35.巨大蜘蛛との攻防
オレは腰を抜かしたまま、尻を引きずるように蜘蛛から距離を取っていた。
映画でのCGでしか見たことないデカさの蜘蛛が、今目の前にいる。ここまでデカければ蜘蛛と呼んでいいかも疑わしい。
黒板のある壁に背を付け、浅い呼吸を繰り返す。
完全に油断していた。
道中見てきた蜘蛛は、大きくて精々オレの膝くらいのサイズで、それがこの巣の中にいる最大サイズなのだと勝手に思い込んでしまっていた。
空間の維持に関わる――切られちゃ困る糸なのだから、傍に守護者くらい用意しているハズなのだ。
小さな蜘蛛は慣れても、このサイズになるとまだ体が竦む。
巨大な蜘蛛は天井にはりついたまま、八つの目をオレに向けてまたシャーッと威嚇するような音を立てる。
「――ッ!?」
そのまま口の部分を大きく開いたのを見て、オレは反射的に体を横にずらしていた。
オレの直感が当たっていたのか横にずらすタイミングと同時に、蜘蛛の口から糸が吐き出される。
糸と言えど、その太さは人の腕とほぼ同じ。糸はオレがたった今寄りかかっていた壁に直撃し穴を開ける。ぶつかった衝撃で頭上の黒板に溜まっていたチョークの粉が舞った。
何とか避けはしたものの完全にはかわし切れず、頬に擦れたような感触が走る。一瞬に間を置いて、糸が擦れた箇所がズキズキと痛み出した。
チョークの粉を極力吸い込まないようにしながら、オレはよろよろと立ち上がる。
擦った部分から血が流れ、頬を伝い下りていく。思っていたよりも深く切ったみたいだ。
だがその痛みは、逆にオレの竦んだ体をある程度解してくれた。
さて――どうする?
先の無くなったバットを強く握りしめ、頭をフル回転させる。
転生者のような人外のパワーを持っていないオレじゃ、この蜘蛛を倒すのはとてもじゃないが無理だろう。
……イヤ、今回の目的はこの蜘蛛を倒すことじゃない。生徒を捕らえている糸を切ることだ。
この蜘蛛をやり過ごしながら、糸を切らなければ。きっと何か方法があるはずだ。
蜘蛛は吐いていた糸を噛み切ると、それはブツリと音を立てた後跡形もなく消える。そして天井から足を離すと、ドンッと激しい音を立てて床に落ちてきた。
その衝撃で結構な重さがあるはずの机や椅子が飛び散る。
「……マズいな」
机や椅子があちこちに散乱してて足場が最悪な上、倒れている生徒までいる。
無暗に動けば蜘蛛の攻撃に巻き込んでしまう。
一旦この教室から離れるか?
離れたとして廊下には他の蜘蛛もいる。廊下もあちこちに割れたガラスや壁の破片が散乱し、糸も張られて動きにくい。逃げ切れるとも限らないし、他の蜘蛛まで合流されればそれこそ多勢に無勢だ。
クソッ、一体どうすりゃいいんだ――!
