24.深紅の蜘蛛
「そういえば、八千代遅いですね」
オレたちがここで話し始めてからずいぶん経つ。委員会の打ち合わせが長引いているのだろうか。
昼休みの残り時間も少なくなってきたし、もう少し待って来なければ放課後に回した方がいいかもしれない。
そう蓮水先輩に提案しようと口を開こうとした時だった。
「……ん?」
ふと視界の端に赤いものが動いた気がしてその方向に顔を向けると、ちょうどその赤いものが地面を這いながら木の陰に入って行くところだった。
生き物、なのか? だがあんな赤くて大きい生き物、この辺りにいるだろうか……
それが何なのかどうしても気になってしまい、オレはベンチから立ち上がると赤いものが這って行った木まで向かった。
木の周りを見てみるが、赤い物体は見つからない。
気のせい、ではないだろう。ハッキリ見たのだから。なら見失ってしまったのだろうか。
そう思い、何気なくその木を見上げた時だった。
「――ヒイイッ!?」
そこにいたものに、思わず自分でも情けない声を上げ腰を抜かしてしまう。
「どうした!?」
オレの声を聞いた蓮水先輩が慌ててオレの元へとやって来た。
オレは腰を抜かしたまま後ずさり、震える指で木の上方の幹に留まっていた『それ』を指差す。
「お、オレ蜘蛛だけはダメなんですよ……!」
そう、オレは蜘蛛が苦手である。
昔家で寝ていた時、顔の上に特大サイズの蜘蛛が落ちてきて以来……現在までオレの唯一苦手な生物となってしまっているのだ。オモチャでも身震いを感じてしまう程に。
あのシルエット、毛の生えた八本の足、動き方。全てがダメだ。
だが、今留まっている蜘蛛はいつも見かけるものとは何もかもが違っていた。
大きさは野球ボールほど……つまりここらで見かける蜘蛛にしてはサイズがかなり大きい。またその全身が暗い赤色をしている。深紅と言った方がいいのかもしれない。
そして何よりも――その蜘蛛からは『生きている』感じがしない。もぞもぞと動いているから生きてはいるのだろうが……動いていなければ置物と見間違えてしまいそうなほど、無機物っぽさを感じる。
つまり、どう見てもただの蜘蛛じゃない。
「あ、あの蜘蛛は……!?」
深紅の蜘蛛を見た蓮水先輩の目が見開かれる。
「アレが何か分かるんですか先輩!?」
「あ、ああ。あれは……」
すると待ってましたとばかりに、木に留まっていた深紅の蜘蛛がオレたちの目の前に落ちてきた。
反射的にオレはギャアと叫んで飛び起き、先輩の後ろに隠れる。
情けない限りだが、ダメなものはダメなのだ。
蜘蛛はオレたちをじっと見つめると、オレたちから離れ、もぞもぞと地面を這って行った。
その蜘蛛を目で追っていくと――
「望クン、怖がり過ぎじゃなーい? あたしちょっと傷ついちゃうなー」
そこには頬を膨らませた矢吹先輩が立っていた。隣には八千代もいてオレたちに手を振っている。
この二人同じ図書委員会だったな……と今更ながら思い出す。
前回あんな別れ方をしたため、次会う時が心配だったのだが、矢吹先輩はいつもと変わらずのほほんとしていたので、オレは内心ホッとした。
やって来た蜘蛛に矢吹先輩がしゃがんで手を出すと、蜘蛛は先輩の手を登っていき、肩に留まる。
蜘蛛は何をするわけでもなく、とても大人しい。
そんな矢吹先輩に、蓮水先輩が不審そうに眉を寄せながら声をかけた。
「どうしてお前までいるんだよ」
「八千代から綾斗が何か見つけたって聞いてさぁ。ぜひあたしにも聞かせて欲しいなーって思って」
にっこり笑って「あたしだって頑張ってるんだよ?」と言いながら、矢吹先輩は肩に乗せた蜘蛛を撫でた。
あまり見たくはないのだが、日光に当たるとその蜘蛛の異質さがよく分かる。無機質っぽいなとは思ったが、よく見ればこの蜘蛛……石のような質感じゃないか?
