20.少年は生きることにした【Side:A.H.】
この世界が嫌いだった。
物心ついた時には、既に母さんはいなかった。
そんな自分の世界にあったのは厳格な父さんと、二人で住むには広すぎる家。
父さんはとにかく厳しかった。
幼稚園の頃から塾に始まり、習字、ピアノ、剣道……他にも沢山の習い事。息を吐く間などありゃしない。
僕の交友関係も隙あらばチェックし、口を出した。別に口を出さなくったって、日々の習い事に追われて友人と遊ぶ暇なんかないというのに。
運動の才能がからっきしだったおかげで、体育系の習い事は小学校卒業を機に全て辞めさせられた。
上手く出来なかったけど、剣道、やっと楽しいと思ってきたところだったのにな。
楽しくなってきたところだったから、中学校では剣道部に入るつもりだった。下手くそでも、同じ部活の仲間と一緒に楽しく切磋琢磨出来れば良かった。
「才能もないのに続けても何の意味がある。惨めになるだけだ、辞めなさい」
けれど、その望みは父さんのその一言で一蹴された。
楽しいから続けたいのだといくら言っても聞こうとしない。きっと父さんは、道場にいた僕の一つ年下のヤツと勝手に比較しているのだ。道場主の息子だったあいつは確かに剣道の才能に溢れていた。でもすごいと思うことはあれど、一度も比較して惨めになったことなんかなかったのに。
部活に入るには親の承諾が要る。結局僕は部活には入れず、代わりに塾の時間を増やされた。中学の三年間は帰宅部として過ごした。
ずっと、父さんの言いなりだった。
そんな父さんに我慢が出来なくなったのは、高校受験の話になった時だ。
塾のおかげか、勉学に対しては中学でも上位の成績を維持できていた僕は、志望校に迷わず明迅学園を選んだ。
明迅学園と言えば、県内でもトップクラスの高校だ。今の学力ならば十分合格できる。今まで自分に散々勉強をさせてきた父さんならば、まさか反対はしないだろうと思っていた。
「あの高校だけは駄目だ。止めなさい」
意味が分からなかった。
理由を聞けば、父さんと明迅学園の経営陣は仲が悪い? 入ったらそいつらにいじめられる?
……そうなってしまうのは、父さんのせいで僕には何の落ち度もないだろ。
将来の事を考えれば、間違いなく明迅に入るのが一番いいのに。
こっそり入学願書を出そうとしたが、既に根回しされていたのか中学校の教師に止められて終わった。
結局、父さんの経営する六天高校を無理矢理受けさせられ、試験問題は白紙で提出したのになぜか合格。
届いた合格通知を見て、僕は完全に冷めていた。
これで晴れて僕も裏口入学って訳か。こんなの、お前が一番嫌っていたことなんじゃないのか?
僕の人生って、一体何なんだ――?
