夏王朝と弥生人
結局コーカソイドに纏わる話しは、古代南方系のハプロが多かったのに北方系のハプロに変わってしまったってのを裏付ける形になったと思う。古代コーカソイドが来たのか?ならかなり複雑。途中まできてるが、どうも金属精錬に関して、中国土着の人達でやってしまったような気がする。中央部に入り込む前に周辺部で土着+コーカソイドが高度な技術を作り上げてから中央に向かってる感じがある。しかも青銅器の時の高度な技術の蓄積がもろ生きてると思う。
この点それらが同時に来た日本とは全く違う。何千年も青銅器文明を育ててきた中国は鉄器の対応がまるで違う。日本は見て分かるとおり、外の人間ばかりで創られた文化だから。日本の感覚で中国を見すぎていた。
これらの蓄積の上でO1B2を再度扱いたい。良渚文化の崩壊と夏王朝らしき南方王朝の誕生が南方ハプロの北上に強く関わってる。稲作について触れたい。稲作の北限は品種改良と深く関わってるが、どうやらこの時期それとは違う背景が北上を支えていた。基本的に新石器時代は中期から寒冷化を迎える。だが、この間にも気温は上下して複雑な動きを見せる。
この時期前後の時代よりは暖かかったようだ。二里頭文化の遺跡で直接は発見されて無いが、黄河流域では稲作が発見されている。多分。山東省のじゃないかと思う。米を捨てたのか?と言うとそうでも無いようだ。ただ稲作の北上以外の要素が入ってくる。取りあえずは二里頭文化への北上は稲作が一応関わっていると思う。
高度な灌漑農業を発達させたらしいが、確かこの時期の山東省の水田はもっと原始的なものだったと思うのだが、時代が良く分からないのと、灌漑農業も今のような形とは随分違う。今の様な形に近づくのは乾田化からだと思う。乾田化は豊富な水の出し入れがいるので、そういった技術の集大成のような所がある。
ただこれ華北農業から来たらしい。話によると、良渚文化の稲作は一端途切れてしまったとは聞いている。どうやってこの後発達していくか?がさっぱり分からない。途中までは稲作が関わってるのだが、さらに北上する要因は全く違う。青銅器文化の幕開けになる。内モンゴルの辺りで銅が取れる。これらのために北上したと見ている。
ただその高度な文化は良渚文化のものじゃない。おそらく斉家文化。例のクーデターの時期がそういった変質だと見ている。おそらく遊牧民連合の要素が強くなったか?または殷が直接歴史には乗ってないが、この時期から中心だった可能性がある。O1の北への広がりを見るとピタリと遼河文明へ向かう向きと一致する。しかもある種のベクトルをはっきり感じて、それが趙の辺りになる。
これがその後の宋の皇帝の子孫からO1Aが出た事の意味じゃないか?と見ている。たった1例なので話にならないが、馬鹿馬鹿しいと思っていたが、案外馬鹿に出来ない。深く遊牧民の部族と関わる必要が出来たから。これが今内モンゴルに住むダウール族にO1系がそれなりにしっかり出る理由だと思われる。
他にも騎馬民族にたまにO1Aが出る。以前から不思議だったが、これで合点が行く。ただここでやっかいなのは、O1B1の方で曹操の系列は分岐が1万年以上前になる。なのに南方でほとんど出ない。せいぜい4000年程度しかないなら、まだ南方で出ても良いはずだ。北方で生まれたとは考えにくいから。考えられるのは小さな部族で南方では消滅してしまったが、北方で拡大したって事かと思う。
O1Aは特に強い北方に特異性のあるハプロはない(サブグループの地域性を調べれば変わるのかもしれないが、O1B1やO1B2の北方の偏りは分かり易い)。これは越王が夏王族の直系であるって事と関係してるかもしれない。王族に近いグループはまた南下した可能性がある。
さてこれだけなら斉家文化の遊牧民に近いグループが夏王朝の創始者で良いじゃないか?となる。以前は洪水伝説で話したけど、あくまで青銅器は途中からになる。これは麦も関係してるけど、パン小麦が生まれるまで麦があまり重視されて無い。おそらく持ってきた人間はいると思ってる。
青銅器がここに来てるんだから。間に入った斉家文化と言うのがとても大事だったんだと見ている。パン小麦もそう。有用になってから取り入れたとなる。なんとなく分かるけど、多分麦は育てにくい。そのデメリットを被ってまで育てる意味は?当時から上流階級の高級志向がいろいろ出始めていた。王権の発達これが重要だったと見てる。
富の集中。多分パン小麦より前の麦旨くない。大麦とか粉にしてもパンにはなっても膨らまない。麦飯のように食べるのはもう一つ。麦は保存性もあるし粉食なんだと思う。パスタと言う形でデュラム小麦が入ってきたらまた別だったかもしれないが、そんな細かくやっても仕方ないので、パン小麦が出来上がってから急激に普及した。それが偶然なのか?王朝の誕生と重なる。正確には殷の時代にずれ込むが、肝心のパン小麦が中国までやってくる時間もある。
青銅器の存在を知っていたか?は知らない。だが最初に中国で遺跡に出てくるのは、1000年近く前になる。何故か他の地域に伝播しなかった。それゆえ夏王朝を特徴付けるのは玉器になる。これで以前は良渚文化の技術を模倣した程度に思われていて、夏王朝と直接は繋げてなかった。
この点は、やはり中国は黄河文明中心が相変わらずある。多元論になってるが、それでもすべては黄河に集まるって程度の変化でしかない。中心は必ず黄河。それゆえその中心が、長江から移動してやってきたと言う斬新な発想は中々生まれないようだ。じゃ何故そういった中説得力を持ったのか?
