触れた星へ、愛を乞う。
・
真っ白。
目覚めたトワが最初に目にしたのは、白い天井だった。
(……ここが、死後の世界?)
痛みはないが、感覚もほとんどない。指先一本動かせない状態。
どうやら、ふかふかのベッドに寝かされているということだけは理解した。こんなにやわらかくて清潔なベッドで眠ったのは何年ぶりだろうと、トワは微睡みに身を委ねる。
石けんのにおいが心地よく、再び瞼を閉じようとしたとき。
「おはようございます、お姫さま」
傍らから、軽快ながらもどこかくぐもった声がした。
(誰?)
なんとか目線を動かすと、白いフードを目深に被った、マント姿の人間が立っていた。
声と体のラインで、それが男性だということだけは理解する。
「僕は医者のロクザンといいます。瀕死のあなたを拾って、国境そばの診療所まで運んできました」
(瀕死……。そうだ。わたしは、依頼に失敗したんだ)
トワは静かに唾を飲み込んだ。
男は彼女へ『お姫さま』と呼びかけたが、実際のトワは隣国からやってきた暗殺者だ。
親の顔はほとんど覚えていない。
物心ついたときには暗殺組織で育てられていて、十歳で既に『仕事』をこなすようになっていた。
そして今、十六歳。
――この任務が成功したら、組織を抜けさせてください――
強く宣言して飛び出してきたのに、このザマだ。
任務が失敗したどころか、怪しげな医者に看病されている。
(こんなことなら、死んだ方がよかった)
黙ったままのトワ。
ロクザンは立ち上がると隣の部屋から白い器を運んできた。
「薬です。飲めますか?」
トワが反応しないことには厭わない様子で、ロクザンはベッドの横に腰かけた。
そして銀色の細長いスプーンで、器の中身をすくう。
「とろみがついているから、むせることはありません」
ロクザンが、スプーンをトワの唇につけた。
促されるままトワは口をほんの少しだけ開く。
とろり、とゼリーよりもやわらかな液体が、トワの喉を通っていった。
(……苦っ)
トワは思わず眉をひそめる。
淡いピンク色の瞳が僅かに潤む。
(しまった。致死毒かもしれないのに、疑いもせず)
反応に満足したのか、ロクザンはくすくすと笑った。
「薬だから、苦いのは当然です。反応できるなら大丈夫そうですね」
ロクザンは器とスプーンを脇のテーブルへ置いて、空いた手のひらをトワの顔に翳す。
「いたるところの骨が折れ、大量に出血していました。普通ならば命を落としていてもおかしくありません。まずは、ここでしっかりと療養しましょう」
・
白い診療所に出入りするのは、どうやら怪しげな医者だけらしい。
褥瘡ができないように体の向きを変えてくれるときは、初めの方こそ警戒も緊張もした。
しかし、トワには皮膚感覚が戻ってきていない。なすがままにされている。
さらに全身は包帯でぐるぐる巻きにされている。魔法付与された包帯で、取り替えなくても清潔さが保てるらしい。
質の高い医療のフルコース。
日増しに、トワは罪悪感を増していった。
「なんで、見ず知らずのわたしを看病してくれているんだ?」
ある日のこと。
トワがベッドから尋ねると、ロクザンは両腕を組んでみせた。
「医者たるもの、傷ついている者を放っておくことはできません」
「たとえそれが暗殺者でも?」
もはや黙っていることはできなかった。
物心ついてから、他人に優しくされたことが初めてだったのだ。
「暗殺者は自分のことを暗殺者だと名乗りはしないでしょう」
「それはっ、そうだけど」
ぎゅっ、とトワは拳を握りしめた。
「……この国の第一王子を殺せという任務だった。王子を殺したら、組織を抜けてもいいと約束してもらえていたんだ。それなのに……」
「失敗して、返り討ちにでも遭いましたか?」
トワがこくりと頷く。