「綾斗はちょっと色々考えすぎだよー、もちょっとのほほーんと生きてもいいんじゃなーい?」
幼馴染がポテトチップスをほおばりながら呑気にそんなことを言う。なぜか高校まで一緒になったこいつはどこまでもマイペースだ。成績はあまり良くはない……が、持ち前の明るさで器用に生きている。
僕なんかと違って自由に生きているそいつが腹立たしくて、羨ましくて、僕は次第に距離を置くようになった。
高校生になってからはただただ適当に、無気力に過ごした。
気力が湧かなかった。ある日突然不慮の事故で死んでしまっても、全然構わなかった。
それなりの成績を維持していれば、父さんも何も言わない。
僕に箔を付けたいのか知らないが気づいたら生徒会長に推薦されていたが、こんな学校のことなんて知るか。そんな気持ちとは裏腹に、理事長の息子という理由だけで周りの生徒は皆僕を生徒会長に選んだ。……意味が分からない。
父さんとも学校以外で会話はせず、生徒会長の仕事も適当にこなし、特定の友人も作らず、ただ無駄に時間を消費する日々。
この世界が嫌いだった。
そんな世界に抗うことも諦めて、ただ流されるだけの自分が嫌いだった。
そう思って、生きてきたから。
思い出した時、そこで本当に自分が生きていたのか疑った。
決して平和な場所ではなかった。世界自体の寿命が近く、全ての生命がどうにか生き残ろうともがいて争い、奪い合う。
そんな世界で前の僕が生きていた理由は、決して自分のためではなく――
自分の全てを捧げてもいいと思えるほどに、大切な人。
荒廃した世界でそんな人のために生きる姿は、きらきらと輝いていて、とてもうつくしい。
どんな死に方であったとしても、決してこの世界に絶望したわけじゃない。大切な人と、大切な人が掲げる信念に寄り添って、満足して死んでいった。
そんな前世の自分に、どうしようもなく、憧れた。
一つだけ心残りだったのは、死ぬ直前に感じた胸の痛み。
当時は気がつかなかったけど、気がつかない振りをしていたけれど。
きっと前の僕は、本当はその人を、一緒に死ぬのではなく、守りたかったのだろう。
だったら、今世ではそうしよう。
前世の僕の未練は、蓮水綾斗が断ち切ってやろう。
――いいや、違う。
今まで何もしなかった、こんなに自堕落な人生を送ってきた蓮水綾斗なんかに、出来るわけがない。
『蓮水綾斗』ではなく、『ルカ』にならなければ。
『ルカ』になって未練を清算できれば、きっと今のクソみたいな日々もあの時のような満ちた日々に変わるに違いない。
あの日々に戻れれば、他には何もいらない。
そうか。きっと、このために思い出したんだ。
見つけた大切だった人は、僕の記憶とは全く違う姿だった。
僕という例がある以上分かっていたはずなのに、どうしようもなく腹が立った。
隣には今世での兄がいて、仲睦まじく歩く姿を見せつけられて余計に苛々した。
この兄は有名だ。通称、狂犬。別の中学だったにも関わらず『三縁八千代に余計なちょっかいをかけて兄を怒らせてはいけない』と噂が流れてきたほどだ。妹をストーカーしていた男を殴って明迅学園を退学になったと、風の噂で聞いている。
きっと今までもずっと、そうやって妹を守ってきたのだろう。自分の身がどうなろうと気にせずに。そして恐らく今回も、妹を守るためにこの学校に入ってきたのだろう。
その立場が、自分じゃないことが、許せなかった。
元の姉上に戻さなければ。
元の姉上に戻ってくれれば、あんな弱い奴に守ってもらう必要はないはずだ。
前世の力を取り戻した今、あんな奴よりも――僕の方がずっと姉上を守ってやれる。
それからの行動は早かった。
三縁八千代に姉上に戻るよう強要した。周りに姉上の正体を広めて逃げられないようにした。止めようとした兄を殺そうとした。それでも駄目なら一緒に死んで、新しい世界でやり直そうとした。