王権に関わる玉器が完全に重なっているから。このおかしさが分かるか?になる。良渚文化から模倣して玉器が誕生した。おかしくないか?となる。何故王権に関わる最も重要な部分を模倣したのか?となる。これは模倣じゃなくて、夏王朝自体が自分たちが生み出した良渚文化の玉器を王権の象徴として使ったのじゃないか?とするほうが自然だから。
ただ玉器の技術を模倣しただけじゃ無かった。これが大きかった。後は洪水伝説が夏王朝誕生付近にどうやら本当にあった事実と分かったから。
夏王朝が良渚文化の後継者なら、南方系のO1が北方の内モンゴルに銅を求めて広がるって流れがとても自然に説明できる。匈奴が居たオルドス地方に青銅器文化があるが、これはスキタイの影響を受けている。だがそもそも銅の産地と近い内モンゴル地域って産業的な文化圏の延長にあるんじゃないか?と見ている。
万里の長城が分からなくしてるが、むしろ積極的に北上したのは夏王朝の方だった。これが後のO1系の騎馬民族化に繋がる事に成る。しかもこれがツングースにも大きな影響を与えて、そこが日本人の形成と大きく関わっている。海のルートは簡単に外してはいけない。だが陸の北上ルートがこれで確立された。
正直言えば、O1B2は遼河文明の地で誕生したのではないか?と思ってる部分がある。ただ分岐年代がかなり早くて、先ほどのO1B1の問題と重なってくる。もっと前に移動があったのか?なら何故?となる。具体的に北上する理由が全く無い。私が上げた雑穀焼畑だが、それはO1B2に限った話しで、O1系全体の大移動には無理がある。
O1b1a2(Page59)この系統になるが、これが北方で生まれたならO1B2も北方で生まれたが説明しやすい。元になるO1Bを豊富にふくむO1B集団があったとなる。まだ分岐したばかりのO1B1Aなどもあったんだろうと。O1b1a1a、分岐するこっちがO1B1の最大グループになる。
でも他のO1B1の拡散とも重ねると良渚文化の崩壊と言う流れが一番納得できる。ただ黄河の農業に長江文明の影響があったのかも?って流れだと確かに都合が良い。そこで問題は何故遼河文明まで行ってしまう?
米が見つかったのはあくまで今より温暖だった河南南方になる。何かしらのグループが北上したのは間違いないが、ハプロにそれなら出る。一切でない。それは北限として進んだだけで、遼河文明まで突き進むのはありえない。紀元前5000年以降になり、なおかつ当時の南方の形質は北方と違うため大量の移住があれば骨が出たときにかなり目立つ。ほぼ無い。
良渚文化と日本人の主流であるO1b2a1a1の誕生は重なる。O1b2はとっくに生まれてるがサブグループのコレは怪しい。仮にO1B2が北方に移動してO1b2a1a1(CTS713)(旧47z) が生まれたとしよう。その場合南方にもいるO1b2a1a1の存在が旨く説明が出来ない。正直言ってこれは悩ましい。
こうだという1つのパターンは難しい。複数のパターンがありその中で絞られていくのかと思う。これは推測されてるが、環境が悪化した良渚文化で一部の王族の王子などが北方に移住したとか。その時元の集団は壊滅的ダメージをおってしまってこれで北方だけ特殊なハプロが数多く残ったなど。良渚文化の地域だけ特殊なハプロだった可能性がある。これは人骨が見つかってないので分からない。
もう一つはO1B2が小集団で、すべて連れて行ってしまったか?となる。この場合問題は、じゃベトナムのなんなんだ?となる。そこで出てくるのが宝貝を集める特殊な民族集団が居たって話しになる。インドネシアはどうか?と思うのだが、ベトナムまでなら、ちょうどあの辺りに海南島があり。宝貝の集積地域はインド洋は可能性が低いとの事だった。それゆえ中国東南部のみの可能性が高いと研究がある。
かなりベトナムと近い。宝貝の採取が終ってから地元に土着してしまったのじゃないか?だが、ここでじゃ他の台湾などはどうなる?となる。そもそもこれは宝貝の採取がO1B2がやっていたって強引な話しになる。以前は、これに先島諸島の裏づけがあった。だがそれがどうも怪しいとなると、誰が集めていたか?になる。通常考えれば山東省の住人に絞られる。
当然現在はここにO1B2は居ない。ただ間違いなく半島の稲作は山東省から伝わている。例え直接ルートがあっても、道具の一致が明確になる。でも今でも多いO2系の可能性も十分にある。ハプロは分からないが、これを行った人たちは宝貝の採取と深く関わってるのはすぐに分かる。
これはほぼ間違いないと思う。遠く台湾を中心として、海南島まで行っていたかもしれない船に長けた民族が同じ地域に複数いるのは考えにくい。このハプロが何か?が分からないから、一つのパターンとしてって話しになる。南方へのO1B2の稲作を伴った移住は無くて、ベトナムのO1B2は宝貝の採取を行っていた民族の末裔じゃないか?って話しになる。
後はこの流れで、この集団はO1b2a1a1を中心としたグループだったんじゃないか?となる。海から日本に来たから半島とは分布が違うとなる。この場合稲作は伝播してないかも。
半島の集団が、陸の集団になってしまったで1つ問題がある。粛慎は沿岸付近では一番船の扱いに長けたグループだった点。このルーツにO1B2があるんじゃないか?と見てる点。騎馬民族化したO1系ってのはとても都合が良い。実際はその前段階として北方の陸の民族になったとなる。
粛慎は後の女真なのでC2B系になる。だがハプロ的名ものじゃなくて、当時文化的に沿海州にN系を母体としたO1B2が居た可能性はかなり高い。女真は自分たちを朝鮮的なものと見てて、確かに居た地域がO1B2のシニガイ文化と重なってるので、影響を受けたのじゃないか?と見てる。混血があったかもしれない。海岸部の奥地から徐々に広がっていったのが歴史から語られている。
モンゴルの成立と良く似ている。実際似たハプロじゃないか?と指摘されている。チンギスハンはC2Cだと溢れてしまってるが、あれは中国に多いハプロでそのせいで人口が高くでてるだけで、1600万人。この数に踊らされてる。それを言ったらY染色体アダムは全人口の半分だぞ?となる。
モンゴルもツングースもトルコに較べると一歩遅れて登場してるため、チンギスハンがヌルハチと似たハプロであっても特におかしくはない。満州族は朝鮮族がいるため普通にO1B2が豊富なハプロだが、元々女真から居る可能性が無いとは言えない。別民族で影響を受けたでも良い。
粛慎が船に長けてるのは事実。これで日本に何度もやってきてるから。それに日本海側と沿海州はHLAハプロが関係してて、何かしらの血統的な繋がりがあると考えられてる。南方のO1B2ならそれがありうるが、問題は、遼河文明で海を捨てているっぽいのが問題。それとも他のO1と違ってO1B2だけ海を捨てなかった可能性はある。
陸路で進んだと思い込んだが、半島沿岸部を伝って沿海州に住み着いた可能性が多いにある。O1B2の第3のハプロとして新羅の東海岸に位置するグループが居る。何故かこっち側に偏っている。もしかしたら共通性があるかもしれない。O1B2はシベリアに食い込んでいるのは知ってるけど、そこまで細かいハプロ調べられない。
アルタイ語族の考えは好きじゃない。だが印欧語と似たような考えをし無いなら、ある程度共通性があるのは納得できる。C2系の元となる言語があったというのは私も同意。ただこれ遼河文明はNがベースにある。Nは全く系統が違う。Nの扱いが難しいのは、古代に東アジアの北方系の大半の文化を創ったハプロ。だがこのグループ女系なんだ。
しかもNは縄文人のように精子に欠陥があるかもしれないって話がある。何故O2系がああも大きくなったか?でNが衰退したのが大きい。母系の間に父系O2がのとっとってしまったとなる。だが母系だけが理由だとは思えない。そこでDとNが大陸で衰退した部分に精子の欠陥が響いていたんじゃないか?と見てる。
Nは言語的に何かこれってものが無い。どの民族にも中心になってるならNの言語が中心になるはずだがどうも違うような気がする。Nは逆にどの民族にも元の言語を変化させて受け入れてしまってる気がしてくる。Nはウラル系だと決めツケがあるが、これもQやC、コーカソイドがぐちゃぐちゃに混ざって出来たものになる。N固有の言語ではない。
Nは北方に居る時になんとなくアルタイ系になったと強引に見ている。これが朝鮮語のベースになったと見ている。そしてこれがまたややこしくからんで日本語の一部になったか?と見ている。
海を捨てたか?なら分からない。他のO1系は間違いなく捨ててる、稲作すら捨ててる。O1B2ってグループだけ特殊なかかわり方をした可能性がある。N系との混血は、明らかに弥生人が北方系だからその謎を解くと遼河文明の中心ハプロのN系しか考えられない。半島にもN系がおそらく進出してるので、2重でN系と混血していると見ている。半島人と日本人は中国人よりもGM遺伝子で見ると北方系が強い。後から中国の難民とも混血してるのでかなり北方系が強くなっている。
