53.変わっていくもの【♡】
「え、何で……」
いくら使おうとしても発動しない魔法に、頭の中が真っ白になる。
「あははははは! 予想通りや! こんなに上手くいくとは思わんかった!」
戸惑う私を見て大笑いする紫藤薫子。
もしかして、今飛んで来た球に何か細工がされていて、魔法を封じられたってこと……?
でも前世の時はこんな小道具使ってこなかった。一体どうして――
「テンパるのも結構やけど、もっと周りを見てみぃ」
その言葉に我に返る。
そこには視界いっぱいに、光の壁で消滅させるつもりだった数えきれない数の蛇。その全てが牙をむき、私に飛び掛かって来る。
それらをどうにかする手段は、今の私には、ない。
「姉さ……ぐっ」
蓮水先輩がテラスに飛び出して来るけれど、無理矢理体を動かしたせいか痛みに顔を歪めている。それに構わず魔法で私を助けようと手を前に出すけれど、間に合わない。
体が動かない。
恐怖? 緊張? それとも……諦め?
どんな理由であれ、今の私はただ蛇が自分に襲いかかってくるのを唖然呆然と見つめることしか出来ない。
仮にも女王だった自分がこんな体たらく……何て情けないんだろう。
これじゃ蓮水先輩があんなに止めるのも、アイリーンが学校を滅茶苦茶にしてまで私に敵意を抱く転生者を排除しようとするのも当然じゃない。
確かあの蛇、猛毒も持ってたっけ。前世の体だったら何の問題もなかったけど、今世の人間の体で噛まれたら多分死ぬよね。
そんなことを他人事のように考えながら襲い来る牙に覚悟を決め、両手で拳を握ると――
全身を絞めつけるような寒さが私たちを襲った。
「――王立つ氷砕の棺!!」
その一瞬でこの場にいた全ての蛇が凍り付き、氷の中に閉じ込められる。
その氷の形はまるで棺桶のよう。
氷漬けにされた中でも私に飛びかかって来ていた蛇は、私に届く前にボトボトと地面に落ちていく。
一気に下がった気温。この場にいる中でこの現象を起こせるのは一人だけだ。
白い息を吐きながら、信じられない思いで開いた出窓に視線を向ける。テラスにいて寒さと動揺で強張った顔をしていた蓮水先輩も後ろを振り返った。
室内の陰から開き窓のケーシングに手が伸びる。
そこからふらつきながらテラスへと出てきた樫山さんは、ケーシングを支えにしながら立ててはいるものの、今まで以上に顔色が悪かった。
「樫山さん!? 大丈夫なんですか!?」
「大丈夫じゃ、ない、かもね……がふっ」
樫山さんの口から赤いものが飛び出す。
それが血だと認めた瞬間、全身の血が引いていくのを感じながら、思わず私たちは膝を付いてしまった彼に駆け寄っていた。
「樫山!」
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ」
「樫山さんっ!!」
口に手を当てて血を吐きながら咳き込み続ける樫山さんに、迷った結果手を伸ばす。背中に触れたが今回は痛がる様子もなかったため、そのまま背中を擦った。
何の気休めにもならないだろうけれど、ただ見ているだけなのは嫌だった。
そんな私たちに向かって、一つのため息が落とされる。
「はあ、呪いで魔力を封じとるのに無理矢理魔法を使えばそうなるのは当たり前やないか。あんたマジで死ぬで?」
「なっ……」
魔力を封じられている……?
