01.非日常の幕開け
瞬間、視界が反転した。
「あまり図に乗るなよ、力もない下級民族の分際で」
腹に衝撃が走り、少し遅れて背中に衝撃が走る。
気が付けばたった今まで上にいたはずのオレは地面に仰向けに倒れており、そんなオレを生徒会長――蓮水先輩が冷たい目で見下ろしていた。
「がっ、は……ゲホゲホゲホ!」
「望兄さん!」
思わず腹を抱えて激しく咳き込む。
吐きそうになるのを必死でこらえながら、オレはたった今攻撃された腹を見つめた。
今、オレは一体何をされた?
腹に受けた衝撃は明らかに殴られた感触ではなかった。痛みの範囲も広すぎる。まるで空気の塊を勢いよく押し付けられたような……
八千代がオレに駆け寄り、腹をさすりながら体を起こしてくれる。
まだ痛む体を起こすと、八千代は泣きそうな顔でオレを見て「大丈夫?」と言ってきたので安心させるように笑って頷いた。
「兄さんに酷いことしないで下さい……!」
「先に手を出してきたのはそっちだろう、正当防衛だ。それにお前に兄なんていないぞ」
眼鏡を拾い上げかけなおした後、蓮水先輩はオレが殴った頬を指差しながら淡々と答える。
先に手を出した件については……確かにその通りだ。
今までもそうだがどうしても八千代の事になると頭に血が上りやすくなってしまう。
だがその後の言葉は何だ?
なぜ兄を前でそんなことを……正直、とても不愉快だ。
オレは改めて先輩――蓮水綾斗を見る。
間近でじっくりと見るのは初めてだが、線が細く中性的な体つきにこれまた中性的な整った顔立ちをしている。
そういえば、入学式で蓮水先輩が挨拶をした時、周りの女子が色めき立っていたような……
オレの観察するような視線に気が付いたのか、蓮水先輩もオレを冷たい目で見返す。
そのどこか吸い込まれそうな瞳には、どこか見覚えがあった。
「オレの質問に答えてください、どうして八千代を『姉上』なんて呼んでるんですか。先輩は八千代よりも年上ですし、血の繋がりもないでしょう?」
もう一度、問いかける。
今のやり取りを見ても、彼が八千代を『姐さん』といった意味で呼んでいるわけではなさそうだ。
「彼女が僕の姉上だからだ、当たり前だろう?」
いやいやいや、答えになってねーから!
今の質問、少なくとも『お前、頭ヤベーんじゃねーの』と遠回しに伝えたつもりだったんだが?
さも当然とばかりに返された言葉に絶句する。
蓮水先輩はゆっくりとオレと八千代に近づいてきた。慌てて起き上がり八千代を背に隠すと、彼は眉間にしわを寄せ、オレをゴミを見るかのような目で見る。
「そもそも、お前は姉上の何だ?」
彼が何でそんな質問をするのか見当もつかない。
彼が分からない。まるで宇宙人を相手にしているみたいだ。
「な、何だって……オレは兄の」
「姉上の姉弟は僕だけだ! 兄なんて存在しない!」
唐突に怒鳴りだし、思わず肩が跳ねた。
先輩は瞳孔を見開き、唾が飛んできそうな勢いでオレをまくし立てる。
その剣幕にごくりと唾を飲みこみ、黙り込むしかできない。どう見ても正気じゃない。
コイツ、頭ヤベーんじゃねーのと思っていたが予想を遥かに超えている。
呼吸が浅くなり、背中に変な汗が流れる。
生徒会長と言えどただの高校生のはずなのに、圧倒的高位の存在から睨まれているような圧を感じる。
怖い。
三年前の不良との喧嘩や、去年のストーカー事件の時でも感じなかった恐怖をオレは今感じていた。
「ようやく全て思い出して、今度は僕が姉上を守れると思ったのに! 何でぽっと出の訳の分からない奴が姉上のそばにいるんだよ!」
「先輩、止めてください……!」
八千代の制止の声に蓮水先輩の視線がオレの後ろに向くと、とろけるような笑みを浮かべる。
あまりの態度の変化に、ぞわりと鳥肌が立った。
「いい加減しらばっくれるのは止めないか、姉上。本当はもう思い出してるんだろう?」
後ろからひゅっと息を飲む音が聞こえた。表情は見えないが、動揺しているのだろうか。
しかしさっきから思い出す、思い出す……一体何のことだ?
他の生徒も似たような事を言っていたような気がするが……
そんな疑問を抱いた刹那――瞬きをしたほんの一瞬で、数メートル先にいたはずの先輩がオレの目の前にいた。
「邪魔だ」
え、と声を漏らす暇も与えず蓮水先輩に顔を鷲掴みにされ、急速に地面が近づいてくる。
オレは勢いよく頭を地面に叩きつけられていた。
「ぐ、あ……」
あまりの痛みに涙が滲み、呻き声が漏れる。
頭を起こそうと必死に抵抗するが、ピクリとも動かない。
一体この細い腕のどこにこんな力があるんだ?
