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クズの矜持  作者: 内巧海
ナーシャという女
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この世界はいかに1


 穏やかな女の声、弾むように高い子ども声。


 眩しい。瞼を開けても、まだ周囲はよく見えない。のぞき込んでくる人間の輪郭はぼやぼやと霞んでいて、男なのか女なのか、大人なのか子どもなのか、視覚だけではそれを判断するのが精いっぱい。


 しかし、とにかく眩しい。生まれたばかりの赤ん坊の目なのでまだきちんと機能していないが、光は律義に取り込んでくれるようだ。眩しい。

 カーテンが開けられているのか、直射日光に晒されているような強い光が目に突き刺さる。眩しいよぅ……


「ぁぁ……ぅ、ぅう、あああ!」


 眩しいからカーテンを閉めるか、何か日除けをください。と言えたらいいのだが、いかんせん私は赤ん坊である。自身の名すら知らない赤ん坊だ。

 眩しい、不快だ、そう思ったら途端に胸の奥がウズウズとして、その靄がみるみるうちに大きくなる。それを解放しようとすると、身体が勝手に泣き出すのだ。


 泣き出すと悲しくなる。胸のウズウズがどんどん広がって、もっと悲しくなる。

 結果、オギャア、オギャアである。


「―――、――――」


 穏やかな声をした女が、私の身体を抱き上げて、トン、トン、と背中を叩いた。女の身体が陰になったことで不快な日差しは落ち着いたが、胸の靄はまだとれない。


「―――?」


 女がなにかを問う。言葉がわからない。日本語ではないのか、それとも生まれ落ちた際に生前学習した言語能力を喪失したか。それにしても、私の思考は明瞭な日本語である。いや、そう思い込んでいるだけかもしれないが。

 わからないことが不快で、またわぁ!と泣いた。


 でも、背中を叩く手は気持ちがいい。大きくて暖かい手が心地いい。


「―――、――――」


 女が胸の布をぺろんと捲ると、白くまあるい胸がまろび出た。


 は?


「――――」


 頭が誘導されて、口元になにやら硬い突起が押し当てられた。


 は?


 これは、おっぱいでは?これはおっぱいである!

 いや、違うわ!と思って、ツッコミを入れるように手で乳房をぺちんと叩いた。女が笑う。口元の乳首はそのまま。


 違う。お腹が空いていたわけではない。おっぱいが飲みたかったわけではない。ないが……


 目の前に乳首があるのだから吸う。そりゃ、吸うにきまっている。だって、おっぱいだ。私は赤ん坊である。ならば、おっぱいを吸う。

 口の中に、自動的に乳首が入ってきた。自動的だ。あくまでこれは自動的、本能。


 赤ん坊はおっぱいを吸う生き物なのだから。


「――――……――」


 背中をトントンと叩いていた手が、今度は私の後頭部を撫でた。まだ毛の生え揃っていない頭。少ない毛を梳くように、優しく。

 口の中に入れた乳首を猛然と吸って、温かい液体を身体の中にいれる。優しさと温かさを、余すことなく享受するように。



 私は、この女が自身の母親でないことを知っていた。おっぱいを飲ませてくれるが、この女は私の母ではない。


 私の意識が浮上したのは、おそらく母の胎内だったのだと思う。暗く温かいそこは完全な暗闇ではなく、そう、強いて言うなれば、真昼間に薄いタオルケットを頭までかぶってウトウトしているような、そんな感覚であった。

 ドックン、ドックン、全身を振るわせていたのは、きっと母の鼓動。分厚い壁を通した向こう側から、何度も母親の声を聞いていた。


 覚えているのは、優しい歌声だ。言葉の意味は分からないけれど、たぶん子守歌だったのだろう。

 韻を踏んだ簡単な単語を繰り返していた。オオ、ハーシェル、ハーシェル。意味はわからないが、たぶん歌える。


 その中で、私は私の生前を思い返していた。


 いま、頭を優しく撫でてくれるこの女は、私の母親ではない。声が違う。

 私の実母は、私を産んで以来一度も会いに来ない。会いに来ないのか、来られないのか。いまだ目も開かぬ赤ん坊の私に分かりはしない。

 ただ、あの子守歌には、たしかな愛情があった。この身体が、そう思いたいだけなのかもしれないけれど。オオ、ハーシェル。


 この女はおそらくは乳母というものであろう。乳母、単語として知ってはいるものの、あまり馴染みのないものである。保育士やベビーシッターとも違うそれ。

 この女は私の母ではないが、私の命を繋ぐある意味で親のような存在。まともに喋ることも出来ない赤ん坊は、女の乳を吸いながらつらつらと思考の海に沈む。


 行動することは嫌いだが、考えることは好きだ。とくに意味のない思考というのは案外悪くないのだ。だから、この時間はとても心地が良い。


 眠たくなったら眠る。お腹が空いたら泣いて、乳をもらう。癇癪を起こせば優しく背を叩いてくれる。


「ぁー、う?」

「―――!」

「――――、―――」


 乳首から口を離すと、何かが私の掌をつつく。反射的にそれをぎゅっと握りしめた。把握反射と言ったか。

 なるほど、赤ん坊だから仕方ない。目の前に乳首があったら吸い付くのも、指を差し出されたら握ってしまうのも、反射だ。そういう生き物だもの、仕方ない。


 ぎゅうっと手の中のそれを握ると、何かが嬉しそうに笑って、こちらを覗き込んだ。おや、可愛い。おそらく、女の子。

 乳母とともにいるということは、彼女の子どもか、それとも私の姉になる人物か。


 まあ、どちらでも構わない。いずれわかることだろう。

 女の腕の中は暖かくて、撫でられると気持ちがいい。ああ、眠たい。


 恐る恐る、子どもが私の頬を突く。なんとなくその指に吸い付くと、うひゃぁ!と声を上げて離れていった。言葉は理解できないが、今のは「うひゃぁ」だったな。


 ああ、いいな。とてもいい。やらなければいけない課題もなければ、仕事のために早起きをしなくてもいい。まともな職を探さなければと焦ることもなければ、毎月悩まされる借金や奨学金の返済に追われることもない。年金や国民保険料の督促もなければ、父や母の電話もない。


 全部、全部、リセットされた。私が遺したものは、どうなっているだろう。私が逃げ出した家族たちはなんと言っているだろう。想像するだけで怖いし、嫌な気持ちになるが、それこそ仕方ないことだ。私がやってきたことの結果なんだから。


 申し訳ないと思うよりも、もう少し上手くやれたらなんて考えてしまうから、やはり生まれ変わったらところでクズは治っていない。


 でも、いまはとても気分がいい。何年ぶりだろう、こんなに気分がいいのは。だって、明日のことを考えなくてもいいのだ。やりたくないことは後回し、あとでいいや、明日でいいや。それを考える必要もない。


 このままずっと、赤ん坊でいたいと思ってしまった。

 オオ、ハーシェル、ハーシェル。



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