38.羨望【Side:A.H.】
アイリーンの指から飛び出した糸が四方から襲いかかる。
直撃はないものの、避け切れなかった糸が僕の体を掠める度、少しづつ傷が増えていく。
一つ一つはなんということのないただの傷だ。だが増えるに従って、体を動かすたびにちくりと嫌な痛みが走る。まるでじわじわと追い詰められている獲物になったような気分だ。
魔法を放つメカニズムは、現代のエネルギー生産と似ている。
石油などの資源からエネルギーを生産し電気や熱として出力されるように――魔素という資源から魔力というエネルギーを生産し、それを魔法として出力する。
魔素は空気中にも存在するが、前世では主に自分の体内にあるものを使っていた。自然に溜まっていく魔素の発散もあるが、何よりも体内の魔素の方が高濃度で純度が高く、効率的に強力な魔力へと変換出来たからだ。
今はもう体に魔素を溜め込む身体ではなくなったからか今は空気中の魔素を使っている。溜め込める魔素の量が他よりも圧倒的に多かったことの名残なのか、他の転生者よりは一度に魔力変換出来る魔素の量は多いみたいだが……やはり魔法は前世と比較すると弱体化してしまっている。それは相手も同じだが――
今、僕と彼女での戦いへの熟練度が、天と地ほどの差があることを身を以て痛感させられていた。
さっきまでとは明らかに動きが変わったせいで、蜘蛛がいなくなったにも関わらず苦戦を強いられている。
風の刃で糸を切りつつ、どうにか最後の糸がある場所に向かう隙を探すが――
「う、わっ」
いつのまにか別に伸びていた糸が足に絡まり、地面に引きずり倒された。派手に上がった泥しぶきが全身にかかる。
「切る方の糸ではなくて良かったのお」
地面に背中から倒れるを見て、アイリーンがケラケラと笑っている。
ああ言ってはいるがやろうと思えば、今のタイミングで僕の足を切断することくらい簡単だっただろう。多少本気を出していると言えど、やっぱり遊ばれている。
今僕に出来る攻撃魔法は、単純に魔力を風に変えて纏わせたり、空気の塊や切れる風を飛ばしたりすることだけだ。あいつみたいに炎だけでなく、糸を器用に使い分けたりすることは出来ない。
それだけではない。戦いの中のとっさの反応や動きそのものが、圧倒的に相手の方が上回っている。
それはきっと姉上たちに出会うまで長年たった一人で生きてきた経験や、人間との戦争の中で培われてきたものだろう。生まれた時から姉上に守られてきた僕とは何もかもが違う。
「ぐっ」
体を起こそうとした僕の胸を踏みつけるアイリーン。起き上がれない力加減で踏みつけながら、血のように紅い目が僕を見下ろす。
「こんなに弱さでルミベルナ様を守るなぞよく言ったものじゃ」
「な、にを……!」
アイリーンの僕を踏みつける足首を掴み、どかそうと力を入れるがびくともしない。それが事実だと言外に言われているようで、悔しさに歯を食いしばる。
そんな僕を見て馬鹿にしたように笑い、アイリーンは口を開いた。
「ナア、お主が最初八千代に迫っていた時、何故矢吹侑里が直接お主を説得したり、止めようとしなかったか分かるか?」
「知るか、そんなの」
吐き捨てるように返すが、そう聞かれると確かに不思議だ。
侑里が記憶が戻った直後から、ずっと姉さんと一緒にいることは知っていた。姉上は前世では基本顔を隠していたけれど、アイリーンには何度か素顔を見せていたことがあったし、今世では同じ委員会だったのもあって生まれ変わった姉上を見つけるのは簡単だっただろう。
でも同じく素顔を知っていて、今世でも昔からの付き合いがあるはずの僕には一切関わろうとはしなかった。元々僕から避けていたのもあったし気にしていなかったけど……
姉さんが嫌がっていることを知っていたのなら、侑里なら一言何か言ってくるはずなのに。
内心で疑問に思っているのに気がついたのか、アイリーンの口元が弧を描く。