ただ本来考えていた中国北方系との混血後の北上とずれてしまった。この点は弥生時代が始まってからやってくる集団は日本も半島も北方系が強いので、そっちの影響も大きいと思う。
戦国時代の移住ってシナリオとは全く違う。ただ、日本にやってくるのは、もっと複雑になる。宝貝の採取集団は実はもっと前から活動してる。その理由としてヤンシャオ遺跡からも宝貝が出てるからになる。O1B2はもっと前に北上してる可能性がある。
稲作の伝播に使われた船は山東省と遼東半島の間だけだった。こうなると話ががらっと変わる。これなら長けた集団じゃなくて良い。日本国内はすでに縄文海運ネットワークが張られていたので、稲作を伝播させた中国人集団の必要性は無い。O1b2a1a1が偏って日本で発達したのはこれだと思ってる。遼河文明と合流した集団から別れたか?またはもっと前から分かれていたか?と見ている。
ただ問題が無いわけじゃない、旧47Z、これ宮城でやたら多い。東北は基本多い。だがその多い中で宮城が2倍は無いが1.5倍は出る。これが何を意味するか?奥州藤原氏になる。もちろん藤原遺伝子ってのは、私が平泉のミイラの分析を疑って無いからだけど。チンギスハンの問題は、モンゴル帝国全体が中国で大活躍した点。そうなると、モンゴル帝国の土台を作ったご先祖様がその対象者である可能性がある。
良くハプロが特定されるが、あれは本人の固有IDではない。基本何代も変わらない先祖と同じハプロになる。ある日確率的に変わるだけ、もちろん分岐年代があるので何千年もずれる事は無いが。100年程度なら平気で変わらないと思う。始皇帝のハプロは、始皇帝の父親や祖父の子孫である可能性の方が高い。言ってみれば始皇帝のハプロだが、始皇帝だけのハプロではない。
たまたま直系で残っただけって話しになる。日本で直系以外に特別な理由があるハプロじゃないとなる。宝貝の話しは、藤原が登場する前からO1B2は多かったって話しになる。別に来てすでに土台を築いていたと成る。後から見た場合の問題は、弥生時代と全く関係が無い要因で増えたハプロである時、それを無視して弥生時代の辻褄を合わせるとかなりおかしな事をしだすから。
実際今私が書いてる宝貝採取集団について、日本への上陸は藤原遺伝子で増えただけならすべて無駄になる。と言うか後から真実が分かった場合、何あほな事をと…。あくまでこれはこういうケースがあると言うケースを様々考えた話になる。水田稲作を伴った移動って固定観念を壊すのが狙いにある。その点は一貫してると思う。
後に騎馬民族化したO1系が良渚文化の後継者で、夏王朝を作った集団の移動と連動していたって話が根幹にある。これだけはケースを分岐した話になってない。銅の入手に内モンゴルの遊牧民集団に接近したからになる。O1B2は同じO系集団としてその流れに同調するように北上したと考えている。
九州から沖縄への移住は何度も有り、大陸から沖縄へ移住して現代の祖先になったは考えられないってだけ。変な話しだが、大陸から沖縄を中継点にして九州に行き縄文人と混血して沖縄に来る場合は矛盾し無い。縄文時代に沖縄に移住があり、これが縄文土器の遺跡からの発見で確認されている。その後独自に発展していくので、これで子孫がいるのが分かる。
だがその後火山が噴火して一切の交流が立たれてしまう。これが再開するのが縄文後期になる。ただこの時期初期だが、すでに稲作は伝わっている。その後弥生中期には交易が開始される。その担い手は縄文人の形質が濃いらしい。だが全く混血が無いのか?ならここが回りと違う長崎の特殊な弥生人の地域になる。
この地域の違いは2つ、縄文の形質が強い。数多いわけじゃないが、半島ではなく大陸の文化では?と言うとものがちらほら出ている。今まで全く交流が途絶えてた沖縄と何故2500年付近に交流の痕跡が出現して、弥生中期には交易まで発展したのか?何度も書くが、このシナリオは日本で偏って多い47Zと言うO1B2の集団が半島北回りと違うルートを使って日本に来たからと言うのがベースにある。それゆえ偏って多い理由がまったく別の理由で説明されたら、アホな話しだと私は思ってるので…。