無力な自分を恨めしく思うも、蜘蛛は待ってなどくれない。再びオレに向けて糸を吐き出した。
それを飛び退いて避け、オレはバットを逆手に構える。
勝てないのは分かっていたが、一か八かの賭けだった。
道中の蜘蛛は、糸や炎を吐く攻撃をすると次行動するのに若干の隙が出来ていた。その隙のおかげでオレはどうにか蜘蛛を振り切ってここまで来れたのだ。
――そしてそれは、この巨大な蜘蛛も同様らしい。
この一瞬の隙を逃すな。どこか弱い場所はあるはずだ。
バットは先が切れてしまったため鈍器としては使えなくなってしまったが、その切り口は鋭利に尖っている。
ドスッと糸が壁に刺さった音を立てた瞬間、オレは自分でも驚くほどの速さで蜘蛛に突っ込んだ。
「――喰らいやがれッ!」
蜘蛛が糸を吐き出してから、ほんの一瞬の時間だった。
オレは蜘蛛の懐まで入り込むと、その八つの目の中でも左右にある大きな目の一つにバットの切っ先を思い切り突き立てた。
ガキン、と響く石を叩くような音。
音の通り石で出来た蜘蛛だ。きっと大したダメージは与えられないだろう。
だがここでは終わらせるつもりはない。
突き立てたバットでそのまま蜘蛛の目をガリガリと削る。
それに蜘蛛の体がびくりと跳ねた瞬間――オレは蜘蛛の足で弾き飛ばされていた。
「ぐあっ!?」
弾き飛ばされた先の壁に思い切り体を叩き付けられ、オレは苦悶の声を上げる。
『シャアアアアアアァァァアアア!!』
苦痛に顔を歪めながら蜘蛛を見れば、効いていたのだろう――オレがバットの先を突き立てた目に石を削ったような白い傷を付けて、蜘蛛は体をピンと伸ばしながら悶絶していた。
蜘蛛の叫び声にオレの体がビリビリと痺れる。
オレは痛む体を無理矢理起こすと、蜘蛛から極力離れながら、急いで太い糸の傍へと向かった。
生徒を捕らえている太い糸は教室の中心を貫き、綺麗に部屋を二分している。だがそんな糸でも教室の高さほどの太さはなかったのか、上下にはわずかに隙間が空いていた。
それが、ちょうどオレが糸に触れずに潜り抜けられるくらいの隙間だったのだ。
蜘蛛が傷ついてない目でオレを捉えたのを確認した瞬間に、オレはその隙間を潜り抜ける。
向こう側に潜り抜けた瞬間、糸が大きく揺れた。
それを見て、オレは心の中でガッツポーズをする。
切れはしなかったものの、狙い通り蜘蛛が糸に攻撃してくれた。
蜘蛛の大きさでは上下の隙間を通り抜けるのは不可能。蜘蛛がオレに攻撃するには、一旦教室を出て後ろの窓に回り込むか、糸を切るしかない。回り込めばオレもまた糸を潜って反対側に逃げればいい。
いたちごっこになる可能性もあるが、蜘蛛が痺れを切らせば糸を切ってくれるかもしれない。
もし切ってくれればその瞬間に次の糸がある場所へと全速力で逃げよう。
とてつもなく地味かつセコい方法だが、生憎今のオレにはこれしか思いつかない。
しばらく蜘蛛が糸を叩く音が聞こえていたが、すぐにそれは治まり沈黙が訪れた。
――どう来る?
窓、教室の後ろの出入り口に天井と床。蜘蛛が入ってきそうな場所に意識を集中させる。
案の定、パリンと向こう側の窓ガラスが割れる音が響いたと同時に、オレがいる側の窓に大きな影が映った。
窓ガラスが割れる瞬間、よし来たとオレは糸の下を潜り抜ける。
少しでも触れればズタズタになるだろうから、ある意味命懸けの糸潜りだ。
その後同じことを数回繰り返す。
『シャアアアッ!!』
ちょこまかと逃げるオレに、糸を挟んだ反対側で蜘蛛が怒ったような声を上げていた。
そろそろこのままじゃ埒が明かないのを理解してもらって、この糸を切って欲しいのだが……この蜘蛛、あまり知能は高くなさそうだが、さすがにこの糸を切ってはいけないことは分かっているようだ。
黒板側で蜘蛛が来るのを身構えながら、オレの中で段々焦りが生まれ始める。
蓮水先輩は大丈夫だろうか?
外から衝撃音が鳴り止まないのを聞く限り、まだアイリーンとやり合っているに違いない。先輩が大丈夫なうちに早く切ってしまわねーと……
早く、早く諦めて糸を切ってくれ――!
