31.覆水盆に返らず【Side:S.H.】
「その……話は変わるのですが。差し支えなければ、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
淹れた紅茶を全て飲み干すと、朔彦くんはどこか遠慮がちに口を開いた。
「何かね?」
「どうして蓮水先輩は剣道を辞めてしまわれたのでしょうか?」
「ッ……それは」
綾斗が彼の家の道場で剣道をしていたのは、もう六年も前の話だ。
彼からまさかそんな事を聞かれるとは思わず、言葉に詰まる。
「先輩とは特別仲が良かったわけではないのですが、道場でとても楽しそうに練習しておりました。てっきり中学に上がっても続けているものだと思っていたのですが、一度も大会や合同練習で見かけなかったものですから……ずっと気になっていたのです」
彼の言葉にふと、綾斗が中学生になったばかりの頃に剣道部に入りたいと言ってきた事を思い出す。
当時の私は、とにかく早く息子の才能を見出してそれを伸ばしてやりたいと思っていた。一通り習い事をやらせ、息子の得意不得意を見極める事に注力していた。
分かったのは、綾斗はとにかく運動が苦手だという事。体育会系の習い事の成績は同年代の平均以下で、本人も自覚しているようだった。
向いてないものをいつまでもやらせてもしょうがないし、本人も楽しくないだろう。それよりは得意な勉学や音楽を伸ばしてやるべきだ。
だから息子に剣道部に入りたいと言われた時、なぜ向いていないものを続けようとするのか分からなかった。親の承諾がなければいけなかったため、結局入れなかったようだが。
その考えこそが、息子を苦しめていた事に気がついたのはつい最近のことだ。
朔彦くんに言われて、ふと気づく。
綾斗は楽しそうだったと言うが、私は息子が楽しそうに剣道をする姿を一度も見たことがない。仕事が忙しく、大会も結局応援に行けないままだった。
急に後ろめたくなり、相も変わらず真っ直ぐ見つめてくる朔彦くんから目を逸らしてしまう。
「それは……息子はあまり得意ではなさそうだったから」
「剣道は何も、向き不向きでやるものではございません。心身を鍛え、心を豊かにするためのもの……何よりも楽しむことが大事なのだと、父は言っておりました。それに得意ではないと言えど当時はまだ体も出来ていない小学生です。伸びしろはまだまだあったと感じております」
彼の言葉にハッとする。
私は、得意な分野を見つけて早くそれを伸ばしてやりたかった。楽しませ、心身を鍛え、心を豊かにするためではない。その分野で優秀な成績を収められるのか、それを見るためにやらせていた。本人のやる気による長期的な成長を一切無視して。
――結局は自分の理想の息子を作りたかっただけだろ?
綾斗の言葉が脳裏を過ぎる。
ああ、その通りだ。あの時も否定は出来なかったが、今ならばはっきりと分かる。
何でもいい。誰も敵わないものを持った一目置かれる息子。
そんな息子にするために私は息子を使って実験をしていたのだ、と。
乾いた笑いが漏れる。
これでは、息子に見捨てられるのも当然ではないか。
「……理事長先生?」
今の自分がどんな表情をしているのか分からない。
目を瞬かせ心配そうに私を見つめる彼に、私は尋ねる。
「朔彦くん、教えてはくれないかね。綾斗は、どんな風に剣道をしていたのだ?」
「先輩は、道場の中で誰よりも父に積極的に教えを請いながら一生懸命に稽古に励んでおりました。休憩時間には本を読んだり熱心に剣道の研究をしていたり……先輩を見ていると、俺も負けてはいられないと一層練習に力が入ったものです」
「そう、か」
剣道を辞めさせた理由はもう一つ、彼の存在もあった。
才能溢れ、同年代の中でも群を抜いて強い彼に、綾斗はどう足掻いても敵わない。
誰も敵わないものを持って欲しいのにこれでは意味がない、と。
そんな彼が、まさか綾斗を見てやる気を出していたとは。
綾斗との会話で十分に理解したはずだったのに。何て愚かな事をしていたのだろう。
自分の醜さか次々に浮き彫りになっていくような感覚。自分への嫌悪感と罪悪感で全身の血が冷えていくのを感じる。
そんな私に、朔彦君は何かを感づいたようだった。
「高校に入って久々に先輩の顔を見ましたが、以前と随分変わってしまわれていたので驚きました」
「変わった?」
「父親の前でこんな事を言ってよいものかと思いますが、生気がなく、全てを諦めてしまったような……」
言いずらそうに、だが正直に答えてくれた内容に、私は彼には見えないよう拳を握りしめる。
親の自分も自覚していたが、長年離れていた相手にも分かるほどだったのか。
――何をする気にもなれない、やりたい事を見つけても止められるだけなんだから!
