37.雷雨のグラウンド【Side:A.H.】
私立六天高校。
『様々な経験を通し、あらゆる可能性を探索する』という方針の下、文武問わず多くの設備や専門科目が整えられている。
表立って進学校だと主張はしてしないが、そんな自由な校風に惹かれるやつは結構いるみたいで、偏差値に対して倍率は高い。中には優秀だが敢えてここを選ぶやつもいて、毎年それなりに有名大学の合格者が出ている。
父さんが経営している学校でなければ、僕も手放しで良い学校だと言っていただろう。
そんな六天高校のグラウンドは、マンモス校に匹敵するほど無駄に広い。
同時多発転生が起きる前の放課後は、毎日部活動をする多くの生徒の活気に溢れていた。
だが今は――その一面が紅で埋め尽くされ、波のように蠢いている。
蜘蛛が苦手じゃなくても、普通のやつだったらこの光景には恐怖を覚えるだろう。
その紅い海の中心に鎮座する巨大な繭。
――ブツン!!
その繭から伸びていた太い糸の一本が切られ、消滅した。
「はあ、はあ……」
バケツをひっくり返したような雨が降り、時折雷鳴が鳴り響く。
大粒の雨に打たれながら、僕は太ももに手を置き息を切らす。
これで、やっと半分。
僕が切らなきゃいけない糸は、あと二本だ。
「フム、思っていたよりは動けるようじゃの」
蜘蛛が道を開け、そこをアイリーンがニヤリとした笑みを浮かべながら歩いてくる。
僕もアイリーンも全身ずぶ濡れだが、彼女の濃い化粧は全く落ちていない。
涼しい顔しやがって。こっちは結構体力的に限界に来ているってのに……!
「前世はルミベルナ様に守られてばかりで碌に戦わず、今世でも大の運動音痴だったお主が……まさかこんな最前線に飛び出して来るとはの」
ヒヒヒと心底面白そうに笑いながら、僕に手を向ける。
「前世の力を手に入れて、思い上がったか?」
そこから放たれた火の玉を避けようと足に力を込めるが、四方から飛びかかって来る無数の紅い影。
アレに捕まれば身動きが取れないどころか、体を喰い千切られてしまう……!
「くそっ……!」
仕方なく足の力を抜き、両手の指を絡ませる。
僕を中心に空気の圧を発散させると、飛びかかってきた蜘蛛はその圧に押されて吹き飛んだ。
だが、その圧は迫り来る火の玉まで吹き飛ばすことは出来ない。
「ぐあっ!?」
火の玉が胸に命中し、今度は僕が吹き飛ばされる。何度か地を転がって、ぬかるんだ地面にうつ伏せに倒れた。
「この手に引っかかるのはこれで三度目じゃぞ? 駄目じゃのう、まるで戦い慣れしておらんではないか」
ハア、とアイリーンの呆れたようなため息が聞こえる。
そんなこと、わざわざ言われなくたって僕が一番よく分かってるさ。
口の中に砂が入って気持ち悪い。ペッペッと吐き出しながら、僕は立ち上がる。
「しかし、妾の魔法での傷はなし……か。てんで役に立たなかった異能でも、環境が変われば使えるようになるのじゃな」
これまでに何度か魔法はぶつけられたものの、火傷や直接的なダメージは全く負っていない。今僕にある傷は大体体勢を崩されて転んだり、蜘蛛に噛みつかれたり、糸で切られて出来たものだ。
前世では、周りは皆環境の変化に強かったし魔法の耐性もあった。だからほぼないものとして扱われていたが……
生まれ変わって身体そのものが弱くなったおかげか、こんなに役に立つようになるなんて。
傷だらけだが焦げ一つない僕に不満そうに口を尖らせるアイリーン。
そんな彼女に僕は挑発するように嘲笑う。
「はっ、随分余裕そうだが、僕にもう二本も切られているのを忘れたのか?」
「その姿で言われても、虚勢を張っているようにしか見えぬぞ」
スゥと目を細め、彼女も僕と同じように嘲笑い返した。