ガリッ
何かが削られる音がした。
オレはハッとして音がした方を見る。
天井の隙間から体を乗り出し、オレを覗く八つの目。
「ばっ……ウッソだろォ!?」
どう見ても通らない天井と糸の隙間に無理矢理体を突っ込んで、オレのいる側に来ようとしている。
体を押し込む度に、天井が今にも割れそうな音を立てた。
逃げるオレにイラついたのか、強行突破で行くことにしたようだ。
ちなみに蜘蛛は糸に触れても平気なようで、ぴんぴんしている。
だがあの隙間を通り抜けようなど無理があり過ぎる。
このまま糸と天井にハマって動けなくなってくれれば、良い時間稼ぎになるんだが……
そんな事を考える暇もなく、蜘蛛の口から糸が吐き出される。
オレはいつものように避けようとしたが――ある事に気づき体が止まった。
オレの後ろには一人の女子生徒が倒れている。糸を吐く角度的に、ここでオレが避ければ彼女に当たってしまう。
彼女は……名前は忘れたが、最近八千代と一緒に昼食を食べるようになった生徒だ。八千代の友人になるかもしれない相手を見殺しにするなど……!
考える暇などなかった。
オレは反射的に蜘蛛に背を向けると、彼女に覆いかぶさるようにして庇っていた。
「ぐッ……」
糸が直撃した左肩に激痛が走る。思わず叫び出しそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
糸はオレの肩で止まってくれたらしく、女子生徒に怪我はない。
「よかっ……い"っ!?」
ホッとしたのもつかの間。
突如糸が当たった場所が強い力で引かれ、あまりの痛みに潰れた声を上げた。
左肩を見ると糸が当たった左肩を中心に、左腕全体にオレの血で濡れた糸が巻き付いている。その左肩から流れる血の量に、オレは自分の顔が青ざめていくのを感じていた。
そんなオレを気にも留めず、蜘蛛はものすごい力でオレを自身の方へと引き寄せる。
必死に抵抗するが、抵抗すればするほど糸の先が伸び、体の自由を奪っていった。
「や、め……ろ……」
痛みに耐えながら声を上げるが、そんなの聞いてくれるワケがない。
抵抗など意味がないと言わんばかりにずるずると引きずられるように、確実に蜘蛛との距離は縮まっていく。
だが一番の問題は、配置的に蜘蛛よりも先に糸に触れてしまうことだ。しかも全身で。
そうなれば体がズタズタになる程度では済まない。最悪、死。良くても体の一部が無くなってしまう可能性がある。
身動きが取れないまま、あと二歩進めば糸に当たるという場所まで来てしまった。
「ち、くしょう……!」
今度こそ死ぬのか、オレは。
アイリーンに八千代を守れることを証明できないまま。
オレならば大丈夫だと信じて送り出してくれた、蓮水先輩の信頼に応えられないまま。
最後まで足掻こう思い切り体をひねるが、何の意味もない。
そして今にも糸に触れそうになり、もうダメだと目を強く閉じた――その時だった。
「――少し油断をし過ぎましたね」
聞き覚えのない、低い声がした。
「えっ……?」
オレが思わず間の抜けた声を上げた瞬間、蜘蛛の中心に黒い縦線が入る。
――ブツン!!
同時に蜘蛛も体を支えていた太い糸が切れ、支えるものが無くなった蜘蛛は重力に従い落ちていった。
落ちながらも線が入ったところが少しずつズレていく。
真っ二つになった蜘蛛は地面に落ちるとガラスのように粉々に砕け散り、思わず目を閉じて自分にかかる破片をやり過ごした。
少しして恐る恐る目を開けると、床に散らばっているのは大量の紅い煙を出した蜘蛛だったもの。
「ッ……」
蜘蛛がやられたからなのか、オレに絡みついていた糸も消えている。
オレは膝を付き血が流れ続ける左肩を押さえながら、信じられない思いで煙の先を見つめた。
隙を突いたとはいえ、あの蜘蛛と糸を同時に切ったのか――!?
煙の量が凄過ぎてハッキリとは分からないが、煙の先に人影が見える。
恐らくはソイツがやったんだろう。
「誰が背後にいるのかも分からないのに、無暗に背中を向けるものではありませんよ」
きっとなぜやられたのか分からないまま消えていく蜘蛛に向けて、煙の先にいる男はもう一度声をかける。
どこか語りかけるような、落ち着いた口調。
蜘蛛が完全に消滅し、煙が晴れていく。
燃え盛る炎の中に立っていたのは――右手に黒い刀を持った一人の男だった。