だが、息子をそうしたのは私なのだ。
あの時、本音を引き出せたからと。息子の考えを、望みを理解出来たからと。
あんな態度でも、諦めずに接すれば良好な関係になれるのでないかと。
本当のありふれた家族になれるのではと。
完全に舐めていた。
自分がやらかした事の重大さを全く理解していなかった。
理解せず、私はあんなに馴れ馴れしくしていたのか。
一度謝ってああだったのだ。
二度三度謝ったところで、もう許してなどくれないだろう。
その時だった。
ガシャアアアァァァン!!
耳をつんざくような窓ガラスの割れる音。同時に私たちの間を白い柱のようなものが勢いよく突っ込んで来た。
窓の外から飛び出してきたそれは壁にまで到達し、先端が放射状に貼りつく。
「な、な、な……」
私は口をわなわなと震わせ、ただ言葉にならない声を上げながら、呆然とそれを見ることしか出来ない。
わずかに紅い光を帯びた、丸太ほどの太さのある謎の白い物体。柱と思っていたものは、よく見ると細い繊維が束になったもののようだ。
もっとよく見てみようと、それに手を伸ばす。
「それに触ってはいけません!!」
白い束を挟んだ向かい側にいる朔彦くんの怒号に近い強い声に、触れる直前で手を止める。ソファーから立ち上がった彼は、白い束をくぐって私の腕を掴むとさっきまで仕事をしていた作業机の下に押し込んだ。
「何をするのかね!?」
大量の書類を処理するため、私の作業机はかなり大きい。机の下には大の大人が二人入るくらい十分なスペースがある。朔彦君は私に続いて机の下に入って来た。
「落ち着くまで、しばらくここでじっとしていてください!」
何が起きているのか全く分からないが、尋常ではない彼の態度に逆に冷静になり大人しく従うことにする。
遠くから、近くから、窓ガラスが何枚も割れる音が聞こえてくる。
それに伴って響く、生徒の悲鳴やパニック声。
心臓がばくばくと音を立てる。何かとんでもない事が起きていることだけははっきりと分かった。
三分ほど経ちようやく破壊音が止まると、私たちはこれ以上何も起きないことを確認してから、机の下から出た。
「な、何なのかね、今のは……」
相変わらず外から一本伸びている白い物体。理事長室はこれ以上の被害はないようであったが、外から何枚も割れている音が聞こえた。
そもそもこれがどこから現れたのか。
……正直、非常に見るのが怖いのだが、見なければなるまい。
恐る恐る割れていない窓まで近づく。
そこから見えた景色は、いつも見る六天高校の景色とは程遠いものだった。
視界に映ったのは、一面に広かる糸。
窓が割れボロボロになった校舎も。グラウンドも。空も。
六天高校全体が、蜘蛛の巣のように白い糸で張り巡らされている。
そして校舎の壁に。グラウンドに。空に広がる糸に。
数えきれないほどの大小様々な紅い蜘蛛が這いずり、蠢き回っていた。
あまりにも衝撃的な景色に、一歩窓から後ずさる。
「何だこれは……!?」
本当にここは六天高校なのだろうか?
気づかぬうちに地獄にでも迷い込んだと言われた方が納得出来るのだが。
まあこんな非現実的な現象、十中八九同時多発転生がらみだろう。前世に引っ張られた生徒が何かやらかしたに違いない。
だがなぜだ? 八千代さんの話では、校内では私がいる限り大丈夫なのではなかったのか?