「与えられた地図に従って王城の裏手から侵入して、中庭から王子の部屋を見つけたところで護衛に気づかれた。そのとき解ったんだ。組織は最初から、わたしが失敗して逆に殺されることを見越していた。地図は欠陥だらけだったんだ。それに……わたしは失敗してもいいと思っていた。もう、人を殺したくなかった」
そしてロクザンへ顔を向けた。
「正直に言う。あんたがフードを被って顔を明らかにしないのは、わたしにとどめを刺すために送り込まれてきた組織の人間だからじゃないかって思ってる」
「面白い仮定ですね。だとしたら、どうするんですか」
ロクザンがくすくすと笑みをこぼした。
(肯定もしなければ、否定もしない)
トワは言葉を続ける。
「それならそれで、しかたない。わたしはたくさんの人間を殺して、罪を重ねてきた。それなのに組織を抜けて普通の人間になりたいって望んだことが、そもそも間違いだった。最後に王子を殺して、その後、平和に暮らせるか? ははっ、矛盾しているだろう。わたしは……ばかだ」
紛れもない、トワの本心。
ロクザンが信じるか信じないかは、どうでもよかった。
誰かに許してもらえるとも思っていない。
ただ、誰かに聞いてほしかった。
「暗殺以外の生き方は知らない。だけど、もう嫌なんだ。それでも人生の最後にちょっとだけ他人から優しくしてもらえたことで、生まれてよかったと思うことにする」
ロクザンは、何も言わなかった。
・
顔を見せない怪しい医者のかいがいしい世話によって、トワは、なんとか起き上がれるようになるまで回復した。
かさかさだった肌やぱさぱさだった金髪は艶を取り戻した。長さが不揃いになっていた髪の毛は、なんとロクザンがショートボブに整えてくれた。
大きな手鏡で自分の顔を見せられたトワは、素直に感心する。
「あんた、何でもできるんだな」
「その通り。僕は、何でもできるんですよ」
「謙遜って言葉を知らないのか」
ロクザンとの軽いやり取り。
不快ではなかった。
むしろロクザンとの会話は楽しく、朝、彼がやってくるのを楽しみにするようになっていた。
やがて、とろみのついた薬は、ふつうの飲み薬に変わった。
「……やだ。苦い。飲みたくない」
ベッドの上で、トワは頬を膨らませる。
するとフードを被ったままとはいえロクザンが顔を近づけてきた。
「飲めないなら口移ししましょうか?」
「い、いやっ、それはいい!」
ぐいっ。ごくっ。
トワは一気に薬を飲み干して、舌を出す。
「……うぇえ」
「おめでとうございます。よく頑張りましたね」
トワの口へ、ロクザンが何かを放り込んだ。
反射的にトワは口を閉じる。
「甘い」
「手を出してごらんなさい」
言われるがままにトワは両の手のひらをロクザンへ向けた。
しゃらしゃら……。
トワの手のひらの上は、あっという間に色とりどりの金平糖でいっぱいになった。
「これは?」
「金平糖といいます。とびきりの秘密を教えてあげましょう、お姫さま」
トワはロクザンに名乗っていない。
ロクザンも訊いてくることはない。お姫さま、と呼んでくる。
そのたびに、トワは胸が痛む。
最初の頃は、自分はお姫さまなんかじゃないと主張していた。しかし名乗りたくもないので、甘んじてその呼び方を許していた。
ロクザンが自らの人差し指を唇に当てた。
「誰にも言ってはいけませんよ。星は昼間なら、食べることができるんです」
トワの手の上で、金平糖はぴかぴかと煌めいている。
・
高い位置にある窓からは、夕方を告げる光が射しこんできていた。
「ごちそうさま!」
与えられた病人食を食べ終え、苦い薬も飲み干す。
トワはあっという間にほぼ普通の生活ができるようになっていた。
「驚異の回復力ですね」
ロクザンが微笑む。
応じて、トワはぶんぶんと腕を振り回した。
「当たり前だろ。体力には自信があるんだ」
ベッドから立ち上がったトワ。
全盛期より筋肉が落ちていても、普通の女性よりは体格がいい。
初めてトワはロクザンの目の前に立った。
(わたしより、頭二つ分、背が高い。間近で見ればマント越しでも判るくらい、筋肉もしっかりとついている。栄養状態もかなりよさそうだ。……やっぱり、この男はただの医者じゃない)
「世話になった。ここにこれ以上いてもあんたの身に危険が及ぶだけだから、明日には出て行くよ」
「危険なんてありません。あなたこそ、まだ万全の状態ではないでしょう。もう少しこの診療所で過ごすことです」
有無を言わせぬ口調。
ロクザンはトワの両肩に手を置くと、すっとベッドに座らせた。
トワは部屋をぐるりと見渡した。
そして、いたるところに目を凝らす。
(ずっと抱いていた違和感。部屋じゅうに細かい結界が張り巡らされていて、かんたんには逃げられないようになっている。やっぱりわたしは殺されるのかもしれない)
大人しくトワが座っているのを確認したロクザンは、窓辺に立てかけてあった弦楽器を手にした。
椅子に腰かけて足を組み、それをつま弾きはじめる。
♪~
哀愁漂うメロディーとゆったりとしたリズム。
まるで、手に入らない宝物を、愛おしむような曲……。
黄昏の光に包まれた室内に、穏やかな時間が流れる。
♪~
「……故郷の子守歌、みたいだ」
顔も覚えていない両親。
ただ、優しかったことだけは覚えている。
無念だっただろう、幼い子どもを残して逝くのは。
どうしてロクザンがこのメロディーを知っているのかは、どうでもよかった。
ずきずきと、トワのどこかにある心が痛む。
すっかり暗くなった頃には、トワの頬をひとすじの雫が伝っていた。
「帰りたい場所なんて、ないのに……」
弾き終えたロクザンは再び弦楽器を立てかけ、トワに近づく。
そしてトワの目の前で、ゆっくりとフードを取り去った。
トワは顔を上げる。
暗闇に包まれ、ロクザンの顔は、よく見えない。
(せっかくフードを被っていないのに、全然、顔が分からない……)
ただ、その瞳だけが淡く青く輝いている。
その美しさに、息を呑む。
(ロクザンの素顔を見たい。どんな表情をしているのか、知りたい)
――顔を見せて。
そう口にすることをためらった結果、生まれたのは最上級の賛辞。
「あんたの瞳って星みたいだな。とても、きれいだ」
すっ、と。
トワは無意識に両手をロクザンへ伸ばしていた。
傷だらけの手のひらが、ロクザンの頬に触れる。
ロクザンは拒むこともなく、むしろ、トワの手に自らの手を重ねた。
(生きている人間というのは、こんなに温かなものだったんだ……)
音のなくなった部屋。
トワは、自らの心臓の音だけを聞いていた。
・
数日後。
「よしっ! できたぞ」
トワが快哉を叫んだのには理由があった。
室内に生まれたのは綻び。
結界を解くことに成功したのだ。
(これ以上、ここにいることはできない。あのひとになら殺されてもいいとは思うけれど、たぶん、そんなんじゃない気がする……から)
ロクザンが悲惨な目に遭うのだけは、避けたい。
トワはそう考えていた。
彼が様子を見に来るまでにはまだ時間がある。
トワは、診療所の扉に手をかけた。
(国境そばの診療所って言ってたから、すぐ国へ帰れるはずだ)
任務に失敗した暗殺者の末路はトワにだって予想がつく。
すべては診療所を出てから考えればいい。
がちゃり。
鍵をあけ、ゆっくりと扉を開ける。
そして場所を確認するためにも空を見上げ……固まった。
「どうして」
青い空。白い雲。
トワの背後には、当初の目的地である城がそびえたっていた。
「まさか、ここは王城内だっていうのか……?」
状況を飲み込めずうろたえるトワの頭上に、黒い羽根が降ってくる。
ばさぁっ!