私が受けたものと同じかどうかは分からないけれど、この人も今魔法が使えない状態なんだ。それを無理に使えば体に負担がかかるのは当然だ。
樫山さんは咳は止まったみたいだけれど、口周りを血で真っ赤に染めて変わらずゼェゼェと息を切らしている。
「どうして魔法なんかっ、死ぬかもしれないのに!」
彼は私の方は見ずに、首を横に振った。
「別に、あんたのために、助けたんじゃ、ない。自分のため、だよ」
「自分の、ため?」
それに頷くと、そのまま手の甲で口から流れ落ちた血を拭い、苦し気に顔を歪めて目をぎゅっと閉じた。
「あんたに、勝手に会うどころか……また、こっちの事情に巻き込んだ挙句、殺されたりなんかしたら……おれがノゾムに合わせる顔がないんだよ……」
「樫山さん……」
そんな顔をするのはきっと、呪いが苦しいという理由だけじゃないんだろう。
確かに彼の言葉をそのまま受け取るのなら、自分のためと言うのは間違いじゃない。
私が死んだら兄さんに申し訳ない、なんて自分勝手もいいところだ。
でも、見方を変えるのなら。
この人は、さっき私が本人に言った通りの人なんだ。
この人はきっと兄さんのことが大好きで、だから兄さんが悲しむこと――たとえば私の身に危険が及ぶ、なんてことが起きて欲しくないんだ。
多分私のことは以前から兄さんから聞いていただろうし、兄さんが私のことを過保護なまでに大切にしていることも分かっていただろうし、過去に兄さんが私絡みで起こした事件も知ってるんだろう。
だから前世では宿敵同士で、今世ではさっき出会ったばかりの私にここまでしてくれるんだ。
そして兄さんが悲しむのと同じくらい、兄さんに嫌われたくないって思ってる。
私に直接正体を明かしに来たのは、兄さんが前世から続く因縁のせいで攫われてしまった以上、兄さんを助けるためには隠し切るのは無理だと思ったから。戦争のことをちゃんと話してくれたのは、正体を明かす以上、私たちというよりも私たちと通じてる兄さんに不誠実な真似をしたくなかったから。
もしかしたら『兄さんが好きな自分が好き』な人かもしれないけど、そんな人だったらそもそも兄さんが仲良くするわけがない。
たとえその理由が『兄さんに嫌われたくない』という自分勝手なものだったとしても。
この人は、兄さんを悲しませないために、そして兄さんと兄さんが大切にしているもののために、命までかけてくれる人なんだ。
私の口には自然に笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございます。兄さんに、貴方みたいな友達がいてくれて良かった」
「は……何言って……」
ポカンとした顔をしている樫山さんをもう一度笑いかけると、私は立ち上がる。
蓮水先輩が止めるのも構わず、そのままテラスから再び氷漬けになった蛇が転がる庭へと下り、私たちの様子を面白そうに見ていた紫藤薫子から二人を隠すように対峙した。
そんな私を見て、相手は不思議そうに眉を寄せる。
「……分からへんな。そいつはあんたらにとっても憎むべき相手のはずやと思うんやけど。何で守ろうとするんや」
緊張で顔が固くなっているのが分かる。
赤の他人――しかも苦手だと感じている相手に腹を割って話すのは苦手だ。
でも今はそんなこと考えている場合じゃない。私は意を決して口を開いた。
「貴方がサーシス王を憎いと思う気持ちは、よく伝わってきます。貴方の言う通り、サーシス王は何の関係もなかった魔晶族を自分の復讐に巻き込んで滅茶苦茶にした……私だって、許せないです」
紫藤薫子から感じるサーシス王への憎しみは本物だし、きっと他にも彼を恨んでいる人が大勢いるんだろう。
しかも今回の樫山さんの件は明迅学園内で起きていることであって、六天高校は全く関係ない。前世ではとばっちりを受けた身でもあるし、何の関わりもなければきっと私は簡単に彼を見捨てていたと思う。
でも、今世の彼はただの他人じゃない。
「今のこの人は、サーシス王じゃない。樫山律という私の兄さんの友達なんです」
あの社交性はあっても友達は作らない兄さんが繋がりを絶たない人。私のことを相談するくらいに信頼している人。