視界の端で八千代が真っ青な顔でオレを見ている。
痛みへの悶絶と抵抗で身をよじらせるオレの頭を押し付けながら、蓮水先輩は心底楽しそうに笑い出した。
「ハハハッ、見ろよ姉上! こんな弱い男が兄だって!? こんなのが姉上を守れるものか! 姉上のそばにいるのは僕だけでいいんだ!」
痛い、痛い。
今叩きつけられた頭もそうだが、何だか最初先輩にやられた時から全身が熱くて痛い。
心臓の音がバクバクと鳴り、全身から汗が噴き出る。
「どうせこいつもお前の魔力に惹かれているだけだよ。姉上を守ることに酔ってるだけのただの軟弱者だ」
痛みで会話が頭の中に上手く入ってこない。
だが次の言葉に――オレは一瞬で痛みを忘れた。
「――いい加減にして下さい」
始め、オレは本当にそれが八千代から発せられたものなのか分からなかった。
その声は、いつも八千代が出す声色と全く違っていたから。
「思い出しているとかいないとか関係ない……!」
八千代は口をきゅっと結び、鋭い目で蓮水先輩を睨んでいる。
あの八千代が怒っている。いつも嫌な事があっても落ち込んだり笑ってやり過ごすだけで、怒ることなんて一度もなかったあの八千代が。
先輩を睨む目は、見たこともない不思議な色に輝いている。
八千代のこんな表情、初めて見た。
「貴方が何と言おうが、彼は今の私の兄です! いつも私の味方になって守ってくれた自慢の兄なんです! 私のせいで大怪我して入院したのに、高校も退学になったのに……何一つ責めずに私が無事で良かったって笑ってくれる人なんです!」
八千代がオレを押さえつけている先輩の腕を掴むと、ミシリと骨の軋む音が聞こえた。
オレの頭を掴む先輩の手の力が一瞬抜けた隙に、八千代は腕を振り払う。
そのまま八千代はオレを両手で抱え上げると、バックジャンプで先輩から距離を取った。
あれ? 今オレ持ち上げられた?
こんなに力持ちだったか?
今オレは八千代に横抱きにされている状態だ。
八千代の表情を見ても全く重そうに見えず、軽々とオレを抱え上げている。
八千代はオレをゆっくりと下ろすと、再度蓮水先輩を睨みつけた。
「勝手な憶測で兄さんを馬鹿にしないで……!」
八千代の力に混乱しながらも、彼女の言葉を飲み込んでいくうちにだんだん視界が歪んでいく。
胸が熱い。
八千代は普段あまり感情的に物を言うタイプではないから……オレのこと、そんな風に思っているなんて知らなかった。
どうしよう、素直に嬉しい。
だが、さすがにここで泣いちゃ妹に恰好がつかない。
オレはぐっと目を閉じ、どうにか涙をこらえる。
「貴方と話すことなんてありません。……行こう、兄さん」
八千代はオレの手首を掴むと、そのまま先輩に背を向け歩き出した。
オレも引っ張られるように蓮水先輩に背を向ける。
その時だった。
「やっぱり殺すか」
その台詞と共に起きたゴウッと強風が吹くような音にオレと八千代は思わず後ろを振り返った。
「は……?」
オレは目を疑う。
先輩の周りには視認できるほどの風の渦が取り巻いていた。
風は呻き声を上げながら、周辺の木々を揺らし、体育館のガラスを打ちつけている。
「え? は? え?」
オレはただただ目をぱちぱちと瞬かせ、狼狽えることしか出来ない。
きっと、傍から見れば相当なアホ面を晒していることだろう。
「そいつがいなくなれば、姉上は僕を見てくれるんだよね?」
そう言って八千代に笑いかける蓮水先輩の目は笑っていない。
オレの全身から血の気が引いていくのを感じる。
コイツ、マジでオレを殺そうとしてるのか?
……八千代の引きつった表情から見ても、冗談ではないみたいだ。
「死ねえっ!!」
先輩が手のひらをこちらに向けると、風の渦がオレ目がけて飛んでくる。
ただ固まっていることしか出来ないオレの前に八千代が飛び出した。
「――っ、やあっ!」
八千代が両手を前に出すと、目の前が眩い光で白く染まった。
風がオレに来る様子はない。よく見えないが、どうやら今の光で風を相殺したらしい。
「兄さん、逃げよう……!」
「や、八千代!? うわっ!?」
八千代がオレの手首を掴み直し走り出した。
風を切る音が耳に響き、景色がものすごいスピードで過ぎ去っていく。
オレをぐいぐいと引っ張っていく力は十五歳の少女とは思えない。
こ、コイツ足もこんなに速かったか? 運動は苦手だったはずなのに……
明らかな違和感を感じながらもオレは一連の出来事に完全にキャパオーバーしており、また八千代のスピードに合わせて足を動かすのに精一杯で、ただ手を引かれるままに走ることしか出来なかった。




