09.デュラハーン
「旦那様。ダントン夫人がお見えです」
ある日の午後、マーカスがそう言っているのが聞こえた。夫人、ということは女性で、人妻なのだろう。ディーンにどういった用事なのだろうか。
ジリアンとディーンは、使用人たちの手前同じベッドで眠ってはいるが、もちろん身体の関係はない。それに、近頃はジリアンが眠りに入った頃に部屋へやって来て、そっと隣へ潜りこむ。そしてジリアンが起きる頃にはまだディーンは眠っている。
彼は一度だけ夜に出かけ、お酒のにおいをさせて帰ってきたことがあるが、あれはやはりどこかで女性を買ってきたのだろうか。それとも、買うまでもなくそういう相手がいるの? それが、ダントン夫人……の訳はないか、とジリアンは考えた。昼間に堂々と訪ねてくるような相手が、そういう関係の筈がない。
「ジリアン。紹介するよ。幼馴染が来てるんだ」
すると、ジリアンのいる暖炉の間へディーンが女性を連れて入ってきた。
「幼馴染?」
「ルイーズ・ダントンよ。よろしくね」
その女性は、はっとさせられるほど美しかった。淡い金髪を緩めに結い上げており、洒落たドレスを身に纏っている。陽だまりのような柔らかな笑みを向けられ、ジリアンはなぜだか慌てた。
「ジリアンです」
「聞いているわ。ディーンの、奥様になった方よね」
「彼女は、俺と、兄と、このラガリエで一緒に育ったようなものだ。俺より三つ年上で……」
「ちょっと、年齢の話はやめてくださる?」
ルイーズはやんわりとディーンを小突き、「ほんと、失礼よねえ」とジリアンに少女のように笑いかける。そのさまは、女のジリアンがぼうっとしてしまうほど可愛らしかった。
「それから、これはお土産よ。主人の仕事について、リゴート地方へ行って来たの」
彼女はそう言って美しいレース編みを差し出した。
ルイーズの夫は、骨とう品や珍しい雑貨を各地で仕入れ、そして売るという仕事をしているのだそうだ。行き先によってはルイーズも同行して、旅行を楽しむらしい。
「では、色々な場所に行ったことがあるんですね」
「ええ。今回はセルヴィナからポートクリオンを経由して、リゴートまで行ったのよ。昨日、ラガリエに戻って来たばかりなの。あなた達の結婚式に参加できなくて悪かったわ。ずっと、出かけていたものだから」
プロヴリー国内ではあるが、いずれも遠くの場所だ。ジリアンも地名だけは知っているが、行ったことは無い。
「ポートクリオン? じゃあ、俺の新しい噂が流れてなかったか?」
「なあに? あなた、また何かやったの」
「また、って……言っとくが俺がやらかした訳じゃないぞ」
ディーンが友人から伝え聞いた話では、彼は戦場で部下に捕虜を虐待させて、それを見ながら酒を飲んでいたのだとかいう話が、港町のポートクリオンで流れているらしいのだ。なかなかに悪趣味な噂である。
この屋敷に嫁いで二週間ほどが経過したが、今のところディーンからそのような残虐性は窺えない。たしかに無骨で野暮な所はあるが、噂で聞いていたような恐ろしい人間だとは思えなかった。
だが、女性に関しての話はジリアンにはまだ判断がつけられない。このような美しい幼馴染と目の前で親しげに会話されては、なおさら。今の様子からして、ルイーズはディーンの噂を全く信じてはいないのだろう。その上で軽くからかっているだけだ。
三人は暖炉の間でエリンの運んできたお茶を飲みながら話していたが、マーカスがディーンを呼びに来たのを機に、ジリアンとルイーズは廊下に出た。
歴代侯爵の肖像画を見て歩きながら、話を続ける。
「クライヴの事は、本当に残念だったわ。いいえ、アーサー様の事もよ」
ルイーズは二十三代目ハーヴェイ侯爵、クライヴの肖像画の前で足を止めた。
ディーンとはまるで違う、知的な雰囲気の男性である。父親のアーサーも、どちらかと言えばクライヴ寄りの空気を醸し出していた。飽く迄も肖像画から分かる事でしかないが。
