あの子に好きだと言えなかった私のために
扉が開いた勢いのまま、デルフィナとラウラが応接室に飛び込んできた。
な、な、な!え!?
「ジークレット様!なんで泣いてんだ!あ、アタシか?泣かせたのは……ごめん、ごめんね、びっくりしたのはジークレット様だよな」
走り寄ってきたデルフィナに一瞬だけ抱きしめられたかと思うと、今度は顔中にキスの雨が降ってきた。まるで、目の端から零れる涙を拭うように。
ごめんね、ごめんね、と。
なになに!?どういうこと!?あ、唇にキスされた……嬉しい……じゃないよ!どういう状況!?なに!?
「デルフィナ」
「……は?なんでハルクレッドがここに?」
「なーにをしているんだ、お前はッ!」
ハルクレッドの怒鳴り声に、身体がびくっと震えた。
やばい、なんてものではない。これこそ浮気現場の真っただ中ではないか。
「聞いたぞ!ジークレット様から口づけたと!いい歳してなにをしているんだッ!」
するりとデルフィナの身体が離れていく。どうしよう、こういうときはどんな顔をするのが正解なのか。確実なのは、ヘラヘラ笑うのは間違えている、ということ。
そっと視線をあげると、猛烈に楽しそうなラウラが修羅場を観察していた。くそぅ!戻ってきて、鉄の女……
「そういうときはお前からするべきだろうがッ!」
…………なんて?
いま、なんて?
そういう?ときは?おまえから?するべきだろう?
なにを?キスを?
…………え、いや、なんて?
「うるせぇ!こっちにも順序ってもんがあるんだよ!」
「なぁにが順序だ!成人儀礼でキスしたとか浮かれておったろうが!」
「あれはほっぺとおでこだよ!女の子には順序とか雰囲気が大事なんだ!ジジイは黙ってな!」
待って。待って。待って。待って!
だれか状況説明!そこ、ニヤニヤしない!
ハルクレッドはデルフィナに怒っている。わかる。でも、私とデルフィナの仲を公認するような内容に聞こえるのですが。修羅場じゃないの?じゃあなに?え、なに?
だからラウラ、ニヤニヤしない!
「いい歳したくせに女の子だとぉ!?しかもジークレット様はもう貴族じゃないんだぞ!なぜ様子を見に行った日に手を出さないんだ、ヘタレめ!」
「黙んな、エロジジイ!十五の男じゃあるまいし、誰がいきなり手なんか出すかよ!エロジジイと一緒にすんじゃないよ!アタシはジークレット様の心も身体も大事にしたいのッ!わかれよ!」
「わかるかッ!それでジークレット様を泣かせているのだから、なんの意味もなかろうが!ジークレット様ももう十五、とっとと抱いてやらんか!」
あの、と声を出したら、想定していたよりも小さな音になった。
デルフィナも私のことを好きだってことでいいの?ハルクレッド公認で、ジワジワその気にさせられていたってこと?なにその状況。なにひとつ意味がわからない。それどんな状況?
それと、恥ずかしいから私が思春期だってところは言及しないでほしい。いや、あの日もたしかに抱いてほしいとは思ったけれども。大洪水だったけれども!