話と違う事に混乱していると、隣に朔彦くんがやって来る。
同じように外を見た彼は、大きく目を見開くと苦々しく顔を歪めた。
「女郎蜘蛛の巣……!」
「……? 分かるのかね」
今起きているこの現象の名前をはっきり言い当てた彼に、私は疑問の目を向ける。
さっき彼は、私に糸に触るなと言った。つまり触ったらどうなるか知っているということだ。そしてこの状況でも極めて冷静なこの態度。
これらが意味する事など、一つしかない。
「君は――」
「理事長先生!」
私の言葉を遮り、朔彦くんが慌てたように声を上げる。
部屋の白い糸に背を向けていた私は気がついてはいなかった。
割れた窓ガラスから一匹の蜘蛛が入り込み、私に狙いを定めていたことを。
彼の視線を追って振り返った時には、既にサッカーボールほどの大きさの蜘蛛が私に飛び掛かっていた。
「ッ……!」
そう声を漏らす音が聞こえたかと思うと、一瞬で私と蜘蛛の間に現れる影。
影の主――朔彦くんは、そのまま指先をピンと伸ばした手刀で蜘蛛を一突きする。
――その一撃で赤い蜘蛛は粉々に砕け散った。
破片がきらきらとダイヤモンドダストのように輝き舞い散る。
無機物のような質感の蜘蛛だとは思っていたが、石のようなもので出来ているようだ。色味からはルビー……いや透き通ってないから血赤珊瑚に近い。
そんな宝石のような蜘蛛の体は、床に落ちると紅い煙を出して消えていった。
一連の彼の行動を見て、私は確信する。
一切の無駄のない、慣れたような手つき。例え空手の心得があったとしても、動く石で出来た生き物を戸惑いなく粉々にするなど出来るわけがない。
「朔彦くん。君も転生者だな?」
「……あまり動じていないとは思っておりましたが、そういえば既にご存知でしたね」
そう言って煙が完全に消えるのを確認すると、私の方に顔を向ける。
「その通りです。俺にも蓮水先輩たちと同じような――前世の記憶と力がございます」
「……そうか」
はっきりと肯定した彼に、私は小さく頷いた。
「朔彦くん、この現象の事には詳しいのかね」
「ある程度は」
「私は残っている生徒と教師の安否確認と安全確保を行いたい。この大量の蜘蛛から皆を守るため、すべき事を教えて欲しい」
本来ならば理事長である自分で考えるべきなのだが、現時点で転生者が何かしたという事以外、この現象の詳細も何も分からない。
ならば生徒であっても、少しでも自分より詳しい者に聞くべきだ。
自分のように、他にも蜘蛛に襲われている者がいる可能性がある以上、無駄な行動は出来ない。
「そうですね……一つ一つ教室を確認していくのでは時間がかかり過ぎる。道中で確認しつつもまずは放送室へ行き、一度で全校に指示を出すのが得策だと考えます」
「指示、か」
「はい、まずはこの校舎から避難させるべきです。グラウンド……は今は逆に危険でしょうね。さてどこにするべきか」
「校外に避難させることは?」
「学校中に張られている蜘蛛の糸は巨大な結界でもあります。外に出ることは不可能です」
つまり今の私たちは、巨大な蜘蛛の巣にからめとられた獲物というわけか。
確かにあれだけの数の蜘蛛が上にも下にもうようよしている中に、生徒を放り込むなど出来るわけがない。
朔彦くんは腕を組み少し考えた後、口を開く。
「グラウンド以外で大勢の生徒を集められる場所……体育館などどうでしょうか?」
「体育館だと、いざという時に逃げられなくなるのではないか? 蜘蛛が襲撃して来たらどうする?」
「今の学校に安全な場所などありませんよ。ならば一箇所に固め、目の届く場所に置いておいた方がいい。蜘蛛については……」
そこで一度言葉を止めると、彼はとんでもない事を言い出した。
「校内に残っている転生者たちに頼めば良いのです。蜘蛛の一匹や二匹程度であれば、彼らでも難なく処理出来ます」
「何を言っているのかね!? 生徒を戦わせるなど」
「そのような事を言っている場合ではございません。それに転生者は皆、暴れたくてうずうずしております。理事長先生が言わずとも、じき勝手に戦いだすでしょう」
それでも躊躇いを見せる私に、朔彦くんは目を伏せる。
「お気持ちは分かります。ですが、今の惨事はこの世界には存在しない力によって起きているのです。それには同じこの世界には存在しない力でなければ対処出来ません」
彼の言っている事は正しい。この世界のものでどうにかしようとすれば、軍隊でも連れて来なければならない。
震える手で拳を強く握りしめる。
何の役にも立たない自分が悔しい。なぜ自分には指示を出す以外に何も出来ないのだろう。
そんな私を見た彼は、黙って私の腕を掴む。
「時間がございません、参りましょう。放送室までの道中は俺がお守りいたします」
「あ、ああ……」
年下に導かれなければ動けないなど、何て情けない。
だが今は彼に頼ることしか出来ない。
私が指示を出すことで少しでも被害か軽くなるのであれば、やらなければ。
意を決して引戸を引く。
蜘蛛たちが徘徊する廊下へと、私たちは一歩足を踏みだした。