「続けてハーヴェイ侯爵が亡くなるなんて、ルイーズ様もお辛かったでしょう」
「ええ。ディーンとクライヴのお父様……アーサー様は、小さなころから私にも良くしてくださって。去年の今頃は本当にお元気だったのよ」
「私、前々侯爵は病死だと聞いているのだけど」
詳しい話は何も知らない。すると、辺りに誰かいる訳でもなかったが、ルイーズは少し声を落とした。
「冬の寒い日に、たちの悪い風邪をお召しになったのよ。どんどん悪化して、最後の方はベッドから起き上がることも、喋ることも出来なかったわ。私、アーサー様のお見舞いに、何度かこの屋敷を訪ねたのだけれど……本当に、見ていて辛かったわ」
そして長男のクライヴが爵位を継ぎ、四か月経つかどうかという時に、彼は落馬して帰らぬ人となった。
「ただでさえ大変だという時に……いいえ、大変だったからこそでしょうけれど、今度はキャロル様があのようになってしまったでしょう? それに、使用人たちもいなくなってしまって……。ジリアン様、どうかディーンを助けてあげてね」
「え、ええ」
でもジリアンは三年後に離縁する。
この話が出た時はこの屋敷から解放されるのだと、少し心が軽くなった。だがそれはディーンを置いて自分だけ逃げるという事でもある。なんだか心苦しい。
「ハーヴェイ家がこのような状態だし、ディーンには悪意ある噂がついて回っているでしょう? だから、彼のお嫁さんになりたい女性はいるのかしらって、心配していたのよ、私」
「それは……」
ジリアンはディーンの妻になりたかったわけではない。
「ええ。国王様の命令なんですってね。だから断り辛かったのでしょうけれど……あなたのような美しい人を奥様にできて、ディーンも鼻が高いのではないかしら」
ルイーズはそう言ったが、彼からそのような様子は全く窺えないし、彼はジリアンを欲しがってもいない。屋敷の事が上手く回るように時折相談めいたものは行うが、それだけだ。
ふと視線を感じたような気がして、ジリアンは振り返った。
後ろには誰もいなかったが、ずらりと並んだ肖像画の一つと目が合ったような気がする。
それは、初代ハーヴェイ侯爵の肖像画であった。顔立ちはディーンと似ている訳ではないが、黒い髪は一緒だ。男性にしては髪を長めにカットしてあるが、当時の流行りだったのだろうか。
「…………。」
ジリアンは初代ハーヴェイ侯爵の肖像画に見入った。ルイーズが首を傾げる。
「どうなさったの」
「いえ、あの……」
こんな事を言っては笑われるだろうか。飾られている歴代侯爵の顔をすべて把握しているわけではないが、初代ということでわりと強く印象に残っている。彼──初代ハーヴェイ侯爵──は、以前見た時よりも、
「髪が伸びてるわ」
「えっ」
「初代侯爵……前に見た時は、もっと髪が短かったように思えるのよ」
「で、でも……そうだわ。初代侯爵の肖像画は二枚以上あるのでは? きっと、誰かが別の絵に替えたのではない?」
ルイーズは軽く動揺を見せた。ジリアンと恐怖を共有したのか、妙な事を言い出したジリアンに引いたのかは分からないが、もっともらしいフォローをしてくれる。
「いいえ、でも、表情は前に見たものと一緒だわ」
「けど……肖像画の表情って限られるものだし……」
ルイーズの言う通りかもしれない。だが、使用人も殆どいない状態の屋敷で、悠長に壁の絵を取り替えようなんて思う人間がいるだろうか。
その時、廊下の角に置かれた観葉植物の影から、ナタリーが現れた。
今の話が聞こえていたのだろうか。彼女はジリアンをあざ笑うようにククッと喉を鳴らし、意味ありげな視線をくれてよこして、そしてまた消えた。
「実は私、ナタリー様って、苦手なの」
ルイーズがこっそりと耳打ちしてくる。その様子はまるで悪戯を白状する小さな子供のようだったので、ジリアンは思わず微笑んだ。
