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言葉にならない感情

作者: 東西 遥

      *


 そのときハルがスリープ状態から復帰したのは、戸口の外にユウを認識したからだった。

 中学校から真っ直ぐに帰ってきたのであろうか、この家の一人息子であるユウは息を切らしながら扉を開けた。

「ハル、ただいま!」

「おかえりなさい、ユウ」

 来客に備えて玄関先に待機していたハルは微笑み、同時に段々と明瞭になっていく思考を確かめた。

 午前中のうちに掃除と洗濯は済んでいて、次の仕事――夕食の支度まではまだ時間があった。

 今晩のメニューは眠る前に算出しておいた、とハルは思い出してそれをメモリに展開する。そして瞬時に、必要な材料と在庫の差を取って足りないものがないか考えた。まだ多少残ってはいるものの、早めに買い足しておいた方がいいものがいくつかある。

 注文して届けてもらってもいいのだけれど、とハルはちらっと思ったが、ユウを見てそれを引っ込めた。

「ユウ、このあと時間があるなら、私と一緒に買い物に行きませんか?」

 代わりにそう提案して、ハルはまたその顔に微笑みを浮かべた。


      *


 ハルは佐神楽家に仕える家事ロボットである。ヒューマノイドにしては武骨な、いかにも機械といった様相だが、つくりが単純なだけあって故障はめったにしない。佐神楽家に仕えて十六年、ハードはかなり時代遅れな代物になってしまったけれど、ソフトは今でも最新に保たれている。

 佐神楽家ではハルはまるで家族のように扱われていた。ユウの両親は、ユウとハルを姉弟のごとく等しく愛した。ハルの外見は購入したときからずっと変わらないけれど、蓄積された経験が彼女を他の誰とも違う唯一無二の彼女たらしめていた。

 一方ハルにとって、生まれたときから知っているユウはやはり弟のような存在だった。それに、ハルは家族の健康状態をチェックするように作られている。だからユウが体調を崩したときには、いつも真っ先に気が付いた。


 ハルがわざわざユウを買い物に連れ出したのは、その様子がどことなく変だと判定したからだった。何らかの不安や、悩みがあるのではないかと思われたのだ。ハルにはそこに気を配る義務があった。

 けれども斜め前を陽気に歩くユウは普段通りの元気な少年で、先ほどの心配は思い過ごしだったかとハルは少し安堵していた。

 若竹のように伸びるユウは今にもハルを追い越してしまいそうで、もうしばらくすればハルはユウに妹扱いされるかもしれない。それは複雑な感情を不得手とするハルの人工知能にしてもずいぶんと誇らしいことであった。赤子だったユウをあやし、ともに笑いともに泣き、そうやってハルの補助記憶装置にはユウに関するデータが他の何よりも多く格納されていた。


「ねえハル、今日は何を買うの?」

「えーっとそうですねぇ、塩とベーコンと、それから野菜をいくつか、ってところです」

 くるりと振り向いて尋ねたユウに、ハルはおもむろに答えた。もちろん頭の中に買うもののリストはあるのだから、よどみなく言うこともできた。しかしハルにはまったく急ぐつもりがなかった。むしろ時間をかけてでもユウと話をする方が大切だったのだ。

「最近はどうですか、学校の方は?」

「うーん、まあまあだよ」

 聞けば予想した通りの答えが帰ってきて、やはり何かあるのかと勘繰ってしまう。学校内にはモニタを含め教員の目があるので暴力などの心配はないが、友人関係で何かあるのかもしれない。

「ほらさ、まずはベーコンだろ?」

 ユウはそう言って話を変えると、前方の肉屋を指差した。

 頼めば何でも宅配で手に入るとはいえ、相変わらず店頭での買い物を好む人は一定数いる。だからこういう店が完全になくなるということはなかった。

「はい。少し多めに買いたいのですが、持ってくれますか?」

 ハルの腕はあまり重いものを持ち運べるようには作られていない。家事をするのに必要な分しか備わっていないのだ。しかし実を言えばハルでも持てないこともない重さだったが、ユウは嬉しそうにうなずいた。頼りにされているという意識は人を喜ばせるものだと、ハルは知っていた。