「矢吹侑里はの、お主が取り返しのつかない所まで行って八千代に嫌われることを望んでいたのじゃよ」
は、と思わず口から空気が漏れた。
「当然じゃろう? 大切な元主の意思を全否定し、一方的な要求を押し付け、拒否されれば周りに攻撃させるよう仕向けて無理矢理通そうとする男じゃぞ? いくら元弟といえど引き離したいと思うのが普通ではあるまいか?」
「そ、れは……」
否定出来ない。
本当どうして僕はあんなことをしたんだ。いくら記憶を消され改竄されていたとしても、その理想を強要するなんてどう考えたっておかしいのに。
黒歴史を突き付けられて顔を引きつらせる僕に、アイリーンは続けた。
「後は下心もあったじゃろう、今度こそ自分がルミベルナ様の一番になれるのではないかとな」
「どう、いうことだ?」
僕の言葉にアイリーンの瞳孔がくわっと見開かれる。
「その態度が気に入らんのじゃ……!」
瞬間――ザシュッ、と音を立てて目の前を赤い血が舞った。
思わず視線を落とすと、足首を掴んでいた両腕が真っ赤に染まり、力なくだらりとぶら下がっていた。それを認めた瞬間、その部位がカッと熱を持ち激痛が僕を襲う。
「う、ああああああっ!!」
「いつまでも汚い手で妾の足を掴むでないわ」
こらえ切れず絶叫する僕をアイリーンは相変わらず冷たい目で見下ろしていた。
痛い、痛い、痛い。
今ので両腕の筋を切られたのか、全く手に力が入らない。
アイリーンは僕の胸から足を離すと、その足で僕を蹴り飛ばした。
「ぐあっ」
地面を転がってうつ伏せになり、体を丸めて痛みをこらえる。腹を蹴られたせいでむせるのが止まらない。
痛みで意識に霞がかかり始めるが、必死で意識を繋ぎ留めながらアイリーンを睨みつけた。
駄目だ、こんなところで気絶なんかするものか。
出血死だけは防ごうと、切られた腕に回復魔法をかけて治療する。
かなり深くまで切られていたらしく、血は止まったが腕を動かそうとすると痛みが走った。
そんな僕をアイリーンは不愉快そうに目を細めて見つめ、話し出す。
「……いくら妾が努力しようと、ルミベルナ様は最期まで貴様しか見ておらんかった」
「ゴホッ、ゴホッ……なん、だって……?」
「今でさえ気づいておらぬとは、本当におめでたい頭よな」
姉上が僕しか見ていなかった?
確かにかつてはそうだったかもしれない。
いつだって優しく、僕に色んな事を教えてくれて、守ってくれて、大切にしてくれた。
「で、でも姉上は、魔晶族の誇りのために」
でも最期は――僕の『昔の姉上に戻って欲しい』という想いに感謝はしつつも、魔晶族の誇りを優先した。
最期まで、というのはおかしいんじゃないのか?
「貴様は馬鹿か」
困惑の表情を浮かべる僕に、アイリーンの鋭い言葉が刺さる。
「何故ルミベルナ様が貴様を一度も戦いに出さず傍に置いていたと思うておる。何故貴様の記憶を消してまで一緒に死のうとしたと思うておる」
口を開く間もなく、彼女は激昂の表情を露わにした。
「貴様に人間どもの燃料になって欲しくなかったからじゃろうが!! 感は鋭いくせして何故そんな単純な事は分からん!? ああ腹が立つ、ルミベルナ様も八千代もこんな恩知らずに甘過ぎるのじゃ……!」
目を見開いて固まる僕に、矢継ぎ早に言葉を続ける。
「妾だってやれる事は全てやったわ! ルミベルナ様にこれ以上ないほどに尽くしたし、望みは皆叶えてやった。努力して同じ人型になってみたりもした。最期だってルミベルナ様の意思を尊重して共に逝く意思を向けた! ――なのに! 自身の記憶を弄ってもなお! ルミベルナ様は貴様の身を一番に案じておった!」
「そ、そんな」
姉上はあの時、僕との楽しかった思い出は全て消したはずだろう?
あの後は僕も姉上も全て忘れていたから、姉上は僕のことなんて見ていないと思っていたし、気がつくこともなかった。でも、周りからはそう見えていたのか?