「むしろ、彼女が苦手じゃない人って、いるのかしら」
ジリアンが答えるとルイーズもくすくす笑う。
「彼女ってほら、洗練されていない人を嫌がるでしょう? 私、昔から避けられていたのよ」
「ルイーズ様が洗練されていないですって? そんな馬鹿な」
艶のある髪は流行りの形に結ってあるし、ドレスは品がよく、装飾品は控えめでありながらもルイーズ本人を引きたてて見せている。だがルイーズは笑いながら首を振った。
「私の実家は、いくつか宿を経営しているの……それで、私自身も商人に嫁いだから」
「それだけで? ああ、でも私も平民の血が混じってるって、彼女に言われたのだったわ」
「まあ、あなたも言われたの?」
二人は顔を見合わせて笑った。こんな風に陰口で盛り上がるのは趣味が良くないと分かってはいるが、対象があのナタリーなのであまり心は痛まなかった。
「私はまだ良いけれど、あなたは同じ屋敷に住んでいるんですもの。きっと、大変よね。何かあったら相談してちょうだいね。愚痴でもなんでも聞くわよ」
「ありがとう、ルイーズ様」
「それからどうか、私の事はルイーズと呼んでね。私もあなたをジリアンと呼んでもいい?」
「もちろんだわ」
ルイーズはまた遊びに来るといって、この日は帰って行った。この領地内のそれほど遠くない場所に、夫と二人で住んでいるらしい。
素敵な女性と知り合いになれて、しかも年齢もそれほど離れてはいない。心躍ったが、彼女はジリアンが離縁するつもりなのだと知ったら何というだろう。もちろん表向きは子に恵まれなかったのだという事になるが、ルイーズと仲良くすればするほど、彼女を裏切っているという気持ちが大きくなってしまうだろう。
ルイーズを見送ったジリアンが暖炉の間へ行くと、キャロルが揺り椅子に座って居眠りをしている。ひざ掛けが床に落ちてしまっていた。
夏のはじまりとはいえ、陽が落ちてくるとぐっと冷え込む。ジリアンはひざ掛けを拾い、そっとキャロルの足の上に乗せてやった。
それにしても、人の気配は殆どなく、本当に寒々しい屋敷だ。
そう思いながら大きな暖炉に目をやった。これに火が入ったら、少しは温かい雰囲気が醸し出せるかもしれない。マントルピースの上には、絵皿や小さな額縁が飾られている。その中に、この屋敷を描いたらしいものが混ざっていた。
いつぐらいに描かれたものだろうと、暖炉の方へ歩いて行こうとすると、ジリアンが一歩を踏み出す前に、その額縁がぱたんと倒れる。
飾る場所が安定していなかったのだろうか。ジリアンは前のめりに倒れた額縁を手に取り、端の方に画家のサインやこの絵を描いた日付があるのではないかと、ひっくり返した。
額縁の中の絵は、この屋敷を描いたものであった筈である。
それがなぜか、戦場の絵に変わっていた。骸が重なり合い上空をカラスが飛ぶ中に、首のない騎士がいた。
「キャアッ」
ジリアンは悲鳴を上げ、額縁を投げ出した。
「ジリアン様!?」
声を聞きつけたらしいエリンがどこからか走ってやって来る。次いで、ディーンとマーカスも現れた。
「どうなさったんです、ジリアン様!」
「エ、エリン……あ、あれ」
ジリアンはラグの上に投げ出された小さな額縁を指さした。
裏返しに落ちているが、拾う勇気はとてもない。エリンが不思議そうな顔をしつつ、それを拾おうと腰を屈めたので、ジリアンは止めた。
「エリン、だめよ。それには首なし騎士が……」
「はあ? 何言ってるんですか、ジリアン様?」
額縁に入った絵を触ったところで何かあるとも思えないが、とにかく気味が悪い。エリンにも触れてほしくなかった。
「首なし騎士だって?」
そう言いながら、一歩前へ出たのはディーンであった。
「そんな悪趣味な絵が飾ってあったのか?」