校舎の外にあった糸は四本。何とか半分まで切れたが、アイリーンの様子を見るにきっとわざと切らせたのだろう。蜘蛛もこれだけいるにもかかわらず一度に一定の数しか攻撃してこない。……完全に遊ばれている。
今回は別にこいつを倒すことが目的じゃない。
繭から伸びている糸を全て切って、この空間を解除すればいいんだ。
――三縁は、上手くやれているだろうか。
ちらりと燃え盛る校舎を見るが、まだ一本も切れていない。
さっき飛び込んでいく背中を見たから校舎の中にはいるんだろう。異能はかけてあるから、中で燃え死ぬことはないはず。
「余所見をするとは余裕じゃのう」
その声に我に返った時――既に目の前には彼女の指から伸びた糸が鞭のように飛んで来ていた。
慌てて体を反らしてそれを回避する。だが眼鏡擦ったことで二つに切れ、切れた半分はずれて顔から落ちてしまった。
こうなってしまった以上、もうかけていても意味はない。残った半分の眼鏡も外すと、落ちた半分と一緒にポケットへとしまった。
「眼鏡がなくなると、本当にルカ坊と同じ顔じゃの。じゃが、ルカ坊よりもずっと阿呆面じゃ」
「それはどうも。お前は若返れて良かったじゃないか、前世は頑張って若作りしてる婆さんにしか見えなかったぞ」
「……今すぐここでズタズタにしてやろうか、このクソガキめが」
青筋を浮かべた彼女の両手から糸が針のように飛んで来たのをしゃがんでかわす。
前世で人間に化けていた時のアイリーンは、けばけばしい化粧をした妙齢の女性だった。生まれ変わってもメイクのセンスは変わっていないようだし、侑里も年を取ったらあんな感じになるんだろう。
糸をやり過ごして立ち上がった僕を見て、チッと舌打ちをする。さっき僕が余所見した、雨の中燃え続ける校舎を見つめた。
「三縁望のことが気になるのか? まだ一本も切れておらぬようじゃが……」
アイリーンが使っているのは下手に触れると切れてしまう特殊な糸だ。金属バットを持って行ってはいたが、糸を切るのに手こずっているのかもしれない。
「マア今頃妾の用意したコと遊んでおる頃じゃろ。もしかしたら既に喰われておるかもしれんのう」
やっぱり自分の手が届かない所には番人を用意していたか。
そう言って笑うアイリーンからは、三縁に対してどこか馬鹿にしている様子がうかがえる。
なぜか現代日本に甦ったレナリオの世界。三縁はそんな世界に僕の異能で迷い込んで来た一般人に過ぎない。
妙な能力を持ってはいるが、転生者と渡り合える戦闘能力は皆無と言っていい。きっと、周りにいる蜘蛛一匹倒せる力もないだろう。
だが――
「お前さ、あまりあいつを見くびらない方がいいぞ」
僕の言葉に、アイリーンは意外そうな顔をした。
「お前も見てたなら分かるだろう? あいつ、姉さんのためなら何をするか分からないぞ」
妹を困らせている初対面の相手をぶん殴る。妹への被害を減らすためにとっさに爆心地に突っ込む。
あいつの妹馬鹿っぷりは僕自身が体験した事だけじゃない。過去のエピソードがそれを裏付けている。どれもこれもある程度頭のネジが外れてなければ出来ない。
どうしてか今も、気にはなるものの不思議とあまり心配はしていないのだ。
「じゃがあやつはただの人間じゃ、あのコをどうにかすることなぞ……」
姉さんが関わった時の三縁のイカれっぷりを理解していないのか、校舎に伸びる糸を見ながらそう言いかけた瞬間。
三本のうちの一本が、消滅した。
「何……!?」
「だから言っただろう?」
目を大きく見開くアイリーンに、僕は思わず笑みを浮かべる。
「信じられん、一体どうやって……」
糸が無くなって大きな穴だけが残った場所を見つめながら、アイリーンの紅の瞳が怪しく光る。きっと偵察用の蜘蛛を向かわせているか、糸がどうやって切れたのか確認しているのだろう。
今、完全に彼女の意識は僕から逸れている。
チャンス……!