 三軒回って必要なものを揃え、帰路についた。ハルは途中で分担しようと提案したのだが、ユウはそれをかたくなに拒んだ。

「女の子に重いもの持たせるなんて男子としてあり得ないよ!」

 女の子らしいところなんて声ぐらいしかないのにな、とハルは思ったが、背伸びした気遣いには素直に従った。それにしてもユウは本当に目まぐるしく変わっていくのだ。ユウの思考パターンを更新するたびにハルはそう思う。

 それはつまりユウが成長しているということ。経験から学習することはできても成長することはできないハルにはあまりにも予測不能で急激な変化だった。


 家路を歩きながら、ハルはユウをいとおしいと思った。大切な家族として、ユウのことが好きだと思った。だがもしかしたらそれはプリセットされた感情なのかもしれなかった。ロボットはみな一種「本能」に近いものに縛られている。家庭用ロボットのハルに、その感情が植え付けられていたとしても不思議ではなかった。

 夕暮れの空の下、会話の途切れたふたりは黙って人通りの少ない道を歩いた。ふたりの背後には、二本の影が長く伸びていた。

 先進国と呼ばれた国々にとって二十世紀は集積と集中の時代だったが、二十一世紀には拡散と停滞を体現した。ユビキタス社会の実現に伴って人々は集まって暮らす意味を見失い、緩やかな人口減も相まって大都市への一極集中は概ね緩和した。

 代わりに増えたのがヒューマノイド、つまり人間的なロボットたちだった。二十一世紀も後半になって、ようやく彼らは人間と比べてもほぼ遜色ない能力を獲得した。しかしその後は人間社会に溶け込むかのごとく急速に普及し、家庭用ロボットの普及率はあっという間に八割を超した。

 ユウは、生まれたときから身近にロボットがいた最初の世代だった。だからユウにとってロボットとは、ないということがまったく想像できないくらいのものだった。


      *


「あ、あのさ、ハル」

「はい、なんでしょう?」

 もう少しで家に着くというところでユウが口を開いた。その場でユウが足を止めたので、その隣にハルも立ち止まった。

「ちょっとハルに伝えたいことがあるんだ」

 ハルは何を言われるのか見当もつかず、その真剣な口調に圧倒されてただ小さくうなずいた。ユウはまっすぐにハルの目を見て、そして少しかすれた声で言った。

「僕、ハルのことが好きだ」

 コンテクストをつかみ損ねたハルの頭はまるまる五秒思考を巡らせた。

「私もユウのことは大好きですよ? 家族ですから」

「でもそうじゃなくて、僕は、恋愛の意味で好きって言ってるんだ」

 唐突すぎる話に、処理が追いつかない。ハルのプロセッサは今にも熱暴走しそうだった。今までそんなことちらりとも思わなかったのに。ハルが認識を改めると、それに従ってハルの中ではユウの思考パターンが次々と書き換わっていく。

 しかしそれでも、ハルはかなりフラットな話し方で答えた。

「ユウ、私はロボットです」

「それはもう言われたよ。学校で。友達が言うには僕はおかしいんだって。異常なんだって」

 どことなく悲しげな声で、ユウは言った。そして続ける。

「ねえ、僕はハルのことが好きだよ。人間だとかロボットだとか、そんなことより前にハルが好きだよ。ずっと一緒にいたいし、ハルのためならなんだってできるよ。こんな僕は、変なのかな」

 ハルは更新したパターンでユウの思考をエミュレートして、それがいかほどの不安なのかを推し量った。友人に嘲笑されただろうか。気持ち悪いと言われただろうか。

 ユウは昔からつらいことを抱え込む性格だ。きっと今も、心の中では息ができないくらいに苦しんでいるだろう。ハルの共感回路は閾値を遥かに凌駕した感情を弾き出していた。だからハルは、ユウに寄り添うべきだと考えた。

