28.たゆたう【Side:A.H.】
淹れたての紅茶。焼き立ての食パン。出来立ての黒胡椒がかかった目玉焼きとウインナー。全ての香りが部屋中に混ざり合い、深みを持って広がる。
いつもと何ら変わらない朝食だ。
そんな食事を前に、僕は熱々の食パンに黙々とシュガーバターを塗っていた。
――綾斗あんたさぁ、自分がどれだけ恵まれてるか分かってんの?
先日言われた言葉がぐるぐると頭を回っている。
侑里の家庭環境を考えれば、そう言いたくなる気持ちも分からなくはない。
でも他所は他所、うちはうちだろう。
どの家庭にも種類や大きさは違えど、必ず何か問題があるものだ。
――今までずっとお父さんの力で生きてきたようなもんなのに、よくあんな事言えたよね。
確かに僕はずっと父さんの計らいで生きてきた。良くも悪くも。
入試試験を白紙で出したのも、その場任せの感情であったのは間違いない。
歩み寄ろうとした相手に対してきつく言い過ぎたかもしれない。
でもあれは間違いなく、今までずっと溜め込んだ僕の本音だった。
少なくとも、本音を言ったことで心の奥にあった鉛は随分と軽くなったのだ。
「……と」
――妾は疑っておるのじゃよ。今のお主が本当に八千代を守れるのか。
――守れないだけならまだしも、また同じような事をするのではと思うと……妾は不安で不安でしょうがないのじゃ。
猫をかぶった口調から、本来の口調へと変わる。
そんな事、あるわけない。
アイリーンに啖呵を切ったように、あれは前世と今世両方の願いと決意であるのだから。
僕が蒔いた種なのだから、必ず守り抜いてみせる。
そしてこの騒動を終わらせて、平穏を取り戻して、この世界で今度こそ。
そのためならば、命だってかけてやる。
そう。同じ過ちなんて、絶対に……
「……やと」
――今のお主は記憶と力だけを持ったただのクソガキ。
――その性根を何とかせねば、お主は確実にまたあの二人を傷つけるぞ?
そう、それは絶対に……?
アイリーンの冷たい笑みが脳裏に蘇る。
僕は今後、決してあの兄妹を傷つけることはない?
僕はクソガキ? 僕の性根が腐ってる?
そんなの、僕自身が一番よく分かっている。
「――綾斗!」
強い口調で名前を呼ばれはっと我に返る。顔を上げると、向かい側の席に座っていた父さんが心配そうに僕を見つめていた。
「何度名前を呼んだと思っているんだ」
「……ああ」
軽く頭を下げると、僕はトーストの角をかじる。
何も考えずに塗っていたせいで、トーストに塗られたシュガーバターは適量よりもかなり多く、甘ったるい。
「随分、浮かない顔をしているな」
心配そうな表情はそのままに、父さんは眉間に皺を寄せた。
「月曜の朝はずっとそわそわしていたのに、その日帰宅してから今日までずっとそうだ。何かあったのか?」
そう言って、まだ熱々の紅茶に平然と口を付ける。
「……別に何もない」
素っ気なく答えて食事を再開する僕に、父さんはしばらくじっと僕を見つめる。何か言われるかとも思ったが、そんなことはなく父さんもそのまま食事の続きに入った。
アイリーンにああ言われてから既に四日が過ぎ、今日はもう金曜日。一週間というのは早いものだ。
その間ずっと今と同じような事を考えていたが、気づかれていたのか。
僕が三縁兄妹と和解し、父さんに逆ギレして本音をぶちまけたあの一件から。
父さんは必ず僕と朝食を取るようになった。
父さんは基本的に仕事が忙しく、朝は僕より早く家を出て、夜は僕より遅くに帰ってくる。加えて、高校受験期に決定的に関係が悪化してからは、一緒に食事を取ることはほとんどなくなっていた。
だが僕が三縁兄弟の送り迎えをすることになり、それは一変する。
起床時間が早くなったため、朝の行動時間が同じになったのだ。
最初父さんが僕の朝食も用意して待っていた時は面食らった。
その時は自分の部屋に持って行こうかと思った。ただ部屋に持って行けばそこで食べかすをこぼすことになる。フローリングのこの部屋とは違い、カーペットが敷いてある僕の部屋ではその後の掃除が大変だ。それが嫌で渋々一緒に食べることにした。
ただ全て用意されるのは癪だったから、次の日から紅茶以外の食事は僕が作っている。
相変わらず夜は仕事が忙しいのか、僕一人での食事だ。今までもそうだったし、別に何の不満もない。