僕は三本目――正門の近くにある糸へ向かって駆け出した。
アイリーンは気づいているはずだが、よほどあちらの方が気になるのか僕を追ってくる様子はない。代わりに周りの蜘蛛が襲ってくるが、今なら多少は周りの被害を気にせず力を出せる。本体のいない蜘蛛なんて大したことはない。
蜘蛛を風で吹き飛ばしながら邪魔されない距離まで近づくと、両腕に風を纏わせる。
糸に向かって両腕をクロスさせるように手刀を落とすと、腕から飛ばされた風の刃が太い糸を切り裂いた。糸に囚われていた女子生徒が、水はけの悪い地面に倒れる。場所的に、下校中だったのだろう。
急いで雨の当たらない場所まで運び、最後の糸がある場所を確認する。見たところ、校舎と体育館の間に伸びているようだ。
よし、このまま最後の糸も――
一歩足を踏み出した時、目の前にアイリーンが現れた。
「……ッ!?」
思わず顔を引きつらせる。
僕を見る彼女の顔に一切の感情がなかったからだ。それなのに目は血走っており、顔中にどことなく殺気が漂っている。
だがその目は僕を見ているようで見ていない。別の何かに向けられているように見えた。
「あ、アイリーン……?」
恐る恐る名前を呼ぶ。
僕を止めるために来たんだろうが、明らかにさっきまでとは様子が変だ。
「ああ目ざわりじゃ、目ざわりじゃ、目ざわりじゃ……」
「目ざわり……?」
虚ろな目で呪詛のようにブツブツと同じ言葉を呟いている。
「上手く尻尾を隠しておると思えば今更出てきおって。これでは意味がないではないか……!」
怒りと憎しみに歪んだ顔で、アイリーンは背後にいた蜘蛛たちに向かって叫んだ。
「目ざわりじゃ。全員あの男の元へ行き、さっさと殺してしまえ!」
その言葉に蜘蛛が一斉に移動を始める。グラウンドだけじゃない。校舎の中にいた蜘蛛、今まで自由に動き回っていた蜘蛛、学校中の蜘蛛がある一点――体育館に向かっていく。
待て、あそこは生徒や教師たちが避難している場所じゃないか……!
いくら他の転生者が守ってるといっても、あの数量に太刀打ち出来るかどうかは分からない。
「お前急にどうした? いきなり殺せなんて」
訳が分からない。
きっとおかしくなったのは、さっき三縁を調べた時だろう。一体、彼女は何を見たんだ?
しかもどうして蜘蛛を三縁の元ではなく体育館へと向かわせるんだ?
「お主は別に知らなくとも良い事じゃ。ヒヒッ、ヒヒヒヒッ……」
当のアイリーンは明らかに正気じゃない顔で不気味に笑っている。
あの男……は恐らく三縁だとして、意図的に殺そうとするなんて冗談じゃない。
もし三縁が死んでしまえば姉さんがどうなるか分かっているのか。
それに僕はまだあいつに借りを返せていないんだ。絶対に死なせてなるものか。
僕の表情が変わったことに気がついたのか、アイリーンが面白そうな笑みを浮かべた。
「外にある糸も後一本になってしもうたからの、蜘蛛もおらぬし妾もそろそろ少し本気で行くとするか。少しは妾を楽しませるのじゃぞ?」
「勘違いするなよ蜘蛛女。誰が楽しませてなんてやるか」
両手から糸を出して構えた彼女に、僕もいつでも反応出来るよう身構える。
最後の糸は体育館の近くにある。隙を突いてさっさと糸を切ってしまおう。早くこの空間を解除しないと本当に死人が出てしまう。
あそこには何の関係もないやつだっているんだ。父さんだってあそこに避難しているはず……
あれ、どうして僕は父さんの心配なんてしているんだ?
別にどうだっていいだろ、父さんのことなんて。今は目の前の相手に集中しないと。
雷の光を反射しながら、僕を切り刻まんと糸が舞う。
心の奥の靄に気がつかない振りをして、僕は魔法を放つため手を前に出した。




