どうしようもなく夜は明ける
俺はある日の午後三時、電話で先生からいつもの天体観測所に来るよう云われた。
そこは先生の個人的な趣味の産物で、プラネタリウムにもなるロマンチックなものだった。
そんな場所に恋人である先生から呼び出されているにも関わらず、俺の気分は決して明るいものではなかった。
先生が俺を此処に呼ぶときは、先生を迎えに行ってそのままどこかへデートへ行くか、観測所でそのまま話すかの二択になる。
ドーム閉まってる。
今日はそのまま観測所で話すか。
先生が何が個人的な話をするとき、プラネタリウムをつけていることが多い。
その時の先生は、決まって僕には到底理解不能な話をする。
其の度に先生が余命わずかな人間のような。そよ風一つで消えてしまいそうな、風前の灯火に見えてしまう。
建物に入った瞬間から先生の香りがする。
宙を見上げる先生の白衣の後ろ姿があった。そのまま先生の二歩手前で先生の後ろ姿と空を見る。
「先生、こんばんは。」
「君はいつも太陽の匂いがするからすぐわかったよ。」
先生は振り返らずにそう云う。
「太陽ですか。
それなら、先生からは夜空の匂いがしますね。」
先生はこちらを向いてふっと息を漏らすように微笑んだ。
それからすぐ人口的に作り出された夜空に向き直って、僕に一つの疑問を投げかけた。
「君には怖いものがあるかい?」
始まった。
「狭いところですかね。
閉所恐怖症なので。」
求められている答えが違う類のものだということはわかっている。
「僕はね。ここに僕という人間が存在していることが恐ろしいよ。」
「先生にも怖いと思うものがあるんですね。」
「僕には怖いものしかないよ。
怖くて、怖くて仕方ない。
ここに生きて存在していることすら苦しくて仕方ない。」
「そんな風に考えてたんですか。初めて知りました。」
先生は生きずらそうだと思う。
先生の頭は宇宙で、塵さえも包含してたくさんの重荷を抱えてなお広がっていく。
止め処無い思考。
「当たり前だろう?
これを君に伝えること自体初めてなんだから。」
「はは、そうですか。
これでも俺、先生の恋人で、年上なんですけどね。」
思わず乾いた短な笑いがでる。
「そんな自虐的な乾いた笑いしないで。君の年も、僕との関係も関係ないから。
信頼がないとかそういう話でもない。
これに関しては君じゃないんだ。僕なんだよ。僕の気持ちは僕が采配を振るう。そこに君はいない。僕の心決まりだけなんだよ。
そして、僕の準備は永遠にできない。それだけ。」
ほら、付き合って二年が過ぎようとしているのにも関わらず、先生の中には一歩だって入れない。
先生は人を入れない。
「先生。」
先生はあの短い微笑みから一度もこちらを向いていない。
「何もしていなくても、時は僕を置いて過ぎてゆく。時が僕の横をゆっくりと確実にすぎてゆく。
普遍的なものはその確かさと同じくらい、残酷さも持ち合わせていると思うんだよ。
変われない勇気のなさと闘いながら、僕はこの夜に座り込むんだ。
息をして生きているだけでも時は過ぎ、みんな成長して僕から離れる。
一人に浸って、寂しさと虚しさの隣にただ座り込む。」
ああ、まただ。このままあの夜宙に溶けいってしまいそうな感覚。
なんて綺麗な
「ただ座って息をしているだけなのに、時は静かに僕の肉体を連れて走り去ってしまうんだ。僕の心を残して。
僕の心はまだ夜のあそこに座っているのに、時が僕を連れ去るから、目の前ばかり明るくなる。
僕は準備なんかできていないのに。夜は明けてしまうんだ。
朝焼けがレースカーテンから幽かに差し込んで、僕の夜を奪っていくのに、僕の恐怖を奪ってくれない。
僕の心を一緒には連れ去ってくれない。誰かここから連れ出して。
そんな望んでもないことを思ってみても、結局、僕は人を夜に呼べないんだ。
僕の隣は寂しさと、虚しさと、恐怖と、狂気とその他もろもろの、およそ穏やかで幸せとは云い難いもので占領させているから。
だから、僕はここに一人座り込む。」
先生は生である。
こんなにも夜空に溶けいってしまいそうなのに、先生は確実に生きている。
「だから先生は自殺未遂を繰り返すんですか?
