28.レティシアの過去-1
「ユベールもあとちょっとだったのに……。最後の最後でいつも邪魔してくるんだから、うっとうしいったらありゃしない」
憎しみのこもったテネブライの声が聞こえてきた。
私、レティシアはテネブライの声を聞き流すと、目の前にいるお母様をじっと見た。
昨日からだった。寝ようと瞼を閉じると、お母様が目の前に姿を現す。
お母様は真っ青な顔をしていて、
「お前さえ生まなければ、私はもっと長生きできたのに……」
と苦しそうに私に言ってくる。
お母様の変わり果てた姿ではあったけれど、もう二度と見られないと思っていたお母様の動く姿が見え、声が聞こえることに嬉しさを感じる私は、どこかおかしいのかもしれない。
五歳の時の出来事ではあるが、誘拐された時のことは今でもはっきり覚えている。
お母様と二人で街に買い物に出かけた時、背後から誰かに殴られ、気を失った。
気づくと小屋の中にいて、目の前には私の手に巻かれた紐を必死にほどこうとするお母様がいた。
お母様自身も手足を紐で縛られており、口を使って私の紐をほどこうとしていた。私の足を縛っていただろう紐は、すでに床に落ちていた。
お母様は私が目覚めたことに気づくと、涙ぐんだ。鼻をすすりながら、私の手を縛っていた紐もほどいてくれた。
私もお母様の紐をほどこうと手を伸ばすと、お母様は自分の手足を私から遠ざけた。
「お母様のはいいのよ。それより、小屋に人のいない今がチャンスよ。レティシアだけでも逃げなさい」
お母様は私の耳元に口を近づけ、小さな声で言った。
今ここでお母様と別れると、もう二度と会えないような気がして、私は泣きながらお母様に懇願した。
「嫌だ、逃げるならお母様も一緒」
しかしお母様も、私に負けないくらい涙を流して言ってきた。
「お母様はレティシアさえ無事ならそれでいいの。いい子だから、お母様の言うことを聞いてちょうだい」
お母様の泣いている姿を見るのは、初めてだった。私は結局お母様の気迫に押され、泣きながら捕まっていた小屋を後にした。
戸から外に出ると、小屋の外には大きな湖が広がっていた。あまりにも美しい湖で、早く逃げなくてはいけないのに、私は思わず湖に見とれてしまった。
ふと隣を見ると、銀色の羽をした小さな鳥がいた。美しい見た目をしているがために、この小鳥も誘拐犯に見つかったら捕まってしまうに違いないと思った。
「ここは危険よ。恐がらなくても大丈夫。私が逃がしてあげるからね」
と言うと、私は銀の小鳥を優しく手で持った。
小鳥は、最初は羽を激しく動かして抵抗してきたが、私が大丈夫、大丈夫と声をかけながら羽をさすってやると、落ち着いた。
湖に見とれている場合ではない。この小鳥を救ってやれるのは、私だけだと思った。
お母様とは一緒に逃げられなかったけれど、目の前の小鳥だけは私の手で何としてでも逃がしてやろうと心に誓った。
私は、見慣れぬ森の中をただ走る。いくら走っても、人のいる気配はない。走り回っているうちに、小屋がどちらの方向にあるのかさえ分からなくなっていた。
遠くに人影が見えたので、私は大きな声で叫びながら手を振った。しかしそれは残念ながら、誘拐犯の一味だった。男が二人いて、手には棒が握られているのが見えた。男たちは私に気づくと、走って追いかけてきた。
私は頑張って逃げたが、今まで散々走ってきたこともあり足がろくに動かず、すぐに追いつかれてしまった。
男たちはすぐに私を捕まえることはせず、意地悪く笑いながら、じりじりと近づいてくる。男たちから逃げ切ることは無理だと思った。
「私が足止めするから、あなただけでも逃げなさい」
と言い、私は男たちとは反対側に小鳥を逃がした。
そして私は泣きながら、男たちの方へ突進していく。
男たちは笑いながらそんな私を受け止めると、服の襟首を持って乱暴に持ち上げた。
あまり時間は稼げなかったが、小鳥だけでも逃げ切れたかと背後を確認すると、なんと、小鳥はこちらに向かって勢いよく飛んできている。
小鳥が男たちの目を突いてくれたため、私は男の手から逃れることができた。
小鳥は自分についてこいでも言うように私を見ると、森の中を飛んでいく。男たちは目を押さえながら悲鳴をあげていて、私たちを追ってはこなかった。
よく知らない森の中を、私は小鳥を追って走る。それは五歳児にとってはとてつもなく長い道のりだったが、お母様を助けるため、歯を食いしばって走りぬいた。
小鳥は森を抜けると、街に入った。そして、お父様のところまで私を連れて行ってくれた。
私は泣きながらお父様に抱きつくと、お母様のことを話した。お父様は人を何人か連れて、急いで森の中へと行ってくれた。――しかし、間に合わなかったようだ。
お母様がどうなったのか周りの大人に聞いても、「お前は何も悪くない」と言われるだけで、誰も教えてくれなかった。だが、いくら待ってもお母様は家に帰ってこない。周りの大人の表情から、お母様は死んでしまったのだと悟った。
直接私に説明してくれる人はいなかったが、漏れ聞こえてくる話から、事件の大筋は分かった。
誘拐は、珍しい色の瞳を持つ、私目当てであったこと。私を逃したことでお母様が殺されてしまったこと。犯人たちを追いかけたが、捕まえることはできなかったこと。
お母様に逃げろと言われた時、すぐに動いて助けを呼びに行けていたら。湖に見とれている時間がなかったら。私の足がもう少し速かったら。森で迷わずにまっすぐお父様のもとに助けを求めに行けていたらと、悔やんでも悔やみきれなかった。
お母様の死が受け入れられず、ベッドから出られない日が続いた。常に泣いていることで、お母様のいないさみしさをまぎらわした。