「矢吹先輩、その蜘蛛は」
「このコ? あたしが召喚してるコの一匹だよー」
「しょうかん」
蜘蛛を指差し恐る恐る尋ねると、先輩は平然とそんな事を言う。
目を瞬かせ「召喚……」と繰り返すオレに、八千代が説明してくれた。
「えっと、話す機会が中々見つからなかったんだけど。侑里先輩……の前世のアイリーンはこういう蜘蛛をいっぱい出して操れたんだよ。今はこの力を使って、学校の情報収集をしてくれてるんだ」
「このコたちはあたしの目であり耳であるからね、校内で起きる事なら何でもお見通しだよ。一応このコ入れて三百匹、学校中に忍ばせてる」
「さんびゃっぴき」
血の気が引いていくのを感じる。コレが校内に三百匹もいるのかよ。想像するだけで全身に鳥肌が立つんだが。
……矢吹先輩を敵に回すのだけは絶対に止めておこう。
だがオレの苦手な蜘蛛であるという点を除けば、矢吹先輩の力はとても有用なものだ。
この蜘蛛がいわゆる監視カメラ兼ボイスレコーダーであるのなら、諜報には打って付け……ん?
ここでふと思う。
この蜘蛛がオレたちの傍にいたという事は――
もしかして、さっきの蓮水先輩との会話……全部矢吹先輩に聞かれてた?
そっと蓮水先輩を見ると、蜘蛛を見つめながら引きつった笑みを浮かべている。
ああそうか、きっと全部聞かれていたんだな。
せっかく八千代も矢吹先輩もいないところで話したのに、これじゃあ意味がないじゃないか。
蓮水先輩は毛づくろいをする蜘蛛を睨み付けるように見ながら、矢吹先輩に尋ねる。
「それをいつからやってるのかは知らないが、何か有用な情報はあったのか?」
「うーん、最近の校内で話題になるのは専ら生徒の休学や退学の話題だしー、誰がそうなるか知りたい?」
休学や退学の話題、か。
矢吹先輩の言う通り、最近学校を辞めたり休んだりする者が少しずつ出始めている。
前世に引っ張られておかしくなった生徒を親が精神科に入れるパターンがほとんどだが、中には不良ばかりになった学校に耐えられず自ら学校を辞めていく者もいた。
同時多発転生の影響は、確実に現れ始めている。
このままでは、理事長が話していた通り――六天高校は運営出来なくなってしまうだろう。
それだけは避けなければならない。
そう決意を新たにした時、矢吹先輩が再び口を開く。
「それともさぁ」
いきなり下がった声のトーンにオレは思わず矢吹先輩を見て、背筋が凍った。
矢吹先輩の蓮水先輩を見る目が、あまりにも冷ややかだったからだ。
「――何か聞きたい事でもあるの?」
そう言って目をスッと細めて笑う矢吹先輩に、蓮水先輩は睨み付ける目を強くした。
「……ちっ。いや別に……何もないさ」
舌打ちをして苦々しくそう言った蓮水先輩は、ようやく蜘蛛から目を離す。
オレと八千代はただただ困惑していた。
何でこの二人、こんなにバチバチしているんだ……?
確か二人は昔馴染みだったはず。前に矢吹先輩が蓮水先輩の事を話していた時は、こんな感じじゃなかったと思うんだが。
オレたちの知らないところで喧嘩でもしたのか……?
そんなオレたちに気づいたのか、蓮水先輩はハッとしてオレたちに笑みを浮かべる。
どことなく張り付けたような笑みだった。
「それより皆揃ったんだから、今朝言ってた事の話をしようか」
「え? ええ……そう、ですね」
そうだ。矢吹先輩の蜘蛛ですっかり忘れていたが、今回集まった本来の目的は、その話をすることだ。
矢吹先輩も今は有用な情報を持っていないみたいだし、昼休みも時間が残っているわけではないし……何よりも今はこの空気を何とか切り替えたい。
オレと八千代は困惑しながらも、その話を聞くために頷いた。