そして彼自身も自分の身を挺するまでに兄さんのことを大切に思っている、それが分かったから。
だったらもう、見捨てる理由なんてどこにもない。
「兄さんの友達に、これ以上酷いことをするのなら許しません……!」
強く見つめたまま退こうとしない私に、相手は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「まさかまだやるつもりなん? 魔法も使えんあんたに何が出来るんや」
「何も出来ないですよ。でも、退けません」
今世の私は非力で頼りない。加えて今は魔法も使えない。
それでも態度だけでも女王らしく、堂々としなくちゃ。
そうじゃなくちゃきっと、先輩や樫山さんだけじゃなく、兄さんだって助けられない。
「私、このまま兄さんの友達を見捨てて、平然と兄さんを助けに行けるほど図太くないんです」
「助けにいくって、まさかまだ生き残るつもりなんか?」
「逆に聞くんですけど、いいんですか? ここで私を殺しても。きっとあの人知ったら怒ると思いますよ? あの家を敵に回さない方がいいと思うんですけど」
「はっ、一丁前に脅してきよるな、あんた」
あの人の名前を利用するのは正直嫌だったけれど、今はそうも言ってられない。
脅して凄んで見せても、今の私は丸腰なのに変わりはないのだから。
「糸杉なぁ、親の権力使いまくって学校で好き勝手やっとるけど、別にうちとしてはどうでもええんよ。うちはただそいつが苦しんで苦しんでもがき回る姿さえ見れればええ」
そう言って私の後ろに隠している樫山さんを見つめる。
そして何を見たのかニヤァとこの上なく悪い顔で笑うと、私に視線を戻した。
「それに、今の話を聞いた感じここであんたを殺した方が樫山も苦しんでくれそうやしなぁ……おっと、蛇は皆凍らせられてしもたか」
そう言ってパチンと指を鳴らす。
その音に合わせて蛇を閉じ込めていた氷にヒビが入ったかと思えば、全て粉々に砕け散ってしまった。
「はあ、こいつの魔法は溶けんのが厄介や。ま、またいくらでも呼び出せばええんやけどな」
今度は手を伸ばし、先ほどと同じように無数の蛇を召喚する。
その蛇たちになす術もない私たちはあっという間に囲まれてしまった。
「さあ、今度は逃げられへんで」
「……っ」
この人は本当に樫山さんが苦しませるためなら殺しも厭わないんだ。
脅しも駄目だった。頭をフル回転させて考えるけれど、もう出来ることが思いつかない。
ルミベルナらしく凄んでみせても、所詮中身が三縁八千代じゃ何も出来ないってことなのかな。
「ま、ちなよ」
紫藤薫子が一歩私に近づいた時、不意に樫山さんが声を上げた。
彼女の顔が興味深そうにそちらに向く。
「あんたの、目的は……おれでしょ。関係ない、やつ殺して、何が楽し……ゲホッ」
「樫山! あまり喋るな……!」
話の途中で再び吐血した樫山さんの背を蓮水先輩が慌ててポンポンと叩いている。そんな樫山さんに相手はゲラゲラと笑い出した。
「あんなこと言っといてそれはちょっと無理があらへん? 分かっとるんやで、こいつを殺したら、あんた一体どんな顔するんやろうなぁ。ああ、ワクワクが止まらんわ」
顔色が悪いを通り越して土気色になった樫山さんを見て、彼女はさらに笑う。その顔は心から嬉しいと言わんばかりに輝いていた。
分かっていたことだけれど、この人、大分歪んでいる。
話し方が前世と全然違うから人格を乗っ取られたわけではないはず。ならこれは元々の性格だったのか、サーシス王への憎しみでこうなってしまったのか……。
相手は今度こそ私を殺そうと近づいて来る。
逃げようにも周りは蛇に囲まれて身動きが取れない。
「止め……」
「――ッ!?」
樫山さんが掠れた声を上げたその時――ハッとしたように息を飲んだ紫藤薫子は勢いよくその場から飛び退く。
飛び退いたと同時に、今まで紫藤薫子が立っていた場所からゴウッと音を立てて炎の柱が上がった。
「あ……」
それを見て全てを理解する。
安心からか、無意識に体の力が抜けてぺたんと座り込んでしまった。
そうだった。
