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妄想論

オタクはキモイについて

作者: とびうお君

 どーもオタクの話しは受けるが、それを大きく包む多数の人となると受けない。そこで切り口が悪いのじゃないか?と見てる。私の目的はオタクとその他の区別は今つけにくいにある。新しいテーマとして、オタクはキモイに疑問を投げかけたい。


 なろうもだからキモイ。さてここで、キモイってなんだろうか?それは自分とは違うからや、自分を含めて自虐的に小集団だからになる。それが多分違う。だから私は最近ずっとオタクを包むその外との同質性と異質性を扱っている。抽象的過ぎて自分でも何言ってるか?分からなくなってきたけど。私はオタクはキモイってこういうのが嫌いなんだと思う。


 単純な擁護じゃない。私は誤解による誤った言及が嫌いなんだ。差別的なのが嫌いなのじゃない、無知による間違った差別が嫌いなんだ。差別自体が嫌いなわけじゃない。そこまで聖人君主じゃない。私の別のシリーズでの民族主義批判もそういった部分が関係してる。


 例えば人種によって知性に違いがある、なら私は楽しく見るんだ。でもまるで出鱈目な黄色人種は黒人はと劣っているを出すために出鱈目な理論武装をするのは不愉快極まりない。女性差別も全く同じだ。誤ってるのが不快なんだ。


 まずキモイについて、オナニー小説だからきもい。これについては、基本余程高尚な物語以外、物語の基本は願望達成装置でしか無い。物語の王道古典の面白さはここから発達してて、そして漫画の多くのはこれが多い。現実においては自己中となってしまうかもしれない欲望を虚構で解放するから面白いんだ。


 漫画は2つのパターンがあって、ワンパターンになるを防ぐためやってるのと、美化によって罪悪感を軽減させるように上手く正当化してるだけだ。漫画はこの古典王道に対してかなり向き合ってる。


 なろうはストレートすぎない?なら、そこで、漫画が発達しすぎて、本来の強い刺激が見えにくくなってるのがある。そこで分かるのは原典回帰的な刺激になってるって点になる。文芸についてはさらに極北に走ってて全く質が違うのでこっちは原典回帰的に対立軸になりやすいのがサラに分かると思う。


 物語の面白さで超基本となる部分は、キモイんだ。物語=キモイものなんだ。それを誤魔化すなって気持ちがある。本気でそれに向き合ってる文芸などと距離を置いたのが多数派だと私は以前受けなかったエッセイで書いたんだ。そういうのつまらないんだ。面白い物語は大体そういった低俗な刺激に溢れている。それをどう単純に魅せないか?の差に過ぎない。


 それはそれが芸なのじゃない。単に売るための戦略に過ぎない。なろうは売り物じゃないが人気を得るために戦略として全く同じように原点回帰を選択したに過ぎない。やってる事は全く同質で、それに対してどうこう言えるのは文芸の方向性しかない。


 次に以前書いた自己投影と観客型になる。火事場で火事を見る野次馬こそが後者のツボになると書いた。オナニー物語以外は、すべて娯楽作品はこれになる。低俗な楽しみはこの2つしか無いんだ。火事場で火事を見る野次馬が褒められた行為か?オナニー物語とこれ大差ないから。ものすごく低俗でこれキモイから。


 前者が犯罪者だとすれば、後者はその犯罪者を止めようとするんじゃなくて、ワクワクしながら何やってくれるかな?って見てるワイドショーの視聴者になる。その人にとっては犯罪者は自分の楽しみのために居てくれないと困るんだ。基本娯楽作品は虚構ゆえの現実での人間関係に縛られた自分を解放する面が強くて、キモイんだ。


 私が何故オタクを包む大きな層の話をしたか?と言うと、娯楽作品にとってのリアリズムへのこだわりは、根本は、リアルなテーマと真剣に向き合ったりするためじゃない。より精緻な展開で自己中で低俗な楽しみを楽しみだけだ。キモイ本質自体は全く変わらん。


 キモイと言う言葉そのものじゃなくて、差別的言語の本質はマジョリティに対するマイノリティへの攻撃にツボがある。だからオタクは境目があって少数集団じゃない困るんだ。だが私はその差はたいした差じゃないのをずっと書いてる。本質的に全く異質な集団は文芸だけだと書いた狙いがある。


 昨今のオタク=キモイは何を差別してるか?が正直良く分からん。集団として本質的違いが見えないからだ。私がオタク層をコア集団だとしたのは、それ同様にもっと広く映像物語全般を好むライト層の中にもベストを求める気質のコア層が居ると書きたかったからだ。この程度の違いでしか無いと書いた。そしてオタ層とこの映像物語オタ層は文芸層とは明確にコア層でも異質なもので、両者は近いことを書いた。


 そして、オタクを決定付ける特別な要素は簡単には表現できないのも書いた。オタクも飽きるんだ、だがその速度に差があるだけだ。そして何より重要なのは、オタク傾向と言う広い層で見た場合は、それを包む映像物語全般のライト層とほぼ重なってしまう。オタクの中でコア層と映像物語全般のコア層だけが分離できるだけで、両者はそれが緩くなると文芸や芸術志向のコア層対する同じライト層でしかない。


 同じ穴のムジナにはキモイと言う差別的表現は意味を成さない。


 そもそも物語にとってキモイって言葉自体が意味が無い。次に集団としてキモイとされるマジョリティから区別できるマイノリティ集団の本質的な差は無い。


 じゃ一体何?多分思い込みと古臭い観点でのオタク像の幻想を、若い人間が年寄りの真似して使ってるだけ。以前書いた馬鹿は秦の時代から全く意味が変わってない。悪口だけは若者は伝統をしっかり守っていくんだ。これが人間の特徴だ。


 オタクがきもく無いと言いたいわけじゃない。差別的な根本が幻想だと書いてるんだ。


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