込んだ私に、千寿陽菜と名乗った女子生徒を睨みつけながら樫山さんが頷く。
「こいつは千寿組の社長令嬢……ノゾムを誘拐した実行犯のトップの娘なんだよ」