それにこの現状で忙しくないわけがない。きっと生徒の問題行為に加えて、急増する休学者と自主退学者への対応に追われているのだろう。
食事中、父さんは僕に一方的に話しかけてくる。
そのほとんどが大して中身のない話だ。今日は天気がいい、とか。学校の花壇の花が綺麗に咲いた、前世に引っ張られた生徒たちにぐちゃぐちゃにされなくて良かった、とか。
僕は適当に相槌を打つか、一言二言答えることしかしないのに。
僕が反応してくれるのを待っているのか。放っておけばいいのに、飽きもせず、根気強く話しかけてくるのだ。
食事を終え、食後の紅茶を飲んでいた頃。新聞を眺めていた父さんは今日も僕に声をかける。
今日も意味のない、つまらない話だろうと思っていたが――今日の内容はいつもと少しだけ違っていた。
「綾斗、夜久朔彦くんを覚えているかね。剣道の先生のお子さんの」
「……覚えてるけど」
久々に聞いたどこか懐かしい名前に相変わらず素っ気なく返したが、内心僕は驚いていた。
小学生の頃に習っていた剣道。苦い思い出もあるが……楽しかった。
運動音痴のせいで全く強くなれなかった僕でも楽しいと思えるようになったのは、僕が通っていた夜久流剣術道場の師範兼道場主――夜久朔太郎先生のおかげに他ならない。
彼の教え方は、時に厳しく、けれども優しい。試合で勝つことよりも、剣道を楽しめる心が一番大切なのだと僕に教えてくれた。過去の習い事で教わった先生の中でもダントツで好きな先生だ。
そんな彼の長男、夜久朔彦。僕の一つ年下の彼は、恐ろしい才能の持ち主だった。
恵まれた体格。元から持っていた才能に、父自ら剣術を叩き込まれ、そして本人も真面目にそれを吸収した。正に努力の出来る天才。その結果、同年代にはまず敵う相手はおらず、大人相手にもかなりいい勝負を繰り広げられる。大会でも負けなしで、夜久流剣術道場の次期師範代兼道場主であることは誰から見ても明らかだった。
そんな彼だから、僕はてっきり中学を卒業したら高校へは進学せず、道場を継ぐための修行に入るものだと思っていた。
だが彼は去年、六天高校へと進学してきた。
剣道部に風紀委員と精力的に活動しているようで、何度か見かけたこともあったが、一度も話したことはない。
最後に見かけたのは、いつだったか。
ああ、思い出した。前世に引っ張られた生徒にガンつけられてた剣道部の後輩を庇っていたのを見かけたな。
僕には関係ないと、その時は素通りして行ったけど。
剣道をしなくなってから、彼の名前など今まで一度も出なかったはずだ。彼がこの高校に入学してきた時でさえ。
訝しむように父さんを見て、紅茶を飲もうとティーカップを口に近づける。そんな僕を見つめ返して、父さんは少し寂しそうに言った。
「彼、今日で六天高校を辞めるそうだ」
予想だにしていなかった言葉に、口元まで持って行きかけたティーカップが止まった。
辞める? あいつが?
僕は最後に見た夜久朔彦の姿を思い返す。
後輩を庇うあいつは理性的で、少なくとも前世に引っ張られておかしくなっている感じではなかった。退学後、精神科に入れられるようにはとても見えない。
この現状で部活動は完全に停止してるし、剣道が出来なくなるから辞めるのか?
だがいくら校内は安定したとはいえ、あいつが後輩たちを放って退学するのか? あのクソ真面目な正義漢が?
「そうなのか。一度決めたことは最後までやり通すやつだと思ってたから、少し意外だった」
それだけ言って、僕は紅茶を口に含む。
……疑問は尽きないが、今日でいなくなる相手だ。きっと今後もう関わることもないだろうし、気にするだけ無駄だ。
その時傍に置いていたスマホの通知が鳴り、画面にメッセージが表示される。
相手は侑里……いや、アイリーンからだ。
今日の放課後 屋上に来い
ティーカップを置くとスマホを手に取り、そのたった十一文字の言葉を見つめる。
最後にした会話がアレで、このメッセージだ。
とても嫌な予感がする。あいつ、一体何をする気なんだ。
緊張でごくりと喉を鳴らす。意識がメッセージに集中していたせいなのか、父さんが僕をじっと見つめていることにも気がつかなった。
梅雨に入り始めた空には、鉛色の雲が広がり始めている。