怒涛の展開が続き過ぎてすっかり忘れていたけれど、この家にはまだもう一人いたんだった。
屋根から一つの影がこちらへ向かって飛び下りてくる。
相手の方もまさかまだ人がいたとは思わなかったようで、警戒したようにその人物を睨みつけていた。蓮水先輩は私と同じようにほっとした表情をしながらも、どこか心配そうにちらちらと隣に視線を送る。その視線を向けられている相手である樫山さんは、その姿を見てこれでもかというほどに大きく目を見開いた。
「なんで、ここにいるんだよ」
金に染めた髪を腰まで伸ばし、メイクは濃いもののよく似あう。大きな白のループピアスにピンク色のシンプルなネイル。少しダボついた真っ赤なVネックシャツからは豊満な胸から出来る谷間がのぞき、デニムのホットパンツからはその白く長い足を惜しげもなくさらけ出している。
そして赤いバンドの付いたヒールサンダルをトントンと鳴らしながら、矢吹侑里先輩は私たちの前に姿を現した。
自分を見て口元をわなわなと震わせる樫山さんを一瞥した侑里先輩は、そっと俯いてその顔に陰を落とした。
「……ホント、恥ずかしい」
表情は見えないけれど、悔しそうに唇を噛み締めているのだけは分かる。
「少しでも疑ったあたしがバカだった。人を騙したりするようなコじゃないって、あたしが一番よく知ってたはずなのに」
誰に言うわけでもなくそう呟いて、顔を上げる。
その顔だけをみるならいつもの侑里先輩だったけど、紫藤薫子を見つめる先輩の目は怒りの炎が灯っていた。その目にカチンときたのか紫藤薫子は眉間に皺を寄せて侑里先輩を見る。
「……誰やあんた」
アイリーンは人間にも化けることは出来ていたけれど、その姿は基本ルミベルナやルカくらいにしか見せたことがない。人間の前ではずっと本来の蜘蛛の姿だった。
今の侑里先輩の姿は人間に化けていた時の姿が若くなった感じだけれど、サーシス王国側がそれを知るわけがない。一目で侑里先輩をアイリーンだと判断するのはまず無理だろう。
「――ねえ、八千代とりっくんに何やってんの」
りっくん……? 樫山さんのことかな?
その呼び方を聞いた樫山さんの肩がビクリと跳ねたから、きっとそうなんだろう。
「先に聞いたのはうちなんやけど」
心底不愉快そうに言い返した紫藤薫子に、侑里先輩の目つきが鋭くなった。
「何? 分かんないの? 前世のあんたなら今のですぐに気づいたはずだよ」
そんな先輩に相手は少し考えるような素振りを見せると、すぐに信じられないといったように声を上げた。
「あの炎……まさかあんたアイリーンなんか?」
それを聞いた樫山さんがえ、と小さく声を出す。
「今更分かったの? ホント感が鈍ったもんだね」
「……なるほど、主君を助けにきたんやな。相変わらずの忠誠心やで」
侑里先輩の正体を知り元の貼り付けた笑みに戻した紫藤薫子に、侑里先輩はこの上なく嫌そうな顔をした。
「主君? 忠誠? 何言ってんの。確かに八千代はルミベルナ様の生まれ変わりだけど、今はあたしの後輩」
そこで言葉を止めると、腕組みをしてさらに怒りのこもった眼差しで相手を見る。
「――それにさ、黙って話を聞いてれば頭の悪いことをぐちぐちと。知ってる? 今あんたたちがやってることってさ、いじめってゆーんだよ」
本当に侑里先輩が出しているのか疑ってしまいそうな、底冷えしそうな声。
もしかしてまたアイリーンに引っ張られて……と思ったけれど、図書室でクレイヴォルの話をした時のことを思い出すともっと感情的に怒るはずだ。ならこれは侑里先輩本来の怒り方なのかもしれない。
そんな侑里先輩に紫藤薫子ははーあ、と面倒くさそうにため息を吐いた。
「アイリーンには関係のない話やろ、こっちの事情に口出しせんでくれへん?」
「確かにアイリーンには関係ないね。でもさぁ、矢吹侑里としては大いに関係あるわけ」
聞いているこっちの方が震え上がってしまいそうな声に、こんな声を出せるんだと驚いてしまう。
けれどもその驚きは、その後続けられた言葉によって跡形もなく消え去ってしまった。
「りっくんを――あたしの弟を、いじめるんじゃないよ」