「生まれ変わって思い出して、狂ってしまった貴様を見て、やっと自分が一番になれると思っておったのに……今度は別の者がその位置に変わっておった」
脳裏に浮かぶのは、一人の後輩。
きっと今の姉さんにとって一番大切だろう相手。
「しかもそやつは狂った貴様を正気に戻し、八千代と親しくさせる始末。わずかな希望はすぐに露と消えたのじゃ。ああ妬ましい、ネタマシイ……貴様も三縁望もいなければ良かったのに」
「ま、さか……お前がこんな事をしたのは、」
自分でも想像していた以上に声が掠れている。
話の中で薄々と感じ始めていたことが、確信に変わった瞬間だった。
「僕らを試すと言っていたのは方便で、本当は邪魔な僕らを排除して姉さんを独り占めするためとか言わないだろうな……?」
「目的の一部ではあるのぉ」
そう言ってニヤァとした笑みを浮かべるアイリーン。その笑顔に頭にカッと血が上る。
「ふざけるな!! そんな事のために姉さんを人質にして学校をこんなにしたのか!?」
朦朧とする意識と痛む身体に鞭を打ち、勢いよく立ち上がる。直後に眩暈がしたが、何でもないように装った。
遠くから雷雨の音に混じって、激しい戦いの音が聞こえてくる。ここからは体育館の二階が見えるが、その屋根や壁一面に赤い蜘蛛がびっしりとはり付いていた。早く糸を切りに行かないと、陥落するのも時間の問題だ。
校舎もここまで破壊されれば、完全に修復するのに一体どれだけの時間とお金がかかるのか。前世の力で破壊されたから世間的には事故だと認識されるんだろうけど、間違いなく理事長である父さんは――
「何を言う、お主だって自爆しようとしていたではないか。妾にはこんな学校なぞどうなっても良いと思っておるように見えたが?」
「ッ――!?」
どくりと心臓が嫌な音を立てる。
この学校が嫌いだった。
『様々な経験を通し、あらゆる可能性を探索する』という、過去の自分が受けた教育と同じような教育方針。なのに、ここに通う生徒は僕とは違って自分がやりたい事を伸び伸びと学べている。そんな周りと自分を比較して、何度も酷く陰鬱な気分になった。
彼女の言う事に間違いはない。あの時は、学校の被害なんて何も考えてはいなかった。
自分の目的さえ果たせれば、この学校がどうなろうが、生徒がどうなろうが知ったこっちゃなかった。
顔を強張らせ息を飲んだ僕に、アイリーンは笑みをさらに深くする。
「図星か?」
その笑みから少しだけ視線を外し、意を決してまた戻した。
「……前は、そうだった。でも今は違う」
「ホウ?」
「あの二人が、六天高校で過ごしたいと言ったから」
辺りが点滅し、すぐ近くで雷が落ちる音が響く。
雷の音が静まり、雨だけの音に戻ると僕は話し始める。
「校内で直接攻撃されることは無くなっても、周りは敵だらけ。こんな状況で逃げ出したって何も責めないさ。でもあいつらは辞めようともしないで、諦めずに正常に戻そうとしてる。この学校で、日常を過ごしたいと思ってる」
ここで言葉を止め、僕はまだ痛む手で拳を軽く握りしめた。
「だったら僕は、あの二人を卒業するまでこの学校にいさせてやりたい」
この学校が好きになったのかと言われれば、まだ肯定は出来ない。
でももしこの騒動が収まって、また元の日常が戻って来た時――姉さんや三縁と一緒に残り短い学生生活を送るのは、きっと楽しいと思う。
だから、今この場所を破壊させるわけにはいかないんだ。
そう自信を持って答えた僕とは対照的に、アイリーンの表情は白けていた。
「フン、理由をすり替えたな」
「え?」
「だから貴様はクソガキなのじゃ。良いのかの、話に夢中で周囲の意識が疎かになっておるぞ?」
その言葉にハッと周りに気を向けた時には既に遅かった。
いつの間にか死角から伸びていた糸が、避ける間もなく全身に巻き付く。引き千切ろうと力を込め、風の魔法で切ろうと試みるが、糸は頑丈でびくともしない。
雁字搦めになった僕を見て、アイリーンは両手に切断用の糸を出し飛びかかる。
くそっ、やらかした……!
意識を失わないようにすることに集中し過ぎていた――!
心の中で舌打ちをするが、状況は変わらない。これから来る衝撃を想像して目をギュッと閉じる。――が、予想していた痛みも衝撃も感じなかった。
代わりに感じたのは、わずかな温もりと嗅ぎ慣れた紅茶の香り。
目を開けると、まず視界に映ったのは目をわずかに見開いているアイリーン。その手から伸びる糸には赤い色が付いており、地面にもその赤が散らばっている。すぐに雨で薄まっていくそれは、きっと僕のものじゃない。
信じられない思いで、視線をすぐ横に向ける。今朝も見たばかりの、高級感のある灰色のスーツ。
「父、さん……?」
そこには体育館にいるはずの父さんが、荒い呼吸をしながら前から僕を抱きしめるように覆い被さっていた。