彼は裏返しに落ちた額縁の所まで行くと、じっとそれを見下ろした。それから、覚悟を決めたようにごくりと喉を鳴らし、額縁を拾う。
暖炉の間は静まり返り、キャロルの座る揺り椅子だけがキィキィと小さく軋んでいた。
「……ハーヴェイの屋敷を描いた絵のようだが」
ディーンは手に持った額縁をこちら側に見えるようにした。
それはジリアンが最初に目にした絵であった。
近寄ってよく見てみても、首なし騎士どころか戦場の絵ですらない。
「そ、そんな。私、確かに……」
いったい、何と見間違えたのだろう。
「ジリアン様、ひょっとして、お疲れなんじゃないですか? もう、今日は休みますか?」
エリンは心配そうな顔つきでこちらを窺っている。
周りを見ると、マーカスはぽかんと口を開けているし、ディーンは何とも形容しがたい表情で額縁を見つめていた。
そういえば、昼間も肖像画の髪が伸びたように見えたのだった。やはり自分がおかしくなっているのだろうか。ハーヴェイ家にやって来て約二週間だ。エリンの言うとおり、疲れが出てきたのかもしれない。
「ご、ごめんなさい。私……」
ジリアンが疲れを認めようとしたその時、
「あいつだよ! あいつがやったんだ!」
いきなりキャロルが叫んだ。皆ぎょっとしてそちらを見る。
「ばあ様?」
いつの間にか起きていたキャロルは、揺り椅子の肘掛けをぎゅっと掴んで、どこともつかぬ宙を見つめながら叫んでいた。
「わたしゃ、知ってるんだよ! あいつが、あいつが殺したんだ! アーサーもクライヴも、あいつのせいで死んだ!」
ディーンがさっと顔色を変え、キャロルの元へ走り寄る。
「ばあ様。あいつって……誰なんですか? 父さんも兄さんも、誰かに殺されたって言うんですか? ばあ様、教えてください!」
「ああ……エディ、エディ。ブキャナンさんのところでご馳走になったウズラの丸焼き、あれは美味しかったねえ……」
「ばあ様……」
急に覚醒したかと思われたキャロルの口調は、再びのんびりしたものへと変わる。
ジリアンは自然とエリンと抱き合う形になっていた。首なし騎士の絵画を目にした時よりも恐ろしいものを見てしまった気がしたのだ。エリンも肩が震えている。
キャロルの言葉が正しいものなのかどうかは分からない。思い込みを口走っただけかもしれないし、思い込みですらない単なる言葉の羅列かもしれない。
彼女の口からこれ以上何も聞けないと悟ると、ディーンは手に持っていた額縁をマントルピースに戻した。
そこにくすくす笑いが響いて、キャロル以外の皆が、びくっと振り返った。ナタリーである。彼女はいつものように背筋をしゃんと正して佇んでいた。扇子で口元を隠してはいるが、笑いが止まらないと言った様子だ。
「首なし騎士ですって?」
そう言って額縁とジリアンを見比べる。
「貴女、先ほども肖像画の髪がどうとか言っていたみたいだけれど」
ジリアンはぎくりとする。あの時も今も、ナタリーに一部始終を聞かれていたのだろうか。この状況でこれ以上糾弾されては、いよいよ自分の頭がおかしくなったみたいではないか。
だがナタリーは、ジリアンが思いもしなかった事を告げた。
「やはりあの言い伝えは、本当だったのねえ」
「い、言い伝え、ですって?」
「ええ、そうよ。ハーヴェイ侯爵家に相応しくない人間がこの屋敷に入ると、祖先の亡霊が怒って追い出そうとするのですって」
話に乗ったジリアンに、ナタリーは嬉しそうに瞳を狭める。
「そ、それって……相応しくない人間って、私の事ですか?」
「だって貴女には平民の血が混じっているんですもの。きっと、祖先の霊もお怒りよねえ」
ナタリーは高笑いしながら扇子をゆったりと動かし、そして暖炉の間から去って行った。
その間キャロルはむにゃむにゃと口を動かしていたが、
「ああ……また」
ナタリーの姿が消えたと同時にはっきりとした口調で喋った。
「また、誰か死ぬよ」