先生の中で俺は 」
「君は、生に縋る僕の哀れな愛する人さ。」
「先生は、俺を本当に愛してくれているんですか。」
「ああ、愛しているとも。
愛しくて、愛しくて、こちら側に連れ込みたくなってしまう程に愛しているよ。」
「じゃあなんで、何度も自殺未遂なんて起こすんですか。
なんで俺が悲しむとわかっていることをするんですか。」
「それは、僕と一緒にいたら駄目だから。そして君を振る勇気がないから。
何よりね、君が僕を愛していないからだよ。」
聞き捨てならなかった。
俺が先生を愛してないと先生が思っていることにも、先生に俺の愛が伝わっていないことにも腹が立って少し怒鳴り気味に言い返してしまう。
「なんでそんなこと言えるんです。
俺は二年以上先生と一緒にいて、これでも尽くしてきたつもりです。
まだ伝わりませんか。こんなに愛してて、毎日言ってるのに、まだ伝わりませんか。
どうしたら伝わりますか。どうしたら愛されていると分かりますか。
どうしたら俺を先生の中に入れてくれますか。」
先生はふわりと白衣を揺らめかせてゆっくりと俺の前にきたとおもうと、肩口に頬を寄せて俺の腰に手をまわした。
俺も先生の腰に手をまわす。
「うん、ありがとう。
知ってるよ。君が僕を好きな事は。
ただね、モノが違うんだ。
君はまともな好き。だけど僕のは狂気だ。」
少し体を離し、目を合わせる。
「僕は君なしじゃ生きていけないんだ。」
先生はゆっくりと微かに口角をあげて、優しく、優しく云った。
「俺だって、先生がいなきゃ困る。
先生がいなくなったら、もう俺はどうしていいかわからない。」
笑みを深める先生
「ね?僕は君がいなくちゃ生きていけないと云った。
そして君は僕がいなきゃ困ると云った。」
俺は何も云わない。
「僕はね、ここにいる理由が君なんだよ。夜に閉じ籠る僕の生きる理由は君だよ。
例え、僕が望むように君が僕を愛してくれないとしても、振り払えないくらい、僕は君を愛しているんだ。
自殺未遂はね、僕が耐えられなくなってしまうんだ。
一人で夜にいることに。幾度となく、どうしようもなく夜が明けてしまったことに。肉体と精神の距離が空きすぎていることに。君が僕を置いてどこかへ行くことに。君が僕を置いていなくなる可能性が高まることに。君がいなくなったその先の人生に。
全部が胸に降り積もって、息ができなくなって、全身の骨が軋んで、筋肉が収縮して、血が沸騰するんだ。全身が痛いんだ。
君も一度見たことがあるだろう?」
先生が暴れたところを一度だけみたことがある。
何気ない日常のふとした瞬間、火蓋が切って落とされたように、先生は咽喉が張り裂けそうな程発狂しながら体を掻き毟って暴れて、観測所の整備に使っていたマイナスドライバーをにわかに持ってきて自分の心臓に刺そうとした。
俺はそれを、後ろから先生を抱き留め、ドライバーと先生の胸の間に自分の手を挟むことで止めた。
「あそこまで僕の狂気に触れて関係を続けるなんて、僕をどれだけ掴んで離さないのかと、苛立ちすら感じたよ。
嘘、そんな苛立ちなんてどうでも良くなるくらい惚れ直した。」
そう。先生はドライバーが刺さって出血した俺の手を見て、今までに見たことのないくらい嬉しそうな恍惚の笑みを浮かべて俺に深い、深いキスをしてそのままセックスした。
そのときの先生は鮮烈でずっと覚えている。艶やかで、性的で、何度も何度も愛してるとよがり鳴いて俺を離さなかった。
先生は強烈に生きている。
「先生は、俺に死んで欲しいんですか?」
「違うよ。僕は、最愛の君に愛されたいんだ。