「!」
真っ黒な烏だ。
トワは、それが何かをよく知っている。
暗殺組織の伝令。
『王子を殺せ! 王子を殺せ!』
人間の言葉で、烏が告げる。
トワの背中に冷や汗が伝う。
そのときだった。
――とすっ。
背後から射られた矢が烏を仕留めた。
烏が地上に落ちるのと同時に、トワは肩越しに振り返る。
「……ロクザン!」
弓矢を手にしていたのはロクザンだった。
驚きながらも、トワは勢いよくロクザンに詰め寄る。
「どういうことだ、ロクザン。ここは国境近くなんかじゃない。王城内だ。説明してもらおうか」
「やれやれ。助けた相手に対しての発言とは思えませんね」
そして、白日の下。
ロクザンはゆっくりとフードを外した。
白銀の髪がさらりと光を帯びる。
夜空のように輝く瞳。
すっと通った鼻梁。
冷たさと美しさを纏った顔は、トワもよく知るものだった。
「……! 第一王子……!」
「ようやく気付きましたか」
半ば呆れるように、ロクザンが微笑む。
「アルジャン・ロクザン・ロワシエルというのが僕の名前です。暗殺者たるもの、標的の名前くらいちゃんと把握しておくべきでしょう。暗殺者トワ……いいえ、エトワール・ル・ヴォワゾン」
ぺたり。
トワは驚きのあまり、その場にへたり込んだ。
喉が乾き、うまく言葉を紡げない。
「……ど、どうして、名前を……」
「ずっと探していたからですよ」
ロクザンはトワの前に片膝をついた。
それから、手を差し伸べる。
「幼い頃に一度だけ。父に連れられ訪れた隣国の城で。花のように笑うあなたに出会いました」
トワは――エトワールは、震えて何も言うことができなかった。
「一目惚れというのが存在するならば、あなたの純粋な笑顔を見た瞬間がそれです。しかしその後すぐ、クーデターによって王族が城を追われたと知りました。王女は殺されたとも花街に売られたとも聞きました。やがて、数年にわたる調査によって、ある暗殺組織に送られ……悲惨な道を歩んでいたことが判明しました」
エトワールは、ロクザンの手を取ることができない。
待ちきれなかったのか、ロクザンは自らエトワールを抱きしめた。
「ずっと助けたかったんです、エトワール王女。遅くなって、すみません」
親の顔を覚えていないのは、壮絶な最期を看取ってしまったから。
ひとりだけ生き残ったことに罪悪感があったから、自らの出自を、封じ込めてきた。
(それなのに、思い出してしまう。記憶の匣が、開いてしまう)
優しかった人たちとの、穏やかな記憶を。
今の自分からはすべて零れ落ちてしまった、温かさを。
「……わ、わたしは王女じゃない。たくさんの罪を重ねてきた、咎人だ」
「そうですね」
ロクザンの力強い温もりは、一層の熱を帯びる。
「それならば、これから罪と向き合って生きていけばいいんです。そして、あなた自身の人生を取り戻していけばいいんですよ」
優しい声がエトワールの耳朶を打つ。
「救った者の責任として、僕も一緒に向き合います」
エトワールは。
そっと瞳を閉じて、ロクザンの想いに身を委ねた。
「おめでとう。今日は、君の第二の人生がはじまる日です」
・
ロクザンが命を狙われていた理由。
それは、隣国に干渉しようとしている危険因子とみなされたからだった。
「上手いことやりますよ。これも賢王になるための試練です」
そう言ってロクザンは肩をすくめてみせるが、ちっとも嫌そうには見えなかった。
寧ろ嬉々として厄介ごとに飛び込んでいくようにも見える。
『上手いこと』の一環には、エトワールの身元保証も含まれていた。
エトワールは公爵家の養女となり、今、貴族教育を受けている。
「何周遅れていたって、わたしには根性があるから。追いついてみせる」
「まずその言葉遣いを直しましょうか」
公爵家の温室で、エトワールとロクザンは向かい合って座っていた。
テーブルの上には温かな紅茶と、皿に盛られた色とりどりの金平糖。
ふたりが温室で会うときは、必ず金平糖が用意されている。
金平糖が星ではなくただの砂糖菓子だと知ったとき、エトワールは猛烈抗議した。しかしロクザンは楽しそうに笑うだけだった。
「……はぁい」
「一刻も早く王妃教育だって始めなければいけませんから、ね?」
「おっ、おう、ひ?!」
「話し方」
ぴしゃりと言われ、エトワールは縮こまる。
「想像を絶する壁がいくつも立ちはだかっているのですから、頑張りましょうね」
ロクザンが愉快げに片目を瞑る。
そして身を乗り出すと、エトワールの頬にそっと口づけた。
エトワールはあかく染まった頬を隠すように両手で覆う。
「……!」
「愛していますよ、エトワール」
ガラス張りの壁の外は、眩しいくらいの青空。
それから、赤、黄色、オレンジ、白、ピンク、紫。ふたりの未来を祝福するように、鮮やかな花が咲き誇っていた。
読んでくださってありがとうございました。
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