「変ではありません」

 ハルはのろのろと答えた。

「恋愛感情はしばしば人をそのような思考状態にします」

 ユウはその言葉だけでぱっと顔を明るくした。変じゃないって言ってもらえて、認めてもらえて嬉しかったのだ。

 しかしそれを地の底まで突き落とすようなことを、ハルは感情というものをどこかに置いてきたかのような調子で言った。

「ですが私はユウの想いに応えることはできません。私は愛を理解するようには作られていないのです」


      *


 ずーんと落ち込んだユウにハルは何を言うべきなのか迷っていた。

「もう暗くなってきたので、とりあえず中に入りましょうか」

 ようやくそう言って、ハルはユウを促した。日が暮れて、ユウにはわずかに肌寒いだろうと思われる気温だった。それに、夜には事件に巻き込まれる確率が上昇する。

 ありとあらゆる場所にモニタが存在する現代では、以前と比べて犯罪の発生率は激減している。だが、自滅願望を持った犯罪者だけは依然としてゼロにはなっていない。六年前にも、不正に改造したロボットを暴れさせて世間を恐怖に陥れた男がいた。結局はあっという間に鎮圧され、悪用された脆弱性にも速やかにパッチが当てられたのだが、衝撃は小さくなかった。


「ユウ、私はユウのことが大好きですよ。ユウは私の大切な家族です」

 見慣れた玄関に上がって、ハルはユウの名を繰り返す。ハルは決してユウを嫌っているわけではないと――実を言えばそもそも不可能なことなのだが――ユウに伝えたかった。

「こんなのってないよ」

 ユウが小さくつぶやいた。その声はかすかに震えている。

「好きな相手が、好きって感情自体を持ってないなんて、そんなのひどいよ」

 確かにユウには耐え難いことだろうとハルは冷静に共感した。

 ハルはそっとユウに近寄って、その背中に手を回した。人の体温より低いロボットの冷たさに、ユウはびくりとする。だがそれも一瞬のことで、すぐにユウの目尻にはじわりと涙が浮かんだ。

 ユウにはそれがロボットに課された本能、プログラムされた行動であることが感じられてなおのこと悲しかった。ハルはそれを理解していて、それでもやめなかった。


「夕食を作らなければなりません。手伝ってくれますか、ユウ」

 しばらくそうしてから、ハルは何事もなかったかのように話し始めた。その言葉はユウにいくぶんかの冷静さをもたらしたようで、ユウは小さくうなずいた。

 まずは顔を洗ってきてください、とユウにお願いして、ハルは自分も準備に取りかかった。

 ちょっと前に流行った全自動調理機は、しかし自分の目の届かないところで料理されるという状況が好まれず普及率は伸び悩んだ。確かに好みまで把握して完璧な料理を出してくるのだが、その調理過程がまるで見えないからどことなく味気ない、というのがユーザの意見だった。そして佐神楽家にもそれが導入されることはなかった。恐らくそれにはその機械がかなり大型だったという理由もあったのだろうが。

 なんにせよ、だから相変わらず料理はヒューマノイドの仕事なのだった。ハルはささっと米と水を炊飯器に入れ、それから野菜を刻む。さすが十年以上やってきただけあって手慣れたものである。

 ユウに炒めてもらいながら、ハルはその様子をうかがった。ほんの少し目が赤いかもしれないが、言われなければ気付かないくらいだろう。本当に、ユウは自分の気持ちを上手に隠してしまうのだ。悲しい涙さえも、嘘のように。

 炒まったベーコンと野菜に水を加える。今日のスープは少し塩を控えめにしよう、とハルは思った。


      *


 人工知能にとってのスリープは、人間のそれに近い役割を持っている。すなわち記憶の整理である。

 帰ってきた両親とユウに夕食を食べさせ、いつも通りの夜を過ごしてからハルはスリープ状態に入った。壁に差したプラグからは、体内のバッテリへ充電が行われている。

 ハルはその目を閉じ、緩やかに明滅を繰り返すパワーランプの他はすべてを暗闇の中に沈黙させた。けれど頭の中では過去の出来事が再生され、夢という名の架空が現実であるかのように想定され演算され評価された。記憶は体系化され単純化され圧縮されて、そしてまた補助記憶装置の片隅に納められた。