それが最早、自分がなろうとしていた『ルカ』とは程遠いものであることにも気づかずに。
◆
外は暗い。もう学校には生徒も教師もほとんど残っていないに違いない。
二人が部屋を出て行ってしまってから、お互い無言のまま、五分程の時間が過ぎていた。
姉上からは「お互いに話すことがあるんじゃないか」と言われたが、正直どう話を切り出せばいいのか分からない。ここ三年程、まともに話をしてこなかったのだ。
でも、今回の件に限っては全面的に僕が悪い。少なからず父さんにも迷惑をかけた。理事長の息子が停学かつ生徒会長解任なんて、恥晒しもいいところだろう。
謝罪だけは、しておこう。
僕は席を立ち、さっきまで三縁兄妹が座っていたソファに座りなおすと難しい表情をしている父さんに頭を下げた。
「今回の件は、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ございません」
そのままの姿勢でしばらく待つが、父さんの反応は無い。
頭を上げて声をかけようか迷った時だった。
「……綾斗」
不意に父さんが僕の名前を呼ぶ。
さあ、どんな罵倒の言葉が出る。今回に限っては、どんな罵詈雑言も全部聞き入れるつもりでいた。
「――そんなに、今の生活が嫌だったのか?」
思ってもいなかった言葉に僕は頭を下げたまま、困惑した。
恐る恐る顔を上げると、父さんがどこか悲しそうに僕を見ている。こんな父さん、今まで一度も見たことはない。
黙っていると、父さんは僕を見つめたままぽつりぽつりと話し出す。
「お前の母さんは、元々体が弱かったせいか、お前を生んですぐに亡くなってしまった。男手一つだが、私なりに大事に育ててきたつもりだ」
「――どこがだ?」
その言葉に、思わずカッとなって言い返していた。
父さんがわずかに目を見開く。一度出てしまった言葉は、止まらなかった。
「習い事で雁字搦めにして、本人の意思なんて無視して、親の見栄で勝手に生徒会長になんかして、どこが大事に育てた? 自分の高校に裏口入学なんかさせて、結局は自分の理想の息子を作りたかっただけだろ?」
僕の言葉に、父さんは顔を青ざめさせている。その表情からは図星か、そうじゃないかは読み取れないけれど。
だが――
「……はは」
思わず自虐的な笑みが漏れる。
今言った言葉に、僕は激しい自己嫌悪に襲われていた。
『本人の意思を無視して』、『理想の息子を作りたかった』か……
「何だ、僕はお前と同じことを姉上にしていたんじゃないか。やっぱり腐っても親子なんだな」
本当は僕が怒られなきゃいけない状況なんだが、もういいや、今更だ。
完全な逆ギレだが、この際全部ぶちまけてしまえ。
僕はソファから立ち上がると、今まで溜め込んだ鬱憤を晴らすかように叫んだ。
「そうだよお前の言う通り、今の生活なんて嫌で嫌でしょうがなかったさ……! 何をする気にもなれない、やりたい事を見つけても止められるだけなんだから! 毎日がつまらなくてつまらなくて、いつも、どこかの誰かが僕のことを殺してくれないかななんて思ってた……!」
こんなに父さんに話しかけるなんて、高校受験の時以来だ。父さんは愕然とした表情で僕を見ている。
そんな父さんに、僕はふっと笑いかけた。
「でも今は、新しい夢を見つけたんだ」
さっきとは別の驚きを見せる父さんに僕は話してやる。
ついさっき、出来たばかりの夢を。
「この騒動を終わらせて、自分が引き起こしたことにケリをつけて、今度こそ姉上たちと笑って生きる。あの兄妹はこんな僕の目を覚まさせて、導いて、許してくれたのだから……少なくとも今はもう、死にたいなんて思ってないさ」
あの兄妹と知り合ってから、まだ三日も経っていない。
――やりましょうよ! ずっと願ってた事なんでしょう!?
酷いことを言って痛めつけたのに、許していないと言いつつも、真実を知って絶望する僕に発破をかけて導いた兄。
――それでも良ければ、わ、私とっ友達になってくれませんかっ。
兄以上に散々な目に遭わせて取り返しのつかない事までしたのに、許すどころか友達になりたいとまで言った妹。
……どちらもお人好しが過ぎる。
でもそれに、僕は救われ、夢を見たのだ。
ならば、そんなお人好しどもに最後まで付き合ってやろうじゃないか。
「――でも」
父さんをきつく睨み付けながら、最後に自分の口から出たのは、想像していたよりもずっと殺気に満ちていて、底冷えした声だった。
「この夢をまた止めようとするのなら……いくら親だろうが、僕は許さないよ」
理事長室がしんと静まり返る。
父さんは固い面持ちで、僕を見ていた。
「それが……お前の本音なのだな?」
数秒の沈黙の後、父さんから発せられた確認の言葉に僕はゆっくりと頷く。
父さんは強く目を閉じて「そうか」と頷いた。そのまま今度はあちらが頭を下げる。
「今までの件については……本当に申し訳なかった」
顔をしかめる僕に、父さんはそのまま懺悔するように話し始める。
「言い訳にしか聞こえないかもしれない。だが、お前に要らない苦労はかけさせたくなかったのだ。色々な習い事をさせたのも、お前の得意な分野を見つけて早くそれを伸ばしてやりたかった。向いていない事を続けても……意味はないと思ったのだ。入試試験を白紙で提出したのも知っている。それは、お前の学力は知っていたから……この学校に入っても全然ついていけると思って入れた」
そこで父さんは顔を上げた。目元に力を入れ、苦々しい表情をしている。
僕からすれば何を今更としか思えない。本当に悪気はなかったんだろう、だからこそ質が悪いんだが。
「だがお前に……『自分の理想の息子を作りたかっただけ』と言われて、完全には否定出来なかったのだ」
本当にすまなかった、と父さんはもう一度深く頭を下げた。
それを僕は一切無視し、荷物を持って出口へと向かう。引戸は僕の魔法で吹き飛んでしまったから、開ける手間が省けた。
出口の前で僕は振り返り、最後に深くお辞儀をする。
「今日は、本当に申し訳ございませんでした。停学について詳しい事が決まればまた教えて下さい」
「……綾斗」
他人行儀な態度を取る僕に父さんが悲しそうな顔をしているが、もう何も感じなかった。
きっと姉上たちは、僕と父さんの関係が改善することを望んで二人にしたのだろう。
でも僕らの家族関係は、あの兄妹のように綺麗なものじゃない。何年もかけて蓄積され、複雑に拗れてしまったものだ。
こんな態度を取ってるのに、なぜ今だに追い出されないのだろう。
高校卒業と同時に追い出されるかもしれないが、既に出て行く準備を少しづつ整え始めている。
心の中で自分を嘲笑う。
ルカと違って、僕は本当に子どもっぽくて性格が悪い。取り返しのつかない事をあの兄妹に許してもらった直後だというのに、同じように自分の親を許すことが出来ないとは。
そのまま出て行こうと背中を向けた僕に、父さんはもう一度僕の名前を呼んだ。
振り返らず、そのままの状態で制止する。
「今話してくれた夢については……今回のように他人に迷惑をかけさえしなければ、好きに叶えなさい。何かあれば協力しよう」
脅しに近いことを言ったからかもしれないが、僕のやりたい事を肯定されたのは初めてだった。
少しだけ驚いたが、これまでの行いが全てを台無しにしている。
「あまり期待はしてないよ……信用なんて、とうに地に落ちてるんだ」
それだけ返して、僕は返事も聞かずに理事長室を出て行った。
一連の会話を全て見ていたやつがいた事も知らずに。
夜風に当たりながら、帰路に就く。
学校周辺の治安は最悪だが、今の僕ならば何てことはない。
さて、これからどうしようか。
停学中にも、僕に出来ることはやらないと。まずはとにかく気になる所から片っ端に調べ上げてみるか。
この現象の原因を突き止めるといっても、今のところ何の手がかりもない。姉上たちだってそうだろう。
――姉上、か。
友達になったのだから『姉上』呼びは止めた方がいいのかもしれない。でも今更名前で呼ぶのも気恥ずかしい。
例え生まれ変わろうが、かつてルカだった僕にとって姉上であることには変わりない。でも今の姉上は『三縁八千代』として生きているわけだから、前の姉上と同一視されるのは嫌だろう。どうしようか。
そんな事を考えながら、僕は久しく感じていなかった高揚感を得ていた。
三縁兄弟への自分の行いがいかに間違ったことだったのか気づかされて。停学になって、生徒会長を解任になって、その直後、自分の父にあんな口を利いた。
そこだけ見れば、恐らく今は人生のどん底の日だ。
でも、新しい友達が出来た。
それだけでただ無気力に生きてきた日々よりも、ずっと清々しい一日だった。
Chapter.2はこれにて終了です。
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