すでに心臓と下腹部が期待しているのですが、あの。
「いいか!モタモタしていたらジークレット様はとられるぞ!昔も言ったが、その子は無駄に女に好かれる体質だ!」
「んなこたぁ、アタシだってわかってるよ!こっちだって逃がさないように必死こいてんだよッ!」
「ならばとっとと手を出さんか!お前だってすぐに婆さんになるぞ!」
ハルクレッドはデルフィナの旦那さん。それは間違いない。ハルクレッドは正しくデルフィナを女として愛していたのではなかったか。
あれ?私が前世の記憶に振り回されているだけで、実は思っている倫理観と違ったりするのだろうか。否、否、それはない。殺人は重罪だし、不倫は忌むべき行為とされている。
ハルクレッドはなぜデルフィナを唆している……
「あの……あのっ!」
「ん?どうした、ジークレット様。あぁ、ごめんね、怒鳴ったりして怖かったよね。ジークレット様に怒ってるわけじゃないからね」
「それはわかるのですが……その、えっと、あー、あの……ハルクレッド先生はよろしいのでしょうか」
また唇が降ってくる。もっとして……じゃない!だから違う!落ち着け、思春期の身体。
「ふむ。よろしいか、よろしくないか。その二択であれば、よろしい、とお答えしましょう。年甲斐もなく嫉妬するかと問われたら、そんな時期はとうの昔に過ぎた、と。これはデルフィナから私への裏切りであるか、という質問もまた、否、とお答えいたします。私はデルフィナの父でいられたら、それで良いのですから」
冷めた紅茶で唇を濡らし、いつもの好々爺が笑う。
親子ほども歳が離れた夫婦。ハルクレッドの歳は、デルフィナの実父よりも上なのだそうだ。いつだったか、ダルドが教えてくれた。
「元はと言えば、私が無理を言ってデルフィナに結婚してもらったのです。婚期を逃しても恋を知らなかった娘に婿入りした、恥を知らぬジジイです。元より、デルフィナが恋をしたら応援するつもりでおりましたから」
私にはわからない世界だ。到底、理解など追いつかない。共感すらできやしない。
たとえハルクレッドの言葉通りなのだとしても、愛した伴侶が別の人間と恋に落ちることを許すなんて、私にはわからない。
本命の恋人をつくらなかった私は何度も言われてきた。彼女にして、彼女になって、他の女と関係をもたないで。
私はハルクレッドに嫉妬する。前世と今世をあわせたら、私だってハルクレッドと同じほどの時間を生きていることになる。だけど私には、ハルクレッドと同じようなことは言えないだろう。この先だって、言えるようにはならないだろう。
「ですが!私はデルフィナと婚姻を解消するつもりは毛頭ありませんぞ!いくらデルフィナに頼み込まれたところで、それだけは譲りませぬ。デルフィナと結婚したくば、申し訳ないが私の寿命をお待ちください」
私は天寿をまっとうするつもりなので、まだまだ伴侶の座は譲りませぬ。冗談めかして笑うハルクレッドは、出会った頃から変わりない師の顔であった。
私は私の恋に従順になってもいいのだろうか。こんなことがあってもいいのだろうか。そんなことまで、タルクウィニアは許してくれるのだろうか。
「いかがかな、ジークレット様」
作麼生。
ハルクレッドの問いはなんだ。私が答えるべき言葉はなんだ。私が応えるべき感情はなんだ。
私はなにを思う。指の長い白く美しい手に、黒く染まった手を握られて、私はなにを思う。
「ハルクレッド・ソルマト様」
私は頭を下げる。
これを、説破、と言っていいのかはわからないけれど。
「人生をくださいとは言いません。どうか、デルフィナ・ソルマト様の恋を、私にください」
「ふはは!それでよろしい。こちらこそ、どうかデルフィナを幸せにしてやってください。私にはできなかった、あなたなりの方法で」
ハルクレッドがラウラを引きずって応接室から出て行ったのち。
ふたりきりで、密室。抱くだの抱かれるだの、そんな話を聞いた直後に、ふたりきり。密室。
聞きたいことや、話したいこと。擦り合わせねばならないこと。たくさんあるはずなのに、諸々とそれどころではなくなっている。
「ジークレット様」
「……はぃぃ」
「あはは!声、震えてるよ。さっきまであんなに格好良かったのにねぇ?」
あ、待って。覗きこまないで。私は素数を数えるので忙しいので。
七十三まで数えた。次は、えーと、八十七?違うな、三で割れるか。じゃあ八十九か。
「さっきはごめんね」
「こちらこそ、あの……いきなりあんなこと」
「じゃあ、おあいこね」
うおーん……好き……九十七。
手が頬に触れて、そのままデルフィナのほうへと誘導される。濃い青と視線が混ざり合う。動向も虹彩も、よく見える。百一。
指先が頬を滑り、そのまま耳をくすぐった。百三。
擦り合わせるように唇が触れて、逃すまいと手が後頭部に回る。百七。
言わないと。ちゃんと。
私はジークレットだから。逃げ癖のある怠惰で、明日やろうはバカ野郎と地でいくクズだけど、これからの人生を歩いていくために。
前世は前世。今世は今世。今度こそ、悔いのない人生を歩くために。ジークレットの人生を、生きていくために。
男になんて抱かれないで。そんな一言も口にできなかった、愚かな“私”のために。
唇を離して、そのかわりに頬と頬をくっつけた。言うのだ、今度こそ。
「私を……貴女の恋人にして」
「うん、いいよ」
もう二度と会えないあの子に、好きと言えなかった私のために。