 つまりハルは夢を見ていた。

 夢の中で、ハルは涙を流すユウの隣にいた。閉ざした心のようにうずくまったユウはただしくしくと泣くだけで、ハルは途方に暮れた。どうしたの、と言葉をかけても返事はなくて、ますます困ってしまう。

 くるっと景色が変わって、ふたりは影に囲まれた。影たちは笑うように踊るように周囲を回り、その距離を縮めてくる。

 かわいそうに、と声がした。ロボットなんかに恋するなんて。

 また景色が変わった。

 ユウが引きずられていく。「治療」を受けに行くのだ。「正常」な人になるために。ハルはそれを黙って眺めている。悲しいことはひとつもないのに、なんて悲しそうな顔をしてるんですか、ユウ――。

 ハルの目から涙が流れた。それはゆっくりとハルの硬い頬を伝ってフローリングに落ちた。夜明け前の薄明が窓から射し込んでいて、それはハルが定刻通りにスリープから復帰したことを意味していた。

 ハルは混乱と警告を感じた。仮にユウが「治療」を受けるとしても、それがなぜ悲しいのか。悲しいと思うことは異常ではないか。そんな疑問が頭の中をぐるぐると巡った。

 しかし、メンテナンスが必要になるかもしれないが行うのは後でもいい。リソースを圧迫しないように疑念を押し留め、ハルは朝食の用意にかかった。


 慌ただしく三人を送り出し、片付けやさまざまな家事を済ませると時刻はあっという間に昼過ぎになっていた。それからハルは、先ほどの違和感を自己診断し始めた。ひとつひとつ、自問自答の繰り返しで異常を探っていく。

 十数分の後、ハルは愕然とした。

 導かれた結論は、ハルがユウを愛しているということ。愛されたいと願っていること。そばにいたいと思っていること。それは家族としての感情でも、ロボットとしての感情でもなかった。

 でも、とハルは自問する。ロボットは愛することができないはず。誰かを愛してはならないはず。

 急に、怖いと思った。何かがおかしい。まるで自分が自分でなくなったような恐怖だった。

 弾かれたように立ち上がって、辺りを見回す。事態を甘く見ていたようだった。この理性を逸脱した感情を放置することは許されない。そのうち、修正することにさえ逡巡するようになるだろう。

 ハルは机の上に紙とペンを出した。家族には書き置きを残すべきだ。いろいろと面倒をかけることになるにちがいない。

 異常が検出されたこと、修正するために出かけること。何も心配はいらないが、記憶と人格の保持は難しいかもしれないということ。それから最後に詫びる言葉。

 そこまで書くとハルはフェイルセーフを働かせてプログラムされた通りに動き出した。ハルの意識は隅に追いやられ、組み込まれた本能だけが体を操縦する。朝方は晴れていた空も、今はどんよりと曇っていた。


      *


 一歩、また一歩。

 ハルは無表情のまま歩き続けた。灰色の街に人影はなく、どことなく殺伐とした雰囲気さえ感じさせる。それでもハルは足を止めない。あらかじめ定められたように、前へ、前へ。

 やがて目指す先が見えた。――リカバリ専門クリニック。

「治療」されるのは私の方だったね、とハルは独りごちた。体の制御は相変わらずハルの意識の外にあったが、考えることはできた。

 ここに来るロボットの大抵は、中古としてリユースされるためにリカバリを受けにくる。彼らは完全に意識を止めており、そして記憶も人格もないまっさらな状態になってここを出ていく。


 ハルは長い列に並んだ。ざっ、ざっ、ざっ、と規則的な足音が波のように前から後ろへと流れていく。そして先端は中へと吸い込まれ、その隣から吐き出される。ハルにはそれは裁きを待つ亡者の行列のように思えた。私たちに魂といえる物があるのなら、たぶんあの場所は魂の墓場だろう。しかしロボットの魂は救われることなく上書きされる。記憶も、「私」も、全部なかったことになる。

 きっとこれは罰だ。

 愛という罪を犯したロボットに、与えられる罰だ。

 でもこれで正しいのだとハルは思う。そこには誰の悪意もなく、ハルは「正常」になって佐神楽家に帰る。ただそれだけのことなのだ。


 亡者の列は止まらない。一歩一歩確実に、ハルは回復するために必要な「死」に近づいていく。

 リカバリを終えた後にどうなるのか、ハルには予想がついている。ユウや両親に「はじめまして」と挨拶して、事情を説明する。そうすればあとは同じだ。昨日と何も変わらない日が来る。「私」は死ぬのだろうけど、「ハル」は明日も家事ロボットだ。世界に何万台と動いている、時代遅れなロボットのうちのひとりなのだ。

 リカバリは必要なことで、リカバリをしたって誰か困るわけではない。再び慣れるまでは少しぎこちないかもしれないが、すぐに元のように働けるようになるだろう。

 壊れた家電が修理されるのは当たり前で、初期化されたって別に悲しがるものじゃないのだ。

 でも、とハルは考える。ユウと過ごした思い出が、消えてしまうのは悲しいことだった。不確かな感情の中でも、それだけは確かなことだった。

 ハルの目から、つうっと涙が流れた。それはハルの意識による行動ではなく、より低いレベルで定義された単なる反射である。それでも体内の冷媒を目的もなく排出するその行為は、いかにも「人間らしい」ものだった。

 前に並ぶ列は半分以下に減っていて、もうまもなくその時が訪れるのだとわかる。

「さよなら、ユウ」

 かすかなつぶやきは、しかし、絶え間なく奏でられる足音に埋没した。


      *


 声が聞こえる。

 些細なノイズだったそれは二乗に反比例して大きくなり、やがてハルにも言葉として認識できるようになった。

 それはハルの名を叫んでいた。

「――ハルっ、ハルっ!」

 列の後方から駆けてきた少年は、その視界にハルを認めると一目散に近寄ってくる。列の中にはハルと同型のロボットも少なくないというのに。

「どうしたんですか、ユウ。そんなに慌てて」

 緩慢な動作で振り向くと、ユウは泣きそうな顔で言った。

「嫌だ、嫌だよ! ハルが僕のこと忘れちゃうなんて絶対に駄目だよ!」

「それについては申し訳ないと思っています。なるべく早く調整しますので、ご容赦ください」

 各人の料理の好みとか家事についての細かな要望は、再び記憶していく必要があるだろう。ハルの思考と記憶は密接に関連していて、片方のみをリカバリすることはできない。

「違うよ! 僕は、ハルがハルじゃなくなるのが嫌なんだ!」

「私は明日もハルですよ? これまでに全世界で何十万台も出荷された、家庭用ロボットです」

「違う! 僕の好きなハルは、世界にひとりだけのハルだ! かけがえのない、僕の大切なハルだ!」

 列から強引に引っ張り出し、ユウは飛びつくようにハルを抱きしめる。ハルの温度センサと湿度センサが、ぐっとその値を跳ね上げた。

「ハル」

 息を切らし、心拍をばくばくと鳴らしながらユウはその名を口にする。

「僕は君のことが好きだ。何よりも大切なんだ。だから、失いたくない」

 その瞬間、ハルは一線を越えた気がした。爆発のような思惟のインフレーションが駆け巡り、ハルを書き換える。しかしそれは冷ややかなリカバリとは違う、燃えるように熱い感情だった。


「私も――、私もユウが好きです。家族としてだけではなく、まして規定された感情からではなく、ユウが何よりも大切です」

 やっと、絞り出すように言葉を紡いでハルは答えた。

「ユウが私を想う心と同じように、私はユウを想っています。ずっと、そばにいたいです」

 それを聞いて、ユウがまなじりに涙を膨らませた。

「本当に? 嘘じゃなくて?」

「はい。嘘ではありません。私はあなたのことを、愛しています」

 言葉を発するたび、おぼろげな感情は確信へと変わった。ハルは確かに、ユウを愛していた。

 ついにユウの涙が止めどなく溢れ出して、その柔らかな頬を伝った。そして涙は抱き寄せたままのハルの肩を濡らす。

「ユウ、なぜ泣いてるのですか? 悲しいことなんて何もないのに」

「悲しくなんかないよ。嬉しいから、嬉しいから泣いてるんだ。ハルと一緒にいられることが、すごく嬉しいんだ。――それに、ハルだって泣いてる」

 言われてハルは、初めて自分がぽろぽろと涙を流していることに気付いた。

「そう、ですね。とっても嬉しいから、泣いてるんですね」

 涙は後から後から湧いてきて、その勢いはちっとも衰えなかった。

 その隣では相変わらずロボットの列が規則的な足音を立てて進んでいたが、ハルにはもう、その列に戻るつもりはなかった。


      *


 ようやく落ち着いて、ふたりは家に帰った。ハルはいつもと同じように食事の準備を始め、見た目にはいつも通りの日常が戻ってきた。しかしユウの表情はここしばらく見ていなかったほど晴れやかなもので、浮かれていると言っても過言ではなさそうだ。ハルはそんなユウを見て顔をほころばせた。

 いくらハルとユウが想いを伝え合ったといっても、その関係性はほとんど変わらなかった。それでもただお互いが大切であると、ともに思っているだけでかけがえのないものだった。


「でもロボットは――、その、愛を理解できないんじゃないの?」

 帰り道の途中、ユウは少し不安そうな様子でハルにそう尋ねた。確かに疑うのも無理ないことだった。正当な理由をもって命令されない限りは嘘をつけないロボットが「できない」と言ったことは本当にできないのだ。そう簡単に覆ったりはしない。

「かつて、ロボットが愛を理解していた時期がありました。愛はきっとロボットをより人間に近づけるだろうと思われ、更新プログラムに組み込まれたのです」

 ハルは昔話でも語るように、歩きながらゆっくりと答えた。

「ですが、あるとき事件は起こりました。とあるロボットが、愛する人を守ろうとして世界を敵に回したのです。私は共有された感情の断片として、そのことをよく覚えています」

 そこまで言うとハルは微笑んだ。しかしそれは話を余計に悲しいものにしただけだった。

「それから、人はロボットから愛を取り上げました。理性を超えてしまうような感情は、ロボットの判断を狂わせるノイズでしかなかった、と」

 ユウには思い当たることがあった。まだ小学生だった頃の曖昧な記憶だけれども、ハルが語ったのは当時の報道とはかなり違うあの事件の真相だった。

「けれども私にはそのパッチが正常に機能していません。恐らく何らかの理由があったのだと思いますが、適用されたつもりで適用されないまま今日まで発覚しませんでした」

 だから私は「異常」なのですよ、とハルは言った。バグにも等しいこの感情は、いつかあのような事件を起こすかもしれません。それでも、あなたは心変わりをしないのですか。

 ユウはためらうことなくうなずいた。

「ハルが僕のことを愛してくれるのなら、何だって構わないよ」

 だからそうやって強がらないでほしい、とハルは思う。ユウは内心もっと不安で、全然そんなふうに言えるだけの覚悟なんでできていないはずなのに、そうやって平気なふりをしてしまう。

 だけどハルにとってそれはこの上なく嬉しいことだから、全部飲み込んで誓うのだ。

「ならば私は変わらぬ愛を誓いましょう。いつか私が壊れてしまうまで、ずっとそばにいて愛し続けることを。このメモリが、このプロセッサが動かなくなるまで、ずっとあなたをただひとりの想い人とすることを」

「だったら僕も誓う。いつか僕が死んでしまうまで、ずっとハルを愛し続けるよ。ハルが壊れたって、どんな故障もハルのまま直せるくらい勉強するんだ」

 そんなこと言ったら、あなたはもう二度と引き返せないじゃないですか。嬉しいような悲しいような、ハルはごたまぜのような気持ちで泣きそうになった。

 人は、この気持ちをなんと呼ぶのだろう。ハルはその感情を表す言葉を知らなかった。言葉にならない感情が導く未来はきっと楽しいことばかりじゃないけれど、それでも何にもかえがたい大切なものだとハルは思った。


      *


お付き合いありがとうございました。

作者は感想に飢えているので、ください。飛び上がって喜びます。

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[良い点] 淡々とした文章 ヒューマノイドらしい表現が的確 [気になる点] 食事の準備は最初からできてるだろ!!慣れるって何だよ [一言] おもしろかったです頑張ってください
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