30.理事長室にて【Side:S.H.】
前話より時系列が少し前のお話。
理事長室の作業机で、私は確認していた書類を整えるとふーと息を吐いた。
今週も何事もなく……とはいかないが、無事終わった。
とはいえ、我々理事や教師たちにはまだまだやる事が残っている。
最近はいつもの業務に加え、生徒たちの問題行動の対処に追われていた。今日も町中で暴行を犯した生徒への対応と、休学・退学の手続き。
行政も企業も助けてくれない以上自分たちでやるしかないのだが、毎日こんな事が続けば、さすがに気が滅入ってくる。
だが、同時に不気味だった。
毎日が喧騒とした六天高校。それに対し、周りがあまりにも静かすぎるのだ。
いくら私学とはいえ、ここまで短期間で生徒の問題行動、休学者や退学者が続出すれば、普通ならば教育委員会や私学協会が黙ってはいないだろう。少なくとも周辺地域に住む者たちからのクレームは入っているはずだが、今の時点で何も言われていない。加えてマスコミ辺りが嗅ぎつけてニュースにでもしそうなものだが、それもない。
こんなにも何もないと、いっそ公的な機関からこっ酷く言われた方が逆に安心出来る。
まさか、糸杉の者が広めないよう圧力をかけているのか……?
いや、それはおかしい。あの者たちならば、この現状を嬉々として教育委員会やマスコミに広めるはず。
現状を考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。私はそれを誤魔化すようにこめかみを両手の中指でぐるぐると回し、軽くマッサージをした。
その時。コン、コン、と誰かが扉を叩く音が鳴る。
以前綾斗が吹き飛ばした引戸は、幸い壊れてはいなかったため元通りだ。立て付けが悪くなり、若干開けるのに力がいるようになってはしまったが。
引戸の小窓には大きな黒い影が映り、姿は分からずとも、かなりの長身であることが分かる。
「二年の夜久朔彦です。今お時間はございますでしょうか」
聞き覚えのある落ち着いた低音の声。
なぜ彼がここに。最後の挨拶にでも来たのだろうか。
内心動揺したが、努めて表には出さないように取り繕う。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
固い引戸を軽々と開け、彼は一礼して室内へと入って来た。
彫りの深い顔立ち。名字通りの夜のように黒い髪は短く切られており、清潔さを感じさせる。
日々の稽古のおかげか、制服の上からでも鍛えられているのが分かる体付きに太い腕。制服にしわは一切無く、ボタンは一番上まで留められている。
同性から見てもかなりの男前ではあるのだが、その体格に加えてやや強面で眼光も鋭く、怖がる生徒も少なくない。
私と目が合った彼は、そんな見た目とは裏腹に柔和に微笑んだ。
「突然申し訳ございません。今日で最後ですので、ご挨拶をと思いまして」
やはりかと思い、私も彼に微笑み返す。
「そうか。先週君の事を聞いた時は私も驚いたよ」
「……はい。急な申し出にもかかわらず、迅速にご対応いただきありがとうございました」
そう言って申し訳なさそうに頭を下げる彼に、私は黙って首を横に振った。そのまま彼を来客用のソファーへと案内する。
仕事はまだ残ってはいるが、切りも良い。彼と最後の会話がてら休憩にしよう。
「朔彦くん、少し話をしたいのだが時間の都合は問題ないかね」
「構いません。俺も挨拶ついでに、お話ししたい事がありましたので」
紅茶を淹れる準備をしながら尋ねると、朔彦くんは固い面持ちで頷く。
眉間にしわを寄せ、私を真剣に見つめる姿は、ただの話ではないと察するには十分だった。
◆
紅茶を淹れて朔彦くんの前にティーカップを置くと、私も向かい側に座る。丁寧にお礼を言った彼に、私から切り出す。
「話したい事とは何かね」
「はい。俺がこの学校を辞める本当の理由についてです」
「何……?」
先週、彼の両親が尋常ではない剣幕で息子を辞めさせたいと学校に乗り込んで来た。このような事態になった今、学校に乗り込んでくる保護者は別に珍しくも何ともない。
彼の両親がその時言ったのは「このような学校に息子を通わせることなど出来ない、一刻も早く退学の手続きをしてくれ」というものだった。他の自主退学を望む保護者達と概ね同じような理由ではあるし、理由自体も正論で返す言葉もない。
だがその理由は偽りであったというのか?
偽る所など全く見当たらないのだが……?
「両親からは話すなと言われておりますが、一年お世話になった場所を嘘の理由で去るのはあまりにも不義理だと思い、お伝えに参りました」
「そこまでの理由があって、なぜそのような事を……」
「六天高校も無関係ではないからでございます。俺自身が直接理事長先生に伝えておくべきだと判断したまでです」
太ももに置いた両手で拳を作り、彼は意を決したように口を開いた。
「――実は入学前より、ある高校から誘いが来ておりました」
「っ……!?」
分かっている事であったのに、思わず表情が強張ってしまった。
ある高校など聞かなくとも分かっている。
一年前、そして最近も。目の前の彼を散々寄こせと言われ続けてきたのだから。
私の表情に、朔彦くんは少し困ったように笑った。
「その表情を見るに、既にご存知だったようですね。明迅学園のことです」
「あ、ああ。それならば君はなぜ明迅学園に入学せず、ここに来たのかね」
ずっと疑問に思っていた事を尋ねる。世間的なイメージでは六天高校よりも明迅学園の方が遥かに上だ。
そんな学校から直接勧誘されて、なぜ行かなかったのだろうか。
「確かに魅力的なお誘いではございましたが、俺は将来家の道場を継ぐ身。そんな俺がわざわざ進学校に通うのは疑問に思ったのです。この高校を選んだのは、家から一番近く、また自由な校風に惹かれたからでございます」
最もらしい理由だが、彼はこの学校でも有数の模範的な生徒だ。
彼のその生真面目さと誠実さは、担任、剣道部の顧問、風紀委員会の顧問……彼と関わりのある教師全員から高く評価されている。部活だけでなく学業も優秀で、彼ならば進学校でも十分にやっていけたと思うのだが。
「というわけでお断りしたのですが……最近になって、再び俺を勧誘してくるようになったのです。その誘い方が……何と言いましょう、非常に腹の立つ言い方でして。六天高校を口汚く蔑んできたのでございます」
当時を思い出しているのか、苦々しい表情で不愉快さを隠さない。
糸杉ならば、それくらいは平気でするだろうと私は思う。この地域一帯で強大な権限を持っていながら、品位の欠片もない。
「自分の所属する組織を馬鹿にしてくるような場所に、誰が入りたいと思うでしょうか? もちろん、改めてお断りいたしました」
喉を潤すためか紅茶を一口飲むと、彼は話を再開する。
「そのような経緯があってから、先週の月曜日。突如自宅に、黒服を着た複数の男が訪ねて来たのです。高圧的な態度で『明迅に入れ』と脅しつけ、家族を人質にしようとしてきたのでございます」
「何……!?」
あまりにも強引過ぎるやり方に、私は顔を引きつらせた。
確かにあの一族はやくざとの繋がりもあったはずだが、ここまで堂々とやくざを使うというのは初めて聞く。下手をすれば自分たちの首も絞める行為を平然と行ったのか?
いや、それよりも……
「君たちは大丈夫だったのか!?」
「心配は無用です。俺が追い払いましたので」
胸に手を当て、真顔でそう言う目の前の男に、私は一瞬反応を忘れてしまった。
ふ、複数人のやくざを相手にして追い払ったのか……
にわかには信じがたいが、彼が本気で怒ればそこらのやくざよりもずっと怖いかもしれない。
「そ、それならば良かったが、そのことはちゃんと警察には連絡したのか」
私の問いに朔彦くんは静かに頷く。だがその表情は浮かないままだ。
「ですが、全く取り合ってもらえませんでした」
「な……」
「信じられませんでした。警察がやくざを庇うなど、あるまじき事です。そして恐らくその両方と繋がりがある学校など、正直かなりきな臭いと言わざるを得ません。今回の件は家族全員が激怒しており、このような事をしてくる学校になど絶対に入らないという意見で一致しております」
そう話す彼の目には、静かな怒りの炎が燃え上がっていた。
きっとその相手は明迅学園だけではない。家族を人質にしようとしたやくざや、本来守るべき立場であるはずの警察も含まれている。
だがここでふと疑問に思う。
明迅学園に転入しないのであれば、なぜわざわざこのような話を私にするのだろう。
この話と六天高校を辞める理由に何の関係があるのだ……?
そう思い遠回しに尋ねると、彼の口から思わぬ言葉が飛び出した。
「追い払った時、男たちが最後に言ったのです。『お前の通う高校がどうなっても知らないぞ』と」
「何だと……!?」
「あの者たちは家族だけではなく、この学校まで人質に取ろうとしています」
どうなっても知らないぞ、か……
実際に警察や警備会社への依頼を妨害されたり、既にやつらからの被害は受けている。
これ以上何かされる可能性があるという事なのか。しかもその理由が朔彦くんを自分の学校に入れるため。
いくら彼が優秀な生徒だからといえ、ここまでするのか?
一体彼の何があの一族をそうさせるのだ……?
「俺がこの学校にいる限り、今度はここに危害を及ぼす可能性がある。そう思い、両親と話し合った結果、自主退学する事に決めました。 ……両親があのような嘘を吐いた事はお許しください。きっと、やくざに目を付けられているなど余計な心配をかけさせたくなかったのでしょう」
「朔彦くん、君は……」
「俺は六天高校を気に入っております。叶うのならば、卒業までここにいたい。ですが、俺の個人的な事情でご迷惑をおかけしてまでいたいとは思わないのです」
このような形で去ってしまう事、誠に申し訳ございません。
そう言って少し寂し気に微笑む朔彦くんに、私は胸が締め付けられるような思いだった。
同時多発転生が起きなくとも、今回の退学は十分に起こる可能性があった。学校全体の事を考えれば、爆弾を抱えた彼を切り捨てるのが正しいのだろう。
だが何の非もない、この学校が好きだと言ってくれる生徒を守ってやれなかった自分が酷く不甲斐ない。
どうすれば、彼に卒業までここにいられるように出来たのだろうか。
「どうか、自分を責めないでください。理事長先生の頑張りは、俺だけでなく他の生徒や教師たち皆が知っております」
顔を上げると、朔彦くんが真っ直ぐに私を見つめていた。髪と同じ夜のような瞳は、どこか吸い込まれそうな不思議な雰囲気がある。
彼のその瞳に、取り繕ったお世辞や偽りは感じられない。
「ありがとう。そう言って貰えると、私も嬉しいよ」
その気持ちが素直に嬉しく礼を言うと、彼も口元に小さく笑みを浮かべて頷く。
そして彼は、今回自宅にやって来たやくざの情報について教えてくれた。
「独自で調べたところ、自宅へ来た黒服の男たちは『千寿組』と呼ばれるこの地域一帯を牛耳るやくざだったようです。俺がこの学校を去っても、万が一の場合もあります。千寿組の動きには十分にご注意ください」
千寿組。表では建築会社だが、裏では古くからこの地域一帯のやくざを束ねる一大組織だ。先代の組長が亡くなってからは少しずつ弱体化し、今は糸杉一族と繋がりを持つ事で力を保っている。
確か現社長兼組長の一人娘が、明迅学園にいるはずだ。
「分かった。十分警戒しておこう」
「何も起こらなければ良いのですが……巻き込んでしまい、本当に申し訳ございません。よりにもよって今、理事長先生も大変でしょうに」
「気にしなくていい。君のような者がうちの生徒になってくれて本当に良かったと思っているのだ」
糸杉の事だ。同時多発転生がきっかけになっただけで、遅かれ早かれこうするつもりだったのだろう。彼が完全なる被害者であるのは事実で、責める理由はどこにもない。
彼の最後の言葉は今の現状だけではなく、綾斗の停学の事も含まれているのだろう。
綾斗が停学になり生徒会長の任を解かれたのは、教師を始め前世に引っ張られていない生徒に大きな衝撃を与えたようで、話が広まってから三日くらいはその話題で持ち切りだった。もちろん彼の耳にも入っているだろう。
にこやかに答えた私に、朔彦くんは少しだけ安心したようだった。