僕を愛して欲しい。愛して、愛して、愛して欲しい。君の人生全てをなげうって僕を選んでほしい。」
先生の笑みは変わらない。
「へぇ、初めて知ったな。
なんで、今言ったんですか。いつだって言えたはずなのに。」
「なんとなく、かな。
まあ、僕を殺す気も、死ぬ気もない君には関係のない話だよ。」
「あ、はははっははっは」
俺は腹の底から笑ってしまった。
先生は心底理解できな様子でこちらを見つめた。
「いいですね。何でも知っている聖人のような貴方の困り果ててる姿を見るのは。」
「いや、何が可笑しいのかと」
先生は困惑して俺の目を左右交互に何度も見る。まるで気でも狂ったかと心配するように。
「いや、ずっと求めてきたものが既にテーブルにあったと思うと可笑しくて。」
「ごめん、何が言いたいかまだ分からない」
「本当?」
先生の腰から両手を肩にポンと置きなおしてそのまま首まで滑らせる。
先生の体がぴくんと跳ねる。
「俺はただ、
先生を俺が殺していいなんて、なんて俺は幸せなんだ。
俺に先生を殺す権利があるなんて。それに俺も先生と一緒に逝っていいんでしょ?
なんて最高なんだ。
あぁ、先生の息が止まるその時まで俺が先生の瞳の中に、頭の中にいれるなんて。生まれてから今まで生きてきてこんなに嬉しかったことなんてない。
なんて幸せなんだ。
って思ってたんですよ。」
先生は固まった。
それから少しづつぽろぽろと言葉を落とし始めた
「君は僕を愛してくれるの?」
「ずっと愛してるって言ってますよ。」
「僕と逝ってくれるの?」
「一人でなんて逝かせませんよ。」
「僕を、最愛の君の手で終わらしてくれるの?」
「先生自身であろうと、俺以外の手でなんて逝くなんて許しませんよ。」
「君も僕と同じなの?」
「はい。」
「こっち側なの?」
「はい。」
先生は心底嬉しそうに笑って抱き着いてきた。
俺と先生は手をつないで先生の家へと帰り、気が済むまでセックスした。
そのままベッドの上で裸のまま上等なブランデーと睡眠薬をしこたま持ってきて、一錠づつ口移しで飲んだ。
俺と先生はベッドに横たわり人生の中で一番幸せな時を過ごした。
「愛してる。」
「俺もですよ。」
「ふふ、愛してる。」
「俺のほうが愛してますよ。」
「僕の方が愛してる。」
「これだけは譲れないなぁ、先生。」
先生は両手を俺の首筋にそっとおき、髪の襟足に指を絡ませて遊びながら俺を見つめると先生はふっと笑った。
「あぁ、幸せだ。君の血の一滴、細胞核の一つまで愛してる。
あぁ、愛しくて仕方ない。どうしよう。どうしよう。君の肉の一片、髪の毛の一本まですら食い尽くしたい。食われたい。」
そのまま首を少し引っ張られて額と額がぶつかった。
「あーーー、僕今最高に死にたい。僕は今、最っ高に幸せだ。」
先生は綺麗で、今まで見た事ない程純粋な笑顔をしていた。
「愛してます。先生。先生っ。
この手は死んでも離さない。俺は先生のものだ。先生も俺のだ。
食って、食われて、一体化するだけじゃなりない。もっと近くに、もっと永遠に先生といたい。
俺は先生との永遠が欲しい。一緒に逝って、体も、世の中も、概念も、全部を捨てて捨てて、二人で一つに成りたい。
この世界には俺達以外の誰もいない。誰も入れさせなんかしない。俺と先生の完璧な、幸せな世界。誰にも邪魔なんかさせない。」
「これは僕と君との物語だ。」
「はい。最初から最後まで。そしてこれからも。いつまでも。」
いつもとなんら変わらずに、夜が明ける。どうしようもなく夜が明ける。
でも、俺たちだけはその夜明けから走り出して、明けない夜の世界